竜血は、イシュガルドの人間が摂取するとその身を竜に変える劇薬でもある。それはフレースヴェルグの言った通り、イシュガルドの人々がラタトスクの眼を食らったトールダンとその麾下の末裔だからだ。彼らの血に流れる竜の因子に竜血が反応して、竜に変貌する。
イシュガルドの人々に竜の血を飲ませ、自らの軍門に降らせる、それがニーズヘッグの目論見だとフレースヴェルグは語っていた。
また、ニーズヘッグは、己の眼を雲海に投げ込もうとするエスティニアンに対して次のように語りかけていた。
「長らく、我が眼の力に触れ、さらには全身に我が血を浴びながら、よく耐えてきた」
要するに、(イシュガルドの)人間が竜の血を身に受けるというのは、多かれ少なかれ竜に接近すること、人間という存在を離れて竜という存在に接近すること、を意味するのだと思う。
竜の眼の力を用いることは、眼の持ち主の精神への接近を意味する。エスティニアンはニーズヘッグの眼を何度も使い、そのことによってニーズヘッグの精神と接近し、これに乗っ取られることになった。
ならば竜の血を身に受けることは、人間の肉体を離れて竜の身体に接近すること……を意味するのかもしれない。そんな風にも想像できる。
ニーズヘッグがエスティニアンの身体を乗っ取ったのは、ある意味では苦肉の策、逆襲の策だった。見方を変えれば、竜はそこまで追い詰められでもしないかぎり人間になろうと思わないのだろう。
そこにあるのは竜と人間の根源的な非対称性だ。人は竜を畏れ、憧れもするが、竜は人に対してそのようではない。竜は人より強い。少なくとも「蒼天のイシュガルド」における竜と人間の力関係はそのようなものだったと思う。
ニーズヘッグは限りなく弱められたからこそ、今まで考えもしなかった「人に接近する」ことを試みた。その結果邪竜の影が生まれ、エスティニアンはニーズヘッグの心を、もう一つの我が心のように理解することになった。
エスティニアンが竜血を浴びた人間であるというのは、単に彼が竜を屠った人間であるという意味に留まらない。彼が浴びた竜血とはニーズヘッグの血であり、それはその時の彼にとって仇の血だったのだが、その一方で彼や彼の属するイシュガルドの人々が、千年をかけて「接近」してきた存在の血でもあった。
そしてその「接近」の最後の一歩を、ニーズヘッグの方から詰めてきた。そこで人と竜とが重なり合って、邪竜の影が生まれた。
考えてみると、イシュガルドの竜騎士達が身にまとうドラケンメイルは、確か竜の血を塗ることによって強化されていた。
竜の血によってどのように強化されているのかと考える時、出てくる答えは一つだ。恐らく、竜の身体のように硬く丈夫になるのだろう。
トールダンと建国十二騎士を始祖とするイシュガルドの人々に、初めから竜に対する欺瞞が抱え込まれていたのと同じように、竜騎士という存在自体が実は矛盾を孕んだ存在なのではないか……とぼんやり考える。
龍を狩るための存在でありながら、竜と渡り合うために空を跳躍し、鎧に竜血を塗り、竜の眼の力を利用する。
それは人が竜に限りなく近づこうとする道程に見える。竜騎士とは竜を屠る者だった筈なのに、いつしか竜に近似した存在になっている。
「蒼天のイシュガルド」で描かれたエスティニアンの物語というのも、結局のところその究極形だ、と言えるだろう。
けれど彼の人生に不可思議な点が一つあるとしたら、彼が竜になったのではなく、竜が彼になったことだった。
思えば「ドラゴンになった少年」をはじめ、竜になった人間の話はFF14内にいくらでも出てくるけれど、人になった竜の話はたった一つしか出てこない。それこそが邪竜の影だ。