罪は、元来いかなる学問にも決して帰属していない。罪は説教の対象であって、説教では個人が個人として個人に向かって語りかけるのである。われわれの時代においては、学者気どりが牧師たちを翻弄して一種の大学教授の助手に仕立てあげるという時流に迎合して、
目下そのような〔学者気どりに感化された〕牧師たちは、自分たちも学問に奉仕し、学問の権威のもとで説教したいという考え方をもつにいたった。こうした風潮からすると、説教することがきわめて見すぼらしい技術だと見なされるようになるのも、別に不思議ではない。
(キルケゴール『不安の概念』緒論)

>罪は、元来いかなる学問にも決して帰属していない。
罪(原罪か?)自体はともかく、罪について理解は恐らく神学に属しているのだろうと思う。

>罪は説教の対象であって、説教では個人が個人として個人に向かって語りかけるのである。

罪は説教における興味深いテーマの一つであり、羊飼いが羊である個人を導く手段の一つである説教は究極的には神が神の民へ語りかけているということなのでは?

>(前略)牧師たちは、自分たちも学問に奉仕し、学問の権威のもとで説教したいという考え方をもつにいたった。

学問化(体系化か?)は論点を整理しやすくする。というより逆に整理するから学問化するように思われる。
そして整理を通じてより一層理解がしやすくなり論じやすくなると思われるが故に、その分野に対する学問化(?)の要請があるのではないか。
また扱う対象が複雑かつ微妙な性質を帯びていたりその対象の一般へ及ぼす影響が多大であったりする場合においては、扱いを慎重にする必要性があるのかもしれない。
それ故にそのような扱いに適していると思われる学問というお硬い(?)形式が必要とされるのではないだろうか。

(続) [参照]

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(承前)

ここでは恐らく司牧的役割から外れた所謂神学論争的何かが信徒の、特に個人的な内面/心の需要に応じてないと言いたいのかなと思った。

説教においてだけではなく言動一般にいわば司牧的配慮が欠けているならば(そしてそれは牧者側に限らず信徒側にも言えそうなことだとは思うが)、神及び人への愛の実践としての福音的生活とはいったい全体何なのかという話になってくるのではないだろうか。

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