この間「私はいったい何と闘っているのか」というタイトルの映画を見た。とても面白いタイトルでキャストも設定も良かったけど、全体通すと…な感じで惜しいなと思ったが、それはさておき。様々な理不尽に埋め尽くされている、この混沌とした社会で生きていく中で、「戦っている相手が誰なのか」という問いを持っていることはとても大事であるのは違いない。
女性の身の安全を守る非営利団体に向けられる理不尽極まりない集団攻撃の中に法曹関係者や報道関係者が紛れ込んでいるのを見るにこの国が明らかに後退している、衰退しているさまを見せつけられ、暗澹たる思いが強まるばかりである。
彼らが何と戦っているのか。耳を澄ましてその声に耳を傾けても全く理解できないし、たとえそれを理解したとしても、実際に行っていることをみたら、整合性は皆無であり、現状を一言で言えば「論じるに値しない」となる。
「社会の強さは最富裕層の豊かさではなく、最も脆弱な立場にある人々の暮らしぶりによって測定できる。私たちが問わなければならないのは、社会の全ての人が尊厳ある人生を送れるチャンスに恵まれているか否かだ」
これは史上最年少でフィンランドで首相に就任したサンナ・マリンが就任直後の念頭挨拶で語った言葉だが、まさに非営利団体の皆さんは、この社会で生きるすべての人が尊厳ある人生を送れるために戦っているように感じる。
凶悪な反社組織やそのお零れに預かっている人ら、絶対安全地帯に身を置きながら「自己決定権絶対主義」をマントラのごとく唱えている象牙の塔の中の住人やそのワナビー集団。異論を外部化して切断処理して身内に踏み絵をふませる「自称」リベラル。
こうした歪な構造を容認しているこの理不尽な社会社会に生きるものとして、こうした社会を作ることに関わってきた年長者として、ここで連帯を示さずしてどうするというのだ。
ということを日曜日の朝に思う