岸田を筆頭にした自民党中枢、もはや「独裁」と評価されることに悦びを感じているんだと思う。だからそんな言葉を使って批判しても響かない、それどころかさらに調子に乗る。私たちの批判は、つまりそのなかに含まれる苦悩や悲しみや怒りは、すべてかれらを悦ばせる養分にしかなっていない。

「いじめをやめてください!」と優等生が真剣に言えば言うほど、いじめが楽しくて仕方なくなってしまう者がいたりする。「こいつ!顔真っ赤にして怒ってやんの!」そういう域にまで達してしまった者への対抗手段は、黙ってぶん殴って叩き潰すか無視するかしかない。政治=社会がそのようなフェイズにまで堕ちてしまったことが苦しい。

ゆえに戦いかたを変えねばならない。

政治がなにをしてこようが私たちには影響などない、つまりあんたらの支配下に私たちはいない。そういう態度をとり続けることのほうが、もはや有効かもしれない。それは政治に「無関心」であることとは異なる。政治に対するまなざしは持ち続ける、しかし、政治の影響下にはいない。少なくとも、いないフリをする。そういうことが可能なのか。わからない。試してみよう。

まずはインボイス制度とやらを完全に無視してみる。確定申告もいままでどおり、あるいはいっそうテキトーに出してみる。あるいは申告しない。政治のほうが近代民主主義の制度・態度を放棄するのなら、こちらも同様に放棄してみる。いずれにせよ生活が苦しいのなら、国民として国家から守られる(と同時にあらゆる義務を課される)存在から抜け出して/抜け落ちてみる。

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真面目であること、その種類を変えてみる。日本という国家が私たちに課してくるルールとやらを守るという「真面目さ」ではなく、私たち個々にとって大切なものを真摯にまなざすという「真面目さ」。

反差別であり、非暴力であるということ。これをまなざしてさえいれば、国家が私たちに課してくるルールを守らずとも、私たちは正しく生きることができるのではないか。

もちろん、署名やデモなどに意味がないわけではない。それらは「いま政治が酷いことをしている/社会でこんな酷い状況が生じている」ということを、それをまだ知らない者に周知することができるからだ。ゆえに今後もそれを目的として続けていきたい。

ただ、署名やデモを政府への「請願=お願い」の目的でやるのは、もはや逆効果だということ(が今回の署名提出のくだりで見えてきたのではないか)。支配欲にのみこまれた者は、必死に抵抗する者のその姿を見て楽しむのだから。署名受取拒否に絶望する姿を見せてはならない。

想像し難いししたくもないことだが、現政権中枢は「署名30万人?それじゃ少ないよ」「え?50万人?いや〜すごいね!!......で?」「ひ〜!涙目おつ〜!!」なんてフィクション世界の極悪人のようなことを素でやっていると考えたほうが、辻褄が合う。ゆえに私たちがとるべき態度は「署名もデモもあんたらに話を聞いてもらうためにやってるわけじゃないよ。涙目おつ?楽しそうでなにより。じゃ、さよなら」なんだと思う。

強い気持ちを見せられる状況にある者はそうしよう。絶望してしまわざるを得ない状況にある者のぶんまで。

すぐに成果がでるもの、努力が簡単に報われることなど、私たちの生活においてはほとんどない。ゆえにその試みは常に苦しく、そこから逃れようとした者が安易なものに飛びつき、いまだ苦しみのなかでもがき続ける者を馬鹿にする。

政治がすぐに変わることなどない。こんな署名ひとつでどうにかなることなどほとんどない。そんなことは理解したうえで、それでもやることに意味がある。そこにかっこよさがある。報われない努力を続ける者を愚弄することで己を慰撫する者のために、私たちは苦しむのではない。

真摯に生きようとする者どうし、お互いをまなざしつづけよう。真摯さを馬鹿にする者から向けられる愚弄のまなざしに、惑わされぬように。あんたらのことはまなざしている、しかし眼中にはない。ゆえにどれだけ愚弄されようがかまわない。それであんたらが救われるのなら、好きなだけ愚弄すればよい。私はあんたらになにも奪われやしないし、損なわれもしない。

真摯に生きる努力をすること、その苦しみに自分は耐えられないということを知っているからこそ、かれらは真摯に生きようともがき苦しむ者の絶望を見て快楽を覚える。他者が絶望する姿を欲するのは、己こそがすでに自分の人生に絶望しているからだ。

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