創作におけるルッキズム
でも、配役の美醜で善悪区別することと、『オペラ座〜』のファントムの凶行の背景にルッキズムがある、は違うんじゃないかなぁって思ったんだよね。
これはなんの宗教的知識のない素人の考えだけど、キリスト教圏における外見上の障がい(あえて障がいと言うが)が忌み嫌われるのって、人が神を模して創られたからなんじゃないかなと。つまり、何かしらの外見上の瑕疵がある=神の子ではない。だから、ファントムも見世物小屋で「悪魔の申し子」と言われていた。この「悪魔」も日本人が使う「酷い」とかそういうニュアンスではなく、文字通り悪魔、つまり排除されるべき存在を意味しているのでは。そう考えると、ファントムがクリスティーヌに語った「天国に密かに憧れる」も理解しやすいのではないかな。まさに宗教的赦しが欲しい、神の御国にいれて欲しい、そういうかと。
かの名バイオリニストのパガニーニは、その技術と引き換えに悪魔に魂を売ったと言われ、その死後埋葬を受け入れてくれる墓地(教会)がなかったというのは有名な話だけど、それだけキリスト教圏における「神に拒絶される」というのは、重大なことなんだと思うんだよね。
創作におけるルッキズム
加えて、どうして時代的に医学的(論理的)に「なぜそうなるのか」分からなかっただけに、悪魔が取り憑いたとされやすかったのではないか。ヒステリーが魔女や悪魔憑きと言われて処刑されたみたいに。
なので、配役やデザインにより善悪を美醜を表現することと、『ノートルダムのせむし男』や『オペラ座の怪人』における外見描写とそれにともなう言動は、単なるルッキズムとは性質が異なると思うんだわ。後者は医学的知識の欠如とか宗教観が多分に関係している気がするんだよね。
とか、つらつら考えてた。