欲望を抱くことそれだけで罪になってしまうのは、端的に言って『1984年』の思考警察と同じなので、欲望=罪というそのやりかたでもって反差別・ヘイトの実践はできないんですよ。それを許してしまったら、最終的には権力側=強者がその理論を活用して暴力を正当化するようになるだけなので。
さっきTwitterで「トランスヘイターもモンスタークレーマーも死滅したほうがいい」みたいなことを言ってる反差別の権威がいたので批判してきたんですけど、わかりやすい例なんじゃないかと。「死滅したほうがいい」なんてのは余計なものなんだけど、こういうのがウケてしまうので、気にせずやるようになる(本来批判すべきことは差別の「行為」であり、それをおこなう者の死滅を願うという「存在の否定」は余計なものですよね)。
そのうえ、この「死滅を願う=存在の否定」はまさに差別・ヘイトの本質であり、この言説/理論が正当なものとされてしまったら、最終的に勝つのは差別/ヘイトを意図的におこなう者になる。自分が同じ土俵に乗ってしまっていることに気がついただろうか。鍵アカウントになってしまったのでわからないが。
あらゆる批判行為はその批判対象を慎重かつ厳密に定め、余計なものは巻き込まないようにしなくてはならないのだけど、残念ながらSNSでは余計なものを巻き込んだほうがウケてしまうので、それが正しいやりかた/主張になってしまいがち。でもそうやってなされた雑な批判と、その批判により成立した理論は、最終的には権力側=強者にこそ有利に働くものになってしまう。