「現代詩手帖」2023年3月号の「分かれ道——フェミニズムとハンマーの共鳴性」の注釈に書いたことの話をします。(Twitterとおなじ内容です)
①注釈で「ハンマーの共鳴性」をAジェンダーのトランスとして共時的に読み解く文章として、夜のそらさんのブログ(https://t.co/ZNOw0j1SeX) に触れました(「現代思想」2022年5月号の藤高和輝さんによる全訳の訳註でも紹介されています)。「ハンマーの共鳴性」が書かれた背景についてもかなり詳しいです。
夜のそらさんのブログを紹介したのは、記事の詳細さもありますが、なによりもハンマーを手に持って規範を削り返していた人のひとりとして夜のそらさんのことを書きたかったことによります。Aジェンダー・Aセクシュアルという何重にも不可視化されるアイデンティティについて、日本語で書かれており、かつ、アクセスが容易である数少ない文章のひとつでもあります。わたし自身もそれに勇気づけられたひとりですが、夜のそらさんのブログを読むことがハンマーで規範を削り返す別の誰かと出会うことになる人は少なくないのではないかと思います。
夜のそらさんのnoteのリンク→ https://note.com/asexualnight
②インターセクショナリティがブラックフェミニズムから出てきた概念だということ。このことを抜かしてインターセクショナリティの概念を利用することも可能であるように見えるかもしれませんが、フェミニズムを歴史の連続性のなかで語る立場からそれをすることは簒奪ではないかと思うので書いています。
③排除に至ったフェミニズムを「フェミニズムでない」として切り離すことの問題について。これは藤高和輝さんの、フェミニズムはフェミニズムの歴史を引き受けつつ自己批判によって自らを更新していくものだという旨の主張を受けたものなのですが、この主張の重要なもうひとつの側面は、つきつめれば、トランス排除などのフェミニズムから発生した排除的な側面をフェミニズムから切り離してはならない、という地点に至ることにあります。
排除的な側面をフェミニズムから切り離すことは、フェミニズムの内部での自己批判を不可能にして、結果としてフェミニズムの内部に排除や疎外を温存してしまうことに繋がります。フェミニズムも間違うので、無謬性を前提にしてフェミニズムを擁護するとその誤りを肯定することになってしまう、ということでもあります。
⑤最後に、冒頭にある開示について。わたしはそれでよかったのか未だに迷っています。脚注で釘を刺すことはしましたが、すでに別所でも書いたこととはいえ、開示のうえでそこに基づく主張を始めることは、他の書き手に対して開示せよ、そのうえで書けという圧力を発することにつながりうるからです。
フェミニズムにおいても人がそれぞれ規範のなかでばらばらに配置され、その位置をつかみ取り/直しつつ語っている、というのは見過ごせないことですが、同時に置かれた位置だけが問題になってはならない。それは「女」をフェミニズムの主体とすることの根底にあるものと同じだからです。
最近のことでいえば、女性を生きるフェミニストのミサンドリーを男性が生きる人が指摘したときに、ミソジニーの反省のみをしていろ、というように返されること、これも規範のなかで置かれた位置だけが重要視されている事例です。
フェミニズムの主体は「女」であるとまでも言わない人のなかにも、規範のなかで置かれた位置の問題を最優先に考える人も少なくないなかで、開示をしなければ説得的なものとして読まれないのではないか、というおそれによって開示は書かれました。でもそれは同時に、あの文章でそれをすることは戦うべき前提に乗ってしまうことではなかったのか、ということ。(おわり)