少し雑談を。
この間、ジョニーデップ主演の「ミナマタ」を見ていて思い出したんだけど水俣病の調査、研究にとって忘れてはいけない学者さんに宇井純さんがいるけど、彼の仕事のパートナーをしていた同僚の研究者に中西準子がいて、彼女はその後、リスクマネジメント界のある種の権威として原発問題などでは電力会社側のパブリック・アクセプタンス要員として活躍する。
なんで水俣の惨状を暴いた人が東電を?と思うじゃない?でもこれは宇井さんも同じところがあったんだけど、宇井さんも中西準子も「常に歴史的に、科学的にみて「正しい側」でいたいという願望」がその研究の根底にあって、それが原動力になっていたのではないか?ということを熊本一規さんが著書(東大闘争と原発事故)の中で仰ってて、そしてその「危険性」についても触れられていた。学者、研究者として「正しい側」でいたいという欲望、願望を優先させた時、それが間違った側だったとわかった時に、完全に当事者を置き去りにしてしまうからだと。熊本さんは「宇井純氏とともに被害者側に立った中西準子が今や原子力PAに日々勤しんでるのは変節ではなく「学会で評価される研究をやることを最優先した結果、偶々『いい研究』が住民の主張と重なったに過ぎないから」と喝破していた。ここはとても大事な視点と思う
この「学者、研究者として「正しい側」でいたいという欲望、願望」というのは、怖いよ。今、ジェンダー関連の話題においても問われているでしょ、この姿勢がね。熊本さんが著作の中で述べられていた宇井さんに言われた話で、私が特に印象的だったのが「(科学的、歴史的にみて)勝てない運動に関わることは、学者としては損なのだ」という言葉。田舎の社会で市民運動拡散するには「造り酒屋のご隠居を味方につけたらその運動は勝ちです」と。市民活動の方針としてはとても興味深いけど、怖さもあるよね。土着的ポピュリズムの怖さ、というかな。今のネット上に置いて「造り酒屋のご隠居」は誰に当たり、その「味方につけるための方法」はなんなのか?ということを、日々、深く考えている