②インターセクショナリティがブラックフェミニズムから出てきた概念だということ。このことを抜かしてインターセクショナリティの概念を利用することも可能であるように見えるかもしれませんが、フェミニズムを歴史の連続性のなかで語る立場からそれをすることは簒奪ではないかと思うので書いています。
③排除に至ったフェミニズムを「フェミニズムでない」として切り離すことの問題について。これは藤高和輝さんの、フェミニズムはフェミニズムの歴史を引き受けつつ自己批判によって自らを更新していくものだという旨の主張を受けたものなのですが、この主張の重要なもうひとつの側面は、つきつめれば、トランス排除などのフェミニズムから発生した排除的な側面をフェミニズムから切り離してはならない、という地点に至ることにあります。
排除的な側面をフェミニズムから切り離すことは、フェミニズムの内部での自己批判を不可能にして、結果としてフェミニズムの内部に排除や疎外を温存してしまうことに繋がります。フェミニズムも間違うので、無謬性を前提にしてフェミニズムを擁護するとその誤りを肯定することになってしまう、ということでもあります。
⑤最後に、冒頭にある開示について。わたしはそれでよかったのか未だに迷っています。脚注で釘を刺すことはしましたが、すでに別所でも書いたこととはいえ、開示のうえでそこに基づく主張を始めることは、他の書き手に対して開示せよ、そのうえで書けという圧力を発することにつながりうるからです。
フェミニズムにおいても人がそれぞれ規範のなかでばらばらに配置され、その位置をつかみ取り/直しつつ語っている、というのは見過ごせないことですが、同時に置かれた位置だけが問題になってはならない。それは「女」をフェミニズムの主体とすることの根底にあるものと同じだからです。
最近のことでいえば、女性を生きるフェミニストのミサンドリーを男性が生きる人が指摘したときに、ミソジニーの反省のみをしていろ、というように返されること、これも規範のなかで置かれた位置だけが重要視されている事例です。
フェミニズムの主体は「女」であるとまでも言わない人のなかにも、規範のなかで置かれた位置の問題を最優先に考える人も少なくないなかで、開示をしなければ説得的なものとして読まれないのではないか、というおそれによって開示は書かれました。でもそれは同時に、あの文章でそれをすることは戦うべき前提に乗ってしまうことではなかったのか、ということ。(おわり)
④ハンマーの共鳴性(an affinity of hammers)のaffinityの訳語について。引用含めて、「類縁性」と「共鳴性」のふたつの訳語が登場しますがいずれも藤高和輝さんによる訳語で、前者は『〈トラブル〉としてのフェミニズム』の、後者は「現代思想」2022年5月号の「ハンマーの共鳴性」全訳のものです。
時系列的にいえば「類縁性」→「共鳴性」で、藤高さんの訳語の変化とも捉えられるのですが、あえてそう捉えずに、ダナ・ハラウェイが「類縁性(affinity)とは血縁ではなく選択によって関係性をもつこと」とした文脈を継ぐ「類縁性」の訳を選択したときに押し出される側面も拾うことを試みました。
「共鳴性」の訳のほうが、他者とのつながり方としてそれを提示するアーメッドの文章にふさわしいようにも思われるのですが、一方でアーメッドもまた同質性による連帯を否定する立場を前提としており、「ハンマーの共鳴性」は努力して獲得しなければならないもので、それは「選択的な関係性」である「類縁性」のほうがよく拾うことができるように思われます。アーメッドのいうaffinityは「共鳴性」と「類縁性」のそれぞれが拾うものの間にあるのではないか、ということです。