死者と生者の別という観点から戦争を眺めた時、憎み合う二組の生者はどちらもただ「生者」であり、生を連帯している側、共犯している側である、という風に言えてしまう。

ヒュトロダエウスがヒカセン(アゼム)に対して、エメトセルクのところへすぐに行っちゃ駄目だ、だって覚えているって約束したんでしょう、というようなことを言う訳だけれど、生者として対峙した時は憎み合う者同士、敵同士の相手でも、そこで命のやりとりが行われて、片方が死の岸辺へ旅立った瞬間から、敵味方の別が失われ、全く別の区分(つまり生と死の区分)が立ち上がることになる。死者ハーデスは、生者ヒカセンにとって既に「敵」ではない。憎しみは色褪せ、或いは洗われて、自分に命のバトンを手渡した人の一人として懐かしくも物悲しい顔を持つようになる。

ニャンにとってのニーズヘッグも、そのような他者なのだろう、と思う……。

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これはさ、ヒカセンという一人の人間がエメトセルク(ハーデス)という一人の人間に対峙するという、そのことの中においてそうだ、という話であって、エメトセルクが自らのパワーを用いてなしてきた事柄までもが死によって「洗われる」と見てしまうのは違うよね。

暁月のシナリオの問題点はいくつかあるけれど、多分その内の一つだと思う。死んだらみんな良い人になる、ではダメで、エメトセルクがこの世に蒔いたものの責任というのは、死んでもなおエメトセルクにあるんだよ、という話にならなくてはいけないと思う。

fedibird.com/@hoshinami629/111 [参照]

何故って、今もなお帝国の属州民やアラミゴやヤンサの人達の中で、その苦しみが芽を出して生い茂っているので。その苦しみは明らかに彼らのせいではなくて帝国に由来するもので、そしてどう考えても帝国があのような拡張主義的な国になったのは、エメトセルクによるところが大きいので。

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