ここからベネ・ゲゼリットの陰謀が少しずつ狂いだす。物語は、予定された未来を主人公たちが命がけで修正する話として語られる。それは自由意思の勝利などではない。
主人公ポールは、ベネ・ゲゼリットが筋書きを書いた「予定された未来」の物語を少しだけ書き換えるような、針の穴に糸を通すような微妙な違いを作るために命を賭ける。主人公は自らカルト宗教の物語の一部に取り込まれていく。それを険しい目で見つめる恋人チャニ。
そして、まだ胎児なのに存在感があるポールの妹。続編があることを匂わせて、映画は終わる。
この映画を劇場で観る体験は、なかなか他のものでは代替できない。「デューン砂の惑星」という特異な原作の映画化として、特異な映画を作ることに成功していると思っている。通常の映画作法の基準で見れば外れ値の映画といえるのかもしれない。
そして、「デューン」という創作神話は、キリスト教のフレーバーがあるように見えるし(聖母とその子ども)、非キリスト教的にも見える(アラブ風味の固有名詞の多用)。砂漠の民フレーメンは、映画を見る人にとってアラブの民が重なって見えるだろう。では、ポールの戦いはアラブの反乱のメタファーなのか? それとも「アラビアのロレンス」的な"白人酋長"ものなのか。そんな多義的な解釈をしたくなる映画。
「デューン 砂の惑星 PART2」を鑑賞してから一晩たって思ったこと。
これは反啓蒙の物語。
主人公ポールは、途中までは合理的な個人として振る舞おうとする。恋人チャニは、伝統と共同体を大事にしつつ、個人の自由と合理性も尊重する人物像として描かれる。
しかしポールは、あまりにも巨大な問題に直面し、自由で合理的な個人であり続けることを「あきらめる」。母親の勧めに従い「南」に行き、危険なドラッグを服用することに始まる通過儀礼を経て、カルト宗教の教祖になる。その祖形はイスラム帝国か。
この物語は、原作が書かれた1960年代の時代精神——若者達がアメリカ合衆国の指導者たちの理性を信じられなくなり、ヒッピーとなって反テクノロジーやドラッグに走った時代の雰囲気を反映している。ヒッピームーブメントは反啓蒙だ。
一方で現代に生きる私たちは、理性や合理性を拒否する反啓蒙が「うまくいかなかった」ことを知っている。個人的な意見として、私たちは反啓蒙から脱出し、現代に合った理性の使い方をする「新しい啓蒙」を目指すのがいい、と思っている。
@AkioHoshi 啓蒙と反啓蒙を止揚して、新啓蒙を創るわけですね。
@n9g はい、大筋では、それがよい考えだと思ってます。
(各論に入ると、ルートがたくさん存在してなかなか厄介なのですが)
@AkioHoshi 星さんのお話は各論の様々なことの勉強になるのでありがたく思っとります!
余談ですが、デイヴィッド・リンチ監督の1984年版『デューン/砂の惑星』は、原作のカラフルでキッチュな側面をよく描いていた。
上映中のドゥニ・ビルヌーブ監督DUNEは、色彩を意図的に抑えて描かれており、特にハルコンネン家の悪趣味なイベントは全編モノトーンで描かれる。リンチ監督とは逆の路線を意識的に取っている。
原作の解釈はビルヌーブ版とまったく違うのだけど、そして一本の映画としては破綻しちゃっているのだけど、そんなリンチ版も私は嫌いではありません。