それを加害者側属性であるイスラエル人の作家が書いたというのも、構造そのものに批評性があるように感じる。先日も「当事者性とは本当は何なのか」という話をしたが、当事者の生の声を拾って、全くの他者が自分の体という器に入れて自分の声として発し、しかし自分は彼/彼女/彼らではない、これは自分の体験ではないと明確に認識している、その矛盾からしか生まれない「回復」があるのではないかと感じる鑑賞体験だった。
ちなみに本上演は2本立てて、このウィサームの物語の他にもうひとつ、パレスチナ人詩人ダーリーン・タートゥールの苦難と彼女を支援する作者エイナット・ヴァイツマンの創作と友情について、もう一度「それを演じる日本人俳優の私」というメタな視点を入れつつ語る一人芝居『I, Dareen T.』も上演されている。『占領の囚人たち』には男性しか出てこず、ある意味では全体の抵抗のためには自らを犠牲にすべきとでも言うような男集団のマッチョさが醸し出されているのに対し(そう言うと怒られるかもだが…)、こちらは何年もたった1人で孤独に闘った女性と、創作を通して彼女に寄り添ったイスラエル人女性、そして演じることを通して彼女たちの連帯に連なろうとする日本人女性という3つの像を重ね、理知と慈しみをもって「傷」と回復を描いているのが良かった。