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西日本豪雨のとき、真備町で水没した家の片付けをした。

川底の汚泥にまみれてしまった生活用品から残したいものを救出したら、ゴミの種類ごとに仕分けたり、土間の汚泥を退けたり。
水道が復活していないので、洗い流す水も、持ち込んだ少しのタンクの水しかなくて、とにかく仕分けるだけ、泥を掻き出して通れるようにするだけ。
とにかく力仕事だし、気持ちも滅入る。
友人と交代で、数日通った。

でも、結局その家は全壊と診断され、仕分けた甲斐なく重機で潰され、災害ガレキとして分別もなく埋め立てゴミに。全ていちから建て直しになった。

無駄な労働だったかもしれないけど、あんまり無駄だった気がしていない。
家主さんが、こんなにたくさんの人に助けてもらって…と、とても喜んでくれた。
わたしも、災害が間近に起きている中で平常モードにはなれなかったので、それで十分だった。

去年、真備町のマルシェに出店した時、家主さんの娘さんが覚えていて声をかけてくれて、嬉しかったな。

社協からの依頼で、消毒のために石灰を撒くというのもやったけど、あれはほんとに消毒になってたか怪しい。
でも、そこのお家のおばあちゃんは、良かった良かったと喜んでくれて、もう一回来て欲しいとアンコールまで頂いた。

どちらかというと、助けに来てくれたということが嬉しかったんじゃないかな。

東日本大震災のひと月後くらいに釜石へ行ったときは、すでにマンパワーフェーズは終わって、重機とトラックが走り回っていた。

被災した家の玄関付近に「解体お願いします」の張り紙がしてある。

更地に均したところに、サッカーコートくらいの面積に固めてガレキを積んでいて、それが幾つもある。
とにかく規模が大きくて、ほんとに人間なんか居ても何もすることがなさそうだった。
使われていない漁協の建物に行くと、死にそうな猫がいた。多分感染症で、呼吸が荒くて、もうすぐ亡くなってしまう。

仮設住宅での歌のコンサートをするというので、手伝いをした。
施設の代表の方は、
「足りないものはもうない。でも、こういう催しをしてもらうのは初めてで、気にかけてくれるのが有難い。」と言ってくれた。

苦難に見舞われた時、人は人を求めていると思う。
人にとって「いつも通り」とは、人の繋がりと、その営みが途切れていないことだから。

ボランティアする方も、実は同じで、平常モードになれないから「させてもらってる」ところもある。
繋がりと営みを作ることで、「いつも通り」に戻ろうとしている。

させてもらってる自覚は大事だけど、あとは多少ニーズとずれてても、混乱があっても、救われる人は必ずいる。
ザワザワした人間のすることを、逐一全部完璧にはできない。

SNSでのマウント取りのために批判するのは辞めてほしい。

国や行政も、この災害で急に完璧になるわけない。平時に仕組みを作ってこなかったのだから、避難所の環境は劣悪だし、現場は人が足りないし、混乱しているのを今すぐ直せない。
だからといって、「来ないで」では、全てが止まるだけだから、少し頭を使って、無理を通して、結果を出して見せておくれよ…。と思う。

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