『占領の囚人たち』は不当に逮捕・収監されたパレスチナ人が受ける暴力の現実についてイスラエルの作家が描いた戯曲を、日本の演出家が日本の俳優とパレスチナの俳優を使ってメタ視点を入れつつ作るというドキュメンタリー演劇なんだけど、没入させることを前提とした「実話にもとづいたフィクション」や「実話を俳優が演じる映画・演劇」、あるいは客観に徹したノンフィクションの書籍では実現しえない「演劇でやることの意味」が感じられてよかった。

この作品では、現実の囚人たちの証言から編まれたウィサームというパレスチナ人青年が直面する拷問や監禁生活のストーリーをメインの線として引きつつ、そこに「これは日本でボクたちが演じている演劇である」というメタ視点を重ね、パレスチナ人俳優カーメル・バーシャーによる「現実はその程度ではない」というツッコミや解説、俳優たちがパレスチナへ取材に行く寸劇などが入る。

熱演と熱演の間にこの現実への引き戻しが繰り返し挟まれることで醸成されるのは、「他者に"なる"ことはできないが、痛みを共有することで近づくことはできる」という、一歩引いた経験の分かち合いがもたらす身体的・感情的連帯だと思う。冷たい頭で「なれない」を意識することから始まる他者の傷への理解。

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それを加害者側属性であるイスラエル人の作家が書いたというのも、構造そのものに批評性があるように感じる。先日も「当事者性とは本当は何なのか」という話をしたが、当事者の生の声を拾って、全くの他者が自分の体という器に入れて自分の声として発し、しかし自分は彼/彼女/彼らではない、これは自分の体験ではないと明確に認識している、その矛盾からしか生まれない「回復」があるのではないかと感じる鑑賞体験だった。

ちなみに本上演は2本立てて、このウィサームの物語の他にもうひとつ、パレスチナ人詩人ダーリーン・タートゥールの苦難と彼女を支援する作者エイナット・ヴァイツマンの創作と友情について、もう一度「それを演じる日本人俳優の私」というメタな視点を入れつつ語る一人芝居『I, Dareen T.』も上演されている。『占領の囚人たち』には男性しか出てこず、ある意味では全体の抵抗のためには自らを犠牲にすべきとでも言うような男集団のマッチョさが醸し出されているのに対し(そう言うと怒られるかもだが…)、こちらは何年もたった1人で孤独に闘った女性と、創作を通して彼女に寄り添ったイスラエル人女性、そして演じることを通して彼女たちの連帯に連なろうとする日本人女性という3つの像を重ね、理知と慈しみをもって「傷」と回復を描いているのが良かった。

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