KADOKAWAの件はむしろこれからが本番だと思います。刊行すれば刊行されたという事実そのものが「権威」や「根拠」となるし、今回のように中止になれば「キャンセル」事案として格好のネタになる。ヘイト本を巡るあらゆる環境は常に変化しており、いま、そのコンボ技がハマる状況になっている感覚がある(数年前はそうではなかったし、数年後はどうなるかわからない)。
中韓ヘイト本が刊行中止に追い込まれることが(おそらく)なかったのも、この「状況(の変遷)」によるところが大きいと考えています。この国でヘイト本が大きな話題になった2013年付近、まだSNSは現実社会におけるウェイト/地位を確立はしていなかったし、当然それは出版社にとっても同じ。いまは、特に出版業界においてはTwitterへの依存度的なものが大きく、そこでの注目度&好感度が売上の生命線となってしまっています。ゆえに、そこで大きな(悪い)反響があれば、当然経営層は売上の面で合理的な判断をするでしょう。差別に反対しているからではないです。面子(とそれに連なる売上)が悪くなるからです。大手であればあるほど、そういう判断をしたくなる。
中韓ヘイトはわかりやすいんです。差別に反対だ、と言うことが簡単、というかそれだけで実践できているように思えてしまう。でも、ジェンダーに関わる差別は比較的複雑です。差別に反対することが別の差別に加担することもある。もちろんこれも単純化して話していますから、中韓ヘイトにも複雑さは当然あります。
そして、やはり「反差別」と言うときのイメージがどうしても「中韓ヘイト」になってしまう、というのもあります。なぜなら出版業界における「反差別反ヘイト」の問題が中韓ヘイト本についてのものだったから。これまでに出された、特に2013〜19年くらいまでに出された「反差別×出版業界」本のほとんどは、中韓ヘイト本への対応についてしか言及していません。
まだまだ話したいことや話すべきことがあるんですが、長くなるのであらためてニュースレターにて。元気なら明日書きます。
と言いつつ、ヘイト本と配本システムの関係についてだけ。
一般的な本屋(セレクトショップ的なところ除く)は仕入れの際には「配本」という制度を活用しています。これは出版社や取次(問屋)が「今日の新刊です」「いま売れてるのこれです」と勝手に本を送ってくれる仕組みで、基本的には大手出版社の本ほどこの仕組みによって入荷してきます。逆に、中小出版社は配本されないため、書店からの発注がないと書店に並びません。これが、かつて書店に中韓ヘイト本がたくさん並んでいたことの大きな理由です。かつては配本システムを使えるような大手も中韓ヘイト本を出していたので。でもいまは中小出版社しか出していないので、書店には並んでいない(ゆえに刊行されていないように思える)。
たとえばビジネス社とかは定期的にヘイト本を出してますが、私のバイト先でもあるときわ書房志津店というちっぽけな書店には配本されてきません。きっと紀伊國屋新宿店みたいなとこには配本があるのかも(それを置くかどうかはわからない)。でも、「ウィル」「ハナダ」はちゃんと来ます。定期購読者もいます(落ち込んでいるとはいえ、なんだかんだで雑誌はそれなりに買われているのです)。
ということで、KADOKAWAレベルになると配本システムを当然活用してますから、今回の本も多くの書店に「新刊配本」で発注してないのに入荷していたでしょう。ときわ志津レベルだと配本されなかったかもしれないけど。そのへんKADOKAWAは渋い、というか小さい書店は冷遇されがちだから。
とりあえず終わり。
たとえば、出版業界人の多くはいまだにCRAC的な反差別運動(=ヘイターをしばけばいい)のあり方の問題点に気がついていません。そのうえ、福嶋聡の提唱した「言論のアリーナ」論をいまだに素晴らしいものだと捉えていますから、正直理屈が通らないんですが、とにかくまったく追いついていません。当然、言論のアリーナ論も中韓ヘイト本のことしか念頭に置かれてません。2016年出版なので、杉田水脈の「新潮45」問題以前。トランスジェンダーはおろかLGBTという概念すらインストールされていない業界人のほうが多かったと思います。当時大学生だった私も似たようなものです。ゆえにこの一連の話は反省の意味もあります。
http://www.jimbunshoin.co.jp/smp/book/b222590.html