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にわかの人、映画によっては解釈が面白いなと思って時々読んでたが、今回のアメリカン・ニューシネマについては「俺の思うニューシネマ」についてしか語ってないしさえぼう先生が映画史の資料を紐解きながらきちんと反論しているのに対してブルスコで「自分は映画を見て言ってるのに本読んで反論されても」的なこと言っててとにかく自分の解釈中心なので全然だめだな、フェミニズムやクイア表象については物凄く偏りがあってずーっと解像度が低いんだが全然認めない。
実際に見た映画について語ることのが実感がこもってて映画史や批評の歴史の資料を提示するより上なんだって考える人いるだろうな~と思ってたら本人がそうだったのであーあな感じ。昔からさえぼう先生に対する敵意が異常で映画の解釈が気に入らないからってここまで書くかねって思ってたけど。

で、私もそれほどニューシネマを見ているわけではないしさえぼう先生の反論を読んで「勉強になるなあ」と思っているような人間ですが、にわかの人が取り上げた作品についての解釈があまりに私と違うので、それを書いておこうと思ったんだった。

『暴力脱獄』について。「邦題とは逆に一切暴力的な抵抗をしないキリストのような受刑者(ポール・ニューマン)の物語」と書いているが、確かに主人公ルークの人物造形にはキリストが重ねられているが、この書き方だと非暴力を貫いた聖人のようじゃないか。この主人公が捕まったきっかけ、酔ってパーキングメーター壊すこと自体が暴力だし、刑務所にぶち込まれた後何度も何度も脱獄しては連れ戻されるのは刑務所内に蔓延する暴力に対する抵抗だが脱獄という方法もまた暴力的だと思うんだけど。暴力の解釈が違うんだろうか。あとゆで卵一気食い大会優勝して倒れる(倒れた姿が十字架にかけられたキリスト像を模している)とか、誰かに対する加害ではないけれど自分を痛めつける姿を見せつけて刑務所内での地位を高めていくところがあり、また何度目かの脱獄の後看守に土下座しているところを見とがめられ、今度は刑務所内での地位が下がって迫害の対象になるところなんか、この映画が暴力を描いていないとは絶対に言えない。「ニューシネマは暴力やセックスを主眼とした映画ばかりではない」という結論ありきで映画のテーマまで捻じ曲げないでほしい。『暴力脱獄』という邦題に関してはどうなんだと私も思うけれども。

『暴力脱獄』について最後のルークのセリフなんだっけと思って調べたら町山智浩が映画秘宝の公式NOTEでポール・ニューマンの追悼の文章書いててそこに「主人公のルークは決して暴力など使わない」って書いてるのね、この人も映画を恣意的に語るから信用できない。ワンハリのブルース・リーのこと「実際あんな人だったらしいですよ」って言ってたの忘れないからな!!!!

『暴力脱獄』ルークの抵抗と迫害はすべて切実な祈りの反転したものと私は解釈していて、クライマックスの教会の場面での神への挑発なんて胸に迫るものがある。
ただほんの少しだけ出てくる女性表象が本当に嫌。囚人たちの労役の最中に近所の農家の娘が囚人たちを挑発するため体のラインも露わな服着て水びたしになりながら洗車して、夜になると囚人たちが思い出してトイレに駆け込む、という特に描かなくてもいいだろなんだそれなエピソード。
ニューシネマというか60年代以降の映画てこういう女性蔑視的な描写が結構あって見ててしんどい、しかし件の人にとってはこういうの女性蔑視や客体化とは違うらしい。あの人冷笑系アンチフェミの自覚がなくて、フェミニズムについて一家言あって自分は理解してると思ってるんですわなぜか。

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