#聖霊降臨祭 (ペンテコステ)の元になっている逸話は、キリスト教関係の諸々の中で一番好きかもしれない… と思ったので聖書の記述を確認しておこうと見直したら、記憶と違っていた :ablobgrimace:

… 要するにイエスが復活して暫く地上をウロウロしてからおもむろに昇天した、その次に起こった重要事件で、コアな信者たちが集まっているところに雷鳴が轟き炎とともに精霊が降りてきたというもの。

問題はその後、「一同は精霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」(使徒行伝2:4)そう。私の記憶では降りてきた精霊に取り憑かれて皆で踊り出したはずが… 👯

そして、色々な言葉を語るようになったというのも、その頃各地からエルサレムを訪れていたユダヤ人やローマ人等にそれぞれの母語で福音について語れるようになったという意味だったとか。それでその日のうちに信者が3000人増えたそうです。

(神様、バベルの塔事件でニンゲンの言葉をばらばらにしたこと後悔してたかも?)

それはともかく、キリスト教の教義における「精霊」というのは掴みにくいだけに面白い要素だと思います。

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読書課では、聖イレネオ(エイレナイオス?)が聖霊降臨の祭日の担当をしているようだ。

第二読書の内容を掲載してくれていると思っていたブログを改めて見てみたら、あくまで抜粋である事が分かり少し残念に思ったりした。

記載は全文ではなかったものの、引用部分についてはその部分の文章まで記載されている。

以下、大事そうなところを書籍版より引用。

聖イレネオ「異端反駁」(聖霊の派遣)

「聖霊は人間のうちに住んで、その中で父の意志を行い、彼らを古さからキリストの新しさへと新たにするもである」
↑エフェソ4.22-23からの引用らしい。

「こうして、弟子たちは一致して、あらゆる言語で神を賛美し、そして霊は互いに遠く離れていた諸部族を一致へと連れ戻し、全民族の初穂を父にささげたのである」
↑初穂をささげるという発想と結び付けて考えるのは割と新鮮だと感じる。

※長くなりそうなのでツリーとします。 [参照]

「また、乾いた大地が水気を吸い込まなければ実を結ばないように、わたしたちも最初は干からびた枯れ木であったので、上からの豊かな雨がなかったら、生命という実を結ぶことは決してなかっただろう」

↑この、神との結び付きが実りを生むという発想は、自分にブラームスの発言を思い起こさせる。
それはイエスが真の葡萄の木でありイエスと結び付いていないならば実を結ぶ事がない、というようなもの。
ブラームスのこの発言は多分ヨハネによる福音からの引用ではないか。
本当にブラームスがこんな発言をしていたのか、自分は確認していないのだが何かの参考になるかもしれないので、記しておく。

「わたしたちの身体は洗礼の水洗いによって、魂は霊によって、不滅性にまでいたらせる一致を受けたのである」

↑ここでは洗礼が聖霊降臨に関連して言及される。
洗礼に続く堅信の秘跡が確か聖霊降臨と関連していたような気がしなくもないので、並べるような形で述べられているのかなと自分は思った。

※更に続けます。

「……そして訴えるもの、すなわち投げ落とされたサタンのいるところに、弁護者もともにいてもらうためである。」

↑「神の露」が必要である訳を説明するために聖霊の弁護者としての役割を強調するイレネオはここで、サタンの恐らく呼び名の一つと思われる「訴えるもの」という言葉を出す。多分これは訴えるものvs弁護者という図式を聴き手の心に鮮やかに呼び起こす効果があったのではないだろうか。

以下に引用する最後の部分は特に印象深い。
そして自分には少し奇妙に感じられる。何故だか分からないがこの箇所にはイレネオの独創性というか個性のようなものが滲み出ているように自分には感じられた。
印象深いが故に長い文章にも関わらず全て引用します。

※次が最後です。

「主は人間が強盗の手に落ちてしまったのをあわれに思い、その傷口を縛ってくださったが、また、ご自分の所有物である人間を、王の銘が刻まれたデナリオン銀貨二枚を与えて、その聖霊にゆだねたのである。それは、わたしたちが霊によってデナリオンに刻みつけられた父と子の肖像と銘を自分の身に受け、こうして自分にゆだねられたデナリオンを実らせ、それを殖やして主に決算報告できるためである」

↑ルカ10.35を参照と注記がある。デナリオンは恐らく皇帝の姿が刻まれていたのだろうと思うのだが、ここでは「王であるキリスト」というテーマからの影響があるのではないだろうか。すなわちこの世の王と、天の王との対比といったような。
何を与えられたかという点については恐らく聖霊降臨に関して語られがちな所謂「賜物」を意味するのではないか。その賜物が各人にどのようなものとして与えられるのかは恐らくパウロがコリントへの手紙において饒舌に語ってくれていたと思われるので、ここでは省く。
ここではそれが主人から預けられた財産を地中に埋めて保管するか、それともそれを殖やすかといった別の部分における譬え(マタイ25.14-30,所謂タラントンの譬え)と結び付けられているように思われる。

※次が本当に最後です。

王であるキリストについて仄めかしていたのと同様に、ここでも、他の部分との関連を示す事によって福音のメッセージにおける一貫性を聴き手に気付かせるという効果が生まれているのではないだろうか。

以上、本文に関する自分の感想は終わりです。

イレネオは中心主題の周りに関連する副主題的な何かを配置して中心主題をより立体的(?)に浮かび上がらせているように思います。
ヨエルやイザヤなど、旧約からの引用もあるようで、聖書全体の流れを良く理解している聴き手にとっては満足度が高い話だったのではないでしょうか。

感情にも論理にも偏らず、譬えにも事実(?)にも偏らずといったバランスの良い話だと思いました。

それでいて更に、恐らくイレネオ自身の理解の深さから来ると思われる「頭の中の見晴らしの良さ」のようなものを聴き手は追体験できると思われますので、何というか大変ありがたい話だな……と思いました。

本文は以下より採られているようです。
Adversus haereses,Lib.3,17,1-3
:Sources Chretiennes 211,328-336

また、聖霊降臨の祭日の読書課においては、これを第二読書とし、第一読書をローマ8.5-27としているようです。

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