にわかの人、映画によっては解釈が面白いなと思って時々読んでたが、今回のアメリカン・ニューシネマについては「俺の思うニューシネマ」についてしか語ってないしさえぼう先生が映画史の資料を紐解きながらきちんと反論しているのに対してブルスコで「自分は映画を見て言ってるのに本読んで反論されても」的なこと言っててとにかく自分の解釈中心なので全然だめだな、フェミニズムやクイア表象については物凄く偏りがあってずーっと解像度が低いんだが全然認めない。
実際に見た映画について語ることのが実感がこもってて映画史や批評の歴史の資料を提示するより上なんだって考える人いるだろうな~と思ってたら本人がそうだったのであーあな感じ。昔からさえぼう先生に対する敵意が異常で映画の解釈が気に入らないからってここまで書くかねって思ってたけど。
で、私もそれほどニューシネマを見ているわけではないしさえぼう先生の反論を読んで「勉強になるなあ」と思っているような人間ですが、にわかの人が取り上げた作品についての解釈があまりに私と違うので、それを書いておこうと思ったんだった。
『暴力脱獄』について最後のルークのセリフなんだっけと思って調べたら町山智浩が映画秘宝の公式NOTEでポール・ニューマンの追悼の文章書いててそこに「主人公のルークは決して暴力など使わない」って書いてるのね、この人も映画を恣意的に語るから信用できない。ワンハリのブルース・リーのこと「実際あんな人だったらしいですよ」って言ってたの忘れないからな!!!!
『暴力脱獄』ルークの抵抗と迫害はすべて切実な祈りの反転したものと私は解釈していて、クライマックスの教会の場面での神への挑発なんて胸に迫るものがある。
ただほんの少しだけ出てくる女性表象が本当に嫌。囚人たちの労役の最中に近所の農家の娘が囚人たちを挑発するため体のラインも露わな服着て水びたしになりながら洗車して、夜になると囚人たちが思い出してトイレに駆け込む、という特に描かなくてもいいだろなんだそれなエピソード。
ニューシネマというか60年代以降の映画てこういう女性蔑視的な描写が結構あって見ててしんどい、しかし件の人にとってはこういうの女性蔑視や客体化とは違うらしい。あの人冷笑系アンチフェミの自覚がなくて、フェミニズムについて一家言あって自分は理解してると思ってるんですわなぜか。