どうも国民民主党首の玉木が、「社会保障抑制のため」という文脈で「尊厳死の法制化」に言及したようだ。

 確かに尊厳死の問題は複雑で世界中に議論されている。しかし、この議論の大前提は「社会保障削減・抑制」と絶対に切り離すこと。

 玉木は釈明で「あくまで自己決定権の問題」と言い抜けしようとしているが、これはどうみても先に「社会保障抑制が先にありき」の議論である。基本、麻生太郎と同じ発想。

 そう言えば中曽根は首相の時に「枯れ木に水をやっても仕方がない」と社会保障費抑制の意図を露わにしたことがある。

 玉木にしても、つい先日も「国民に覚悟を求める時が来た」などと訳の分からぬことを口走っていたが、これは「姥捨て山に向き合う「覚悟」を求める」つもりだったらしい。

 高齢者集団自決提言の成田悠輔といい、「終末期医療の早期打ち切り」提言する古市といい、どうも支配エリートの本音が隠しきれていない。というより、鉄砲玉に観測気球を挙げさせて様子をしているのだろう。

 しかし、反核平和運動を公然と敵視し、社会保障費抑制のために自己決定による「姥捨て山」を提言する政党と合流しようとする立憲の気が知れない。

 予算がそんなに心配ならまず軍事費を削減し、資産課税、法人税増税をすればいいだけの話である。

 
 

@yoshiomiyake@kmiura@toot.blue
尊厳死の問題はカネの問題ではありません。尊厳死を認めたとしても、それが直接社会保障費の削減につながるはずがありません。もしそうなるとしたら、尊厳死の名目で社会的強制が起きていると考えるべきです。映画「PLAN75」で鮮やかに描かれた通りに。

尊厳死の問題を考えるときに宗教を取り上げざるを得ません。いまいろいろ本を読み漁っていますが、西洋的「個人」ではなく、東洋的「群人」(わたしの思いつきです。共同体と分離不可分な個人を想定しています)が死をどう捉えるかによって異なると感じています。文章にまとめられればいいのですか・・・

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平野啓一郎さんが提唱している「分人」の総体が「群人」のイメージです。

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