この間「私はいったい何と闘っているのか」というタイトルの映画を見た。とても面白いタイトルでキャストも設定も良かったけど、全体通すと…な感じで惜しいなと思ったが、それはさておき。様々な理不尽に埋め尽くされている、この混沌とした社会で生きていく中で、「戦っている相手が誰なのか」という問いを持っていることはとても大事であるのは違いない。

女性の身の安全を守る非営利団体に向けられる理不尽極まりない集団攻撃の中に法曹関係者や報道関係者が紛れ込んでいるのを見るにこの国が明らかに後退している、衰退しているさまを見せつけられ、暗澹たる思いが強まるばかりである。

彼らが何と戦っているのか。耳を澄ましてその声に耳を傾けても全く理解できないし、たとえそれを理解したとしても、実際に行っていることをみたら、整合性は皆無であり、現状を一言で言えば「論じるに値しない」となる。

その一方、私の興味はその非営利団体のみなさんが何と戦っているのかという点に興味が向く。かつて自営業者、団体関係者の立場で、10代の頃からレンタル、古物の業界に長年関わってきた者として、ある程度の推測は立つ。みなさんが対峙している者の凶悪さ、狡猾さを知るだけにその勇気には最大限の敬意を表さずにはいられない。

いくら「キラキラワード」で振りまいて、最先端のモードに混ぜ込み装飾しようとも、性産業の背後にいるのは反社組織である。非営利団体のみなさんがやっていることは、一言で言うなら彼らの食い扶持を直接的に削っていることになる。

そのことがどれだけ大変なことか。この間、容疑者が特定された餃子の王将社長殺人事件や監督の伊丹十三、作家の溝口敦さん襲撃事件を想起すれば、誰でも分かる話だろう。

相手の凶悪さや狡猾さを考えるならば、多少の意見の相違はあろうとも、様々な人達を手を繋ぎ、戦っていくよりほかはない。

非営利団体の皆さんが、一体何を戦っているのか?自分らの命を賭けて、他者の命を、基本的人権を護る。同情だとか、承認欲求とか、そんな生易しい気持ちを優先して戦える相手ではない。

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「社会の強さは最富裕層の豊かさではなく、最も脆弱な立場にある人々の暮らしぶりによって測定できる。私たちが問わなければならないのは、社会の全ての人が尊厳ある人生を送れるチャンスに恵まれているか否かだ」

これは史上最年少でフィンランドで首相に就任したサンナ・マリンが就任直後の念頭挨拶で語った言葉だが、まさに非営利団体の皆さんは、この社会で生きるすべての人が尊厳ある人生を送れるために戦っているように感じる。

凶悪な反社組織やそのお零れに預かっている人ら、絶対安全地帯に身を置きながら「自己決定権絶対主義」をマントラのごとく唱えている象牙の塔の中の住人やそのワナビー集団。異論を外部化して切断処理して身内に踏み絵をふませる「自称」リベラル。

こうした歪な構造を容認しているこの理不尽な社会社会に生きるものとして、こうした社会を作ることに関わってきた年長者として、ここで連帯を示さずしてどうするというのだ。

ということを日曜日の朝に思う

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