終戦の日なので、 ではネタにされるのが嫌で呟かなかった事をメモとしてここに書き留めて置く。
母方の祖父は視力がビン底眼鏡くらい悪かったのもあり赤紙が来ることは無かったそうなのだが、所謂「田舎の秀才」で現在の山形大学工学部にあたる学校を卒業した後に満州で働いたと聞いていた。
本当かどうか長いこと分からなかったのだが、ある時「国立国会図書館デジタルコレクションで祖父母や先祖の名前を検索すると色々な事が分かる」と聞き、ふと祖父を思い出しやってみた。すると意外な事実が次々と判明した。
確かに祖父は山形大学工学部の前進である米沢高等工業学校を卒業していた。その資料は卒業生の名と就職先が記されていたのだが、祖父の働いていた企業が大変興味深いものだった。南満洲鉄道株式会社の傘下となった鞍山製鉄所、当時は名を変え昭和製鋼所に勤めていたのである。
母にその事を話した所、祖父は満州時代の出来事をほとんど話したがらなかったそうなのだが、祖母が生前に知っている範囲で色々と話してくれたことがあったという。
それは経済学者の隅谷三喜男が「満州労働問題」として研究していた、過酷な労働者環境の実態を孕んでいたものだった。(1/3)
祖母が記憶していたのは終戦数ヶ月前、いつもより早い時間に祖父が帰宅したかと思いきや開口一番「会社は辞めた、日本へ帰ろう」と言い出したという。
長男が生まれたばかりで何を言っているんだと思ったそうだが、祖母は「この人は昔から頭がいい。きっと何かを察して帰ったほうがが息子のためにもなるのだろう」と思い、大人しく従ったのだそうだ。
そして帰国をしてからあっという間に終戦。親戚や知人はこの祖父の行動に虫の知らせだのと褒めそやしたそうだが、祖母は一貫して「あの人はね、分かっていたんだと思うよ」と話していたという。
終戦後、祖父は満州時代の経験を一切捨て地元の数学教師の道を歩んだ。祖母曰く「平和になっても腐った上司は居るだろうから」企業で働きたくはなかったらしい。
真面目だったという祖父が話したがらなかった、昭和製鋼所の記憶の一端を垣間見た話。(3/3)