創作におけるルッキズム
あたいのFilmarksのアカウントは完全壁打ちなんだけど、まぁこんな末席も末席のアカウントにリアクションつけば、同じ作品見たんだなぁってその人のレビュー見に行くんだよね。
で、『オペラ座の怪人』でそのリアクションあった方のレビューがルッキズムに関することで。その中で『パーフェクトブルー』と『福田村事件』にも触れてたんだよね。で、前者はよくその露骨なルッキズムに関して読んだことはあったけど、後者はわたしはルッキズムとは思わなかったんだよね。それはまぁはっきり言ってしまえば、わたしが出演した俳優人を特別イエメンとか美人とカテゴライずしてない人たちだったからなんだよね。で、後者に関してはその視点はなかったから「なるほどね〜」と思った。
創作におけるルッキズム
でも、配役の美醜で善悪区別することと、『オペラ座〜』のファントムの凶行の背景にルッキズムがある、は違うんじゃないかなぁって思ったんだよね。
これはなんの宗教的知識のない素人の考えだけど、キリスト教圏における外見上の障がい(あえて障がいと言うが)が忌み嫌われるのって、人が神を模して創られたからなんじゃないかなと。つまり、何かしらの外見上の瑕疵がある=神の子ではない。だから、ファントムも見世物小屋で「悪魔の申し子」と言われていた。この「悪魔」も日本人が使う「酷い」とかそういうニュアンスではなく、文字通り悪魔、つまり排除されるべき存在を意味しているのでは。そう考えると、ファントムがクリスティーヌに語った「天国に密かに憧れる」も理解しやすいのではないかな。まさに宗教的赦しが欲しい、神の御国にいれて欲しい、そういうかと。
かの名バイオリニストのパガニーニは、その技術と引き換えに悪魔に魂を売ったと言われ、その死後埋葬を受け入れてくれる墓地(教会)がなかったというのは有名な話だけど、それだけキリスト教圏における「神に拒絶される」というのは、重大なことなんだと思うんだよね。