思うところがあり、あれこれ調べ物。
●柄谷行人, 『トランスクリティーク カントとマルクス』, 2010年、
「岩波現代文庫版あとがき」より
しかし、私がヘーゲルのことをあらためて意識したのは、『トランスクリティーク』を日本で出版したあとまもなく起こった事件、すなわち、2001年の9.11事件、そしてイラク戦争においてである。この時期、アメリカのネオ・コンは、ヨーロッパが支持した国連を、カント主義的夢想として嘲笑した。彼らは、フクヤマ(注)とは違ったタイプのヘーゲル主義者だった。ヘーゲルは、カントのいう国家連合には、それに対する違反を軍事的に制裁する実力をもった国家がないから、非現実的だと述べた人である。このとき、私はあらためてカントについて、特に『永遠平和』の問題について考えるようになったのである。
注:「歴史の終焉」を唱えたフランシス・フクヤマ。
感想:911の後の軍事行動で、米国は国連の理念を、柄谷の言い方によれば「カント主義的夢想として嘲笑」し、軍事力イコール正義であるとの立場を押し通した。ガザ虐殺を前にしたバイデン政権のイスラエル支持も構図は全く同じだ。
私たちは、カントの言葉に再び耳を傾ける時期に来ていると思っている。平和、人権のアイデアの基本だからだ。
補足:
なお、カント哲学と人権のアイデアの関係については、哲学の専門家の間では議論が絶えない。大筋では、カント哲学で人権の思想を語ることには意味があることを多くの専門家が認めている。その一方、両者の関係について細部で批判しようと思えばいくらでもできる。
このあたりの議論は、以下の本に詳しい。
●レザ・モサイェビ:編,『カントと人権』, 法政大学出版局, 2022年
ひとついえることは、『カントと人権』で哲学のシンポジウムを開き本が出るほどには、カント哲学と人権のアイデアには深い関係がある。
哲学の専門家にとっては「違い」を意識した厳密な議論が重要であることは理解する。一方で、私は、「人々に共有される理念として分かりやすく役に立つ」という観点においては、細部を丸めた「通俗的理解」でまったく問題ないと思っている(純粋な数学と、工学で使う数学の違いのようなイメージ)。
なので私は「人権のアイデアを理解するにはカント倫理学が有用である」と堂々と言い続けます。