Twitter、いまはもう「これは言っておかねばならないな」ということだけ言いにいく場所に少なくとも個人アカウントはなっていて、お店アカウントのほうが問題だったりする。でもさすがにもうその時期は近づいているように思える。
とはいえ。とはいえである。
結局のところ、現時点ではTwitterがもはや2ちゃんねると化しているということに気がつかないまま使っている人が大多数であり、そうである以上そこにある程度関与をしていかないと「なんもわからんまま2ちゃんねる化した空気を吸い続ける」人がなんの抵抗もなく増え続けてしまう。となると、Twitterはもはやまともではない(使うべきではない)ということを周知させつつ、みなで徐々にソフトランディングしていかないといけない。だから、環境把握がうまくできている者のみがさらっと退避することには、どうしても恐ろしさを感じてしまう。
いっそのことマスクがもっとクソな環境(主にシステム面で)にしてくれれば、シンプルに「使いにくい」という理由でユーザーが離れてくれるので、むしろそのほうがいいのかもしれない。
問題は、2ちゃんねる的なものが陽の当たる場所で活動できてしまっているということなので。かつては2ちゃんねる的な場所でしか大手を振ってできなかった振る舞いが、むしろメインストリームであるかのように存在できるのがTwitterなのだと思う。
これはどのSNSも同じなのだろうけど、そもそもミーム的なものが生成され、それがいろいろな物事に「雑に」応用できてしまう、その事象自体が2ちゃんねる的な気がするのだけど、どうなんだろうか。ウケのいい言葉、という器に物事をひょいと放り込んでいく感じ。そこには慎重さは不要であり、むしろある程度の粗雑さこそが必要とされる。
つまり「バズり」だ。「ウケる」ことを優先し、慎重になることを避けてしまうありかた。それを皆が無自覚に追求してしまっているのだから、マスクがいなくてもすでに2ちゃんねる的な掲示板文化は育まれていたのだろう。
だから群れてはならない。学者やフォロワー数の多いアカウント、つまり権威や人気者の投稿だからといって安易に同調しないこと。それは身内に対してこそより意識すべきことだと思う。なにかが違うと思ったら指摘をしよう。指摘を受けた側もそれだけでもって「敵認定」してはならない。それは2ちゃんねる的掲示板文化のひとつだ。味方だからこそ批判し合おう。その辛さ苦しさから逃げたら負けだ。逃げたくなったら画面を閉じよう。応答しないことは逃げではない。答えが出せないときはインプットだけに専念しよう。そういう意味で「みなが味方になる=群れる」ようにしたい。
ちなみに本屋lighthouseのTwitterアカウントを即座に停止しない理由は、フォロワーの中にTwitterでしかうちの情報や投稿を見れない者がいるかもしれない、その可能性があるうちは無責任に勝手に退場はできないからです。反差別反ヘイトをポリシーに掲げているからこそうちを頼りにしてくれている者がいる以上、その者たちを置き去りにするわけにはいかないんですよ。だから少しずつ軸足を移しているし、移していきますよということも定期的にお知らせしている。
そもそも昨年秋にMastodonアカウントを作り、インスタも活動量を増やしたのは、Twitter改悪で居場所を奪われたマイノリティたちのためだった。たしかにそこには宣伝や利益確保の意味合いもあるが、そこを第一義としてやっているわけではない。その優先順位は絶対に間違えちゃいけないからだ。