あともうひとつ重要な点は、今回の本があまりにも「露骨=わかりやすすぎる」ヘイトであることです。いま、いわゆる中韓ヘイト的な本は露骨なものはだいぶ減っていて、少なくとも大手からはほぼ出ていません(例:講談社×ケント・ギルバートみたいなもの)。いま定期的に出しているのはWACの「ウィル」と飛鳥新社の「ハナダ」、そして一般読者はおろか書店員にすら名前も覚えてもらえないようなようわからん出版社くらいで、そもそも刊行されていることすら気づかれていません。ですが、ふつうのよくある本の「見かけ」をしているけど中身は怪しい、という本は大手含めてたくさん出ています。もちろんすべて確認してはいないので、書店員経験の積み重ねによる勘での推測に過ぎませんが。
そして、ジェンダー関連においてもこの「見かけはまとも/ふつう、だけど中身は......」的な本はたくさん出ていて、残念ながら中韓ヘイトにくらべて書店員やら版元やらの知識が足りてないため、見逃されているものばかりです(反差別を掲げておきながらアジュマブックスの本をフェミニズムの棚に入れている本屋は多い)。これはヘイターだからではなく、純粋に「知らない」んです。ここが、中韓ヘイトという「比較的わかりやすい」差別に関わるあれこれの事象との、大きな違いの原因かもしれません。
たとえば、出版業界人の多くはいまだにCRAC的な反差別運動(=ヘイターをしばけばいい)のあり方の問題点に気がついていません。そのうえ、福嶋聡の提唱した「言論のアリーナ」論をいまだに素晴らしいものだと捉えていますから、正直理屈が通らないんですが、とにかくまったく追いついていません。当然、言論のアリーナ論も中韓ヘイト本のことしか念頭に置かれてません。2016年出版なので、杉田水脈の「新潮45」問題以前。トランスジェンダーはおろかLGBTという概念すらインストールされていない業界人のほうが多かったと思います。当時大学生だった私も似たようなものです。ゆえにこの一連の話は反省の意味もあります。
まだまだ話したいことや話すべきことがあるんですが、長くなるのであらためてニュースレターにて。元気なら明日書きます。
と言いつつ、ヘイト本と配本システムの関係についてだけ。
一般的な本屋(セレクトショップ的なところ除く)は仕入れの際には「配本」という制度を活用しています。これは出版社や取次(問屋)が「今日の新刊です」「いま売れてるのこれです」と勝手に本を送ってくれる仕組みで、基本的には大手出版社の本ほどこの仕組みによって入荷してきます。逆に、中小出版社は配本されないため、書店からの発注がないと書店に並びません。これが、かつて書店に中韓ヘイト本がたくさん並んでいたことの大きな理由です。かつては配本システムを使えるような大手も中韓ヘイト本を出していたので。でもいまは中小出版社しか出していないので、書店には並んでいない(ゆえに刊行されていないように思える)。
たとえばビジネス社とかは定期的にヘイト本を出してますが、私のバイト先でもあるときわ書房志津店というちっぽけな書店には配本されてきません。きっと紀伊國屋新宿店みたいなとこには配本があるのかも(それを置くかどうかはわからない)。でも、「ウィル」「ハナダ」はちゃんと来ます。定期購読者もいます(落ち込んでいるとはいえ、なんだかんだで雑誌はそれなりに買われているのです)。
ということで、KADOKAWAレベルになると配本システムを当然活用してますから、今回の本も多くの書店に「新刊配本」で発注してないのに入荷していたでしょう。ときわ志津レベルだと配本されなかったかもしれないけど。そのへんKADOKAWAは渋い、というか小さい書店は冷遇されがちだから。
とりあえず終わり。
中韓ヘイトはわかりやすいんです。差別に反対だ、と言うことが簡単、というかそれだけで実践できているように思えてしまう。でも、ジェンダーに関わる差別は比較的複雑です。差別に反対することが別の差別に加担することもある。もちろんこれも単純化して話していますから、中韓ヘイトにも複雑さは当然あります。
そして、やはり「反差別」と言うときのイメージがどうしても「中韓ヘイト」になってしまう、というのもあります。なぜなら出版業界における「反差別反ヘイト」の問題が中韓ヘイト本についてのものだったから。これまでに出された、特に2013〜19年くらいまでに出された「反差別×出版業界」本のほとんどは、中韓ヘイト本への対応についてしか言及していません。