ようは「ただの素材」としか考えてないからこういう酷い消費の仕方をしてしまう。己が紡ぎたいストーリーのために、素材をいかようにも調理する自由が創作者には与えられているが、その自由は常に暴力を内包している。
存在そのものが悪であるならば無許可で素材にしていい、素材としてどのように調理してもいい、そのように素材=他者を捉えているのなら、当然作品は暴力性を伴うものになる。いや、どんなに丁寧に素材を扱ったとしても暴力性は生じてしまうのだから、それが批判されることを受け入れるのは創作者の責任なのではないか。