真面目であること、その種類を変えてみる。日本という国家が私たちに課してくるルールとやらを守るという「真面目さ」ではなく、私たち個々にとって大切なものを真摯にまなざすという「真面目さ」。
もちろん、署名やデモなどに意味がないわけではない。それらは「いま政治が酷いことをしている/社会でこんな酷い状況が生じている」ということを、それをまだ知らない者に周知することができるからだ。ゆえに今後もそれを目的として続けていきたい。
ただ、署名やデモを政府への「請願=お願い」の目的でやるのは、もはや逆効果だということ(が今回の署名提出のくだりで見えてきたのではないか)。支配欲にのみこまれた者は、必死に抵抗する者のその姿を見て楽しむのだから。署名受取拒否に絶望する姿を見せてはならない。
想像し難いししたくもないことだが、現政権中枢は「署名30万人?それじゃ少ないよ」「え?50万人?いや〜すごいね!!......で?」「ひ〜!涙目おつ〜!!」なんてフィクション世界の極悪人のようなことを素でやっていると考えたほうが、辻褄が合う。ゆえに私たちがとるべき態度は「署名もデモもあんたらに話を聞いてもらうためにやってるわけじゃないよ。涙目おつ?楽しそうでなにより。じゃ、さよなら」なんだと思う。
反差別であり、非暴力であるということ。これをまなざしてさえいれば、国家が私たちに課してくるルールを守らずとも、私たちは正しく生きることができるのではないか。