酒井隆史先生の日本には小泉純一郎以前にはポピュリズムは無かった。というエッセイが面白かった。だから日本と海外でのポピュリズムの理解にズレがあるというもの。リンクを見失ったので後で探して貼っときます。

あった!
【ピープルのいないところにポピュリズムあり?——「健全な病理」としてのポピュリズム】
ポピュリズムは、このように理念上ではピープルに主権を与えるということ、実態上では支配や搾取・収奪にピープルがさらされているということの亀裂からあらわれてきます。少し逆説的な表現ですが、ある種の「健全な病理形態」なのです。

ホワイトハウスにポピュリストが君臨した現在の事態は、おそらく、デモクラシーを代表制というかたちで抑え込み、かつ資本制のもたらすヒエラルキーを中和させる、といった20世紀に主流であった社会の構成が根本的なデッドロックにつきあたったことの表現です。そして、この「病理」を、権威主義的ポピュリズムは、デモクラシーを抑え込むかたちで「解決」しようとします。それに対して、――人間が生き延びるべきであるとして――、唯一の見込みのある方向性は、ただひとつ、デモクラシーをもっと深化させる道のみである、とわたしは考えます。(引用)

2019年に書かれたもの。
この突き当たったデッドロックの回避が戦争になってしまったのだな。
ibunsha.co.jp/contents/sakaisp
QT: fedibird.com/@satomuch/1115442
[参照]

サトマキ  
酒井隆史先生の日本には小泉純一郎以前にはポピュリズムは無かった。というエッセイが面白かった。だから日本と海外でのポピュリズムの理解にズレがあるというもの。リンクを見失ったので後で探して貼っときます。
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上記より、例にあげられた橋下徹の特徴。これは戦後右翼的なポピュリズムの特徴でもあると。今読むとこの通りになってるな。

1.敵をつくり、それを労働組合、自治体官僚、左翼、批判的メディア、マイノリティ組織などと同一視すること
2.民衆、あるいは一般大衆、マジョリティのふつうの人々を、そうした敵たちの敵対する対象として設定すること。
3.じぶんをそのマジョリティのふつうの人々と同一視すること。
4.それによって、デモクラシーの枠のなかの交渉すべき勢力から、かれらを外そうとすること。
5.選挙を完全に否定しないが、選挙をみずからへの白紙委任状と捉え、デモクラシーの機能を極端に縮小する傾向があること。代表制デモクラシーの代表機能を、可能なかぎり独裁的に解釈しようとすること。
6.三権分立や法の支配、表現の自由といった、リベラルな諸理念、諸制度を軽視し、これも縮小しようとする傾向があること。
7.排外主義や歴史修正主義、レイシズムに親和的であること。好戦的であること。
8.中間組織を嫌い、意思決定のトップダウン構造を構成しようとすること。指導者と、それに喝采する大衆という図式を好み、マスメディアを介したスペクタクルによってそれを調達しようとすること。つまり、権威主義的であること。

上記元エッセイを読んで、デッドロックにぶち当たったアメリカが取った道、と思うとなるほどな(納得している場合ではないが)。
www3.nhk.or.jp/news/html/20231

となると、我々はどう進むべきか。この言葉を参考にしたい。
「結論の先取り的になりますが、わたしは、ポピュリズムはデモクラシーが過小なところには必ず生まれてくると考えています。これをデモクラシーの過剰とみなしてしまうところに、リベラリズムの限界があります。」
デモクラシーの過剰とみなしてしまうリベラリズムの限界。まさに。ということは、ここの限界突破しかない。

そもそも、先に引用した1〜8の例が成り立ってしまう(現状成り立ってしまっている)のも「お上と民衆」みたいな関係が固定しまっているところにある。封建時代じゃあるまいに。
「お上」は「民衆」が選んで仕事を委託するものであるのが現在の議会制民主主義の建前であるのに、その建前を無視し、「お上」ヅラしている人たちの問題もあるけど、そうさせてしまった我々「民衆」にも問題はある。「お上」に任せておけば悪いようにはならない、という意識は上の世代に特に強かったと思う。委任しすぎたし、考えなさすぎた。
「お上」なんてものはない。そこからだな。

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