この春から子どもが家を出る。家族3人で映画を観る機会ももうないだろう。ということで家族で観てきたのが「デューン 砂の惑星 PART2」(ドゥニ・ビルヌーブ監督、2024年)。
前作「DUNE デューン 砂の惑星」(2021年)でも思ったことだが、これはIMAXで没入しながら体験するべき映画。テレビのスクリーンで冷静に見てもあまり楽しめない気がする。
フランク・ハーバードの原作の作りは、創作神話であり、カルト宗教の物語であり、ヒッピームーブメントやドラッグカルチャーのメタファーでもある。ハリウッド流の脚本術や、いわゆる「バトルもの」的な戦術ゲームとは対極にある世界だ。そこにあるのは、予言と予知、陰謀と策略、暴力と復讐。理屈や倫理はない。
だから、この映画では普通の映画のようなカタルシス、爽快感はあえて排除されている。
舞台は遠未来。一周回って、銀河帝国は貴族が支配する権威主義的な体制であり、人々の価値観は家父長制かつ人命軽視。女性だけの秘密結社ベネ・ゲゼリットは長期的な血統を操作する陰謀に熱心で、人間も血統をつなぐ駒ぐらいに見ている。
主人公ポールの母親ジェシカは、ベネ・ゲゼリットの言いつけに反抗する。娘を産めと言われたが男子を産む。それが主人公のポールだ。
余談ですが、デイヴィッド・リンチ監督の1984年版『デューン/砂の惑星』は、原作のカラフルでキッチュな側面をよく描いていた。
上映中のドゥニ・ビルヌーブ監督DUNEは、色彩を意図的に抑えて描かれており、特にハルコンネン家の悪趣味なイベントは全編モノトーンで描かれる。リンチ監督とは逆の路線を意識的に取っている。
原作の解釈はビルヌーブ版とまったく違うのだけど、そして一本の映画としては破綻しちゃっているのだけど、そんなリンチ版も私は嫌いではありません。
「デューン 砂の惑星 PART2」を鑑賞してから一晩たって思ったこと。
これは反啓蒙の物語。
主人公ポールは、途中までは合理的な個人として振る舞おうとする。恋人チャニは、伝統と共同体を大事にしつつ、個人の自由と合理性も尊重する人物像として描かれる。
しかしポールは、あまりにも巨大な問題に直面し、自由で合理的な個人であり続けることを「あきらめる」。母親の勧めに従い「南」に行き、危険なドラッグを服用することに始まる通過儀礼を経て、カルト宗教の教祖になる。その祖形はイスラム帝国か。
この物語は、原作が書かれた1960年代の時代精神——若者達がアメリカ合衆国の指導者たちの理性を信じられなくなり、ヒッピーとなって反テクノロジーやドラッグに走った時代の雰囲気を反映している。ヒッピームーブメントは反啓蒙だ。
一方で現代に生きる私たちは、理性や合理性を拒否する反啓蒙が「うまくいかなかった」ことを知っている。個人的な意見として、私たちは反啓蒙から脱出し、現代に合った理性の使い方をする「新しい啓蒙」を目指すのがいい、と思っている。
@AkioHoshi 啓蒙と反啓蒙を止揚して、新啓蒙を創るわけですね。
@n9g はい、大筋では、それがよい考えだと思ってます。
(各論に入ると、ルートがたくさん存在してなかなか厄介なのですが)
@AkioHoshi 星さんのお話は各論の様々なことの勉強になるのでありがたく思っとります!
さらに余談ですが、アレハンドロ・ホドロフスキーがDUNEの映画化に取り組んだ経緯を描いた映画「ホドロフスキーのDUNE」によれば、ホドロフスキー版DUNEでは音楽にピンク・フロイドを起用する予定だった。結局、このプロジェクトはキャンセルされてしまうのだが。
ビルヌーブ監督の前作「DUNE デューン 砂の惑星」予告編では、ピンク・フロイドの曲「Eclipse」のカバーが使われていた。ホドロフスキーへのオマージュかもしれない。