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(承前)「1790年頃のマサチューセッツ州のセーレム…でもヨーロッパと同じような構図がみられ、世帯主の社会的地位が高いほど家内集団が大きい。平均すると1世帯あたり商人の場合で9.8人、親方大工で6.7人、労働者で5.4人であった。セーレムの中流階級は下流階級より多くの使用人と徒弟を雇っており、出生率も高く、商人と手工業者の場合、平均すると5.9人であった。それに対して、労働者は4.6人であった。
 工業都市のノッティンガムでも労働者の家族規模は他の地域に比べて幾分大きいとはいえ、1世帯の規模はブルジョワジーよりは小さかった。…重要なのは、伝統社会の都市では『中産階級』の生活とは、多くの同居人がいることを意味していたということである。『ブルジョワ的』という言葉が小さな家族規模と仲むつまじい家庭を意味するようになるのは、近代化が旧体制を完全に解体し、近代的な仕事に従事する人びとにあふれた新都市が数多く生まれてからのことである」25-6頁

「現実には[農家で]同居する子どもの数はそれほど多くはなく、せいぜい2、3人にすぎなかった。…当時の女性は受胎可能期間中に平均10回もしくは20回妊娠したと考えられているのに、現実には、親元にたった2人しか子どもがいなかったのはなせだろうか。これには2つの理由がある。第1の理由は早死である。…
 …第2の事情は、子どもが早くから家を出て仕事についたことである」27頁

「ロジャ・スコフィールドは、1782年頃のイングランドのベドフォドシャ州にあるカーディントン教区で息子や娘が家にとどまった確率について次のように書いている。ここでは、男子は9歳の誕生日まで両親とともに生活するのが普通であり、11歳まで学校にかよう場合もあった。10歳から14歳の男子の4人に1人が奉公にでており、15歳から19歳ではその割合は5人に4人ときわめて高くなっている。20歳はじめの男子の7人に6人ないし8人に7人はまだ奉公にでているか、もしくは結婚しており、30歳までには、ほぼ全員が結婚してしまったと思われる。…カーディントンの女子の家庭生活は男子と違っていた。学校に行く女子は3人に1人であり、15歳までに親元を離れた女子は少なかった。15歳から19歳の時に男子の4分の3がすでに家を離れたのに対し、女子は4分の1にすぎなかった。多くの女子は、夫に手を引かれてはじめて、親の家を離れたのであり、自分自身で働きにでることなど考えもしなかっただろう」28-9頁

「核家族の存在は、どの時代についてもつぎつぎと『確認され』、そのたびに大反響がわき起こった。定説を修正しようとする者にありがちなことだが、この場合にも従来の常識をくつがえそうとするあまりいきすぎもみられた。かれらは、家父長制の支配とクランについての社会学者の幻想を修正するにとどまらず、夫婦家族——父母、子どもおよび使用人——こそがいつの時代でも、どの地域でも支配的であったと主張し、歴史的にみて常に核家族は変わりなく存在するという、かれら自身、幻想的な仮説を主張するにいたったのである」31頁

[↑上記に関する原注]
「わたしが、ここで厳しく批判している著者とは、もちろんわたしの良き友でもあるピーター・ラスレットである。彼は、すでに評価の確立している著書Household and Family in Pastの序で次のように述べている。『家族史における仮説ゼロとわたしが命名しているものは、資料の現状からやむなく家族という組織は、そうでなかったということが実証されれば別であるが、常に変わることなく核家族であったと推論しなければならないことであり、〔それはこの問題についてのある独特の確信〕から生まれてくるものである』。しかし、この著作のなかで示されている報告すべてが必ずしもラスレットの意にそったものになっていない。ラスレットはさらに数頁あとで次のように述べている。『複合家族が通常の人びとの通常の生活の一般的な背景となった時期や場所があったとは、わたしが考えるかぎりにおいて正しくないということにすぎない』。しかし、バルカン諸国、バルティック海諸国、ヨーロッパのアルプス地方、中央ドイツさらに中央および南フランス…の社会史に詳しい学者であればすぐに、ラスレットは公平を失しており、修正の必要があることがわかる」原注34頁

「北アメリカとイギリス諸島は、親族をふくまない世帯がもっとも多い地域であった。たとえば、ニュー・イングランド植民地では、世帯は一般的にかなり大きかったが、その主な原因は同居する親族が多かったためではなく、子どもの数が多かったからである。デイヴィド・フラァティは、1700年頃のマサチューセッツ湾岸やロード・アイランドの典型的な家族の規模は、平均すると5.8人であったと推定している。これらの世帯には、家族にくわえて家屋共有者、種々の使用人や間借り人がふくまれているため、世帯の平均規模は大体1人分大きくなっている(全戸の3分の1に使用人がおり、全家屋の3分の1に共有者がいた)」31頁→

(承前)「ピーター・ラスレットは、イギリスの農村について、おじやおば(傍系親族)が同居している世帯はほとんどなく、祖父母の同居も少なかったことを明らかにしている。アングロ・サクソンの世界ではどちらかといえば、親族が同じ世帯に同居することよりも、近くに住むことが多かったと思われる。こうした親族の隣居がイングランドの伝統的家族生活の特徴であったことを示す事例もある。ニュー・イングランド植民地でも、親族関係にある多くの家族が隣あって住んでいたのは確かである。しかし、このことから、19世紀以前の農村生活において拡大家族(夫婦が親族と同居している)が、主流であったととうてい主張することはできない(逆説的ではあるが、むしろ近代化が進むにしたがって死亡率が低下し、祖父母が長生きして子どもと同居する可能性が高まるのである)」31-2頁

「西ヨーロッパの他の多くの地域では、直系家族が多く、家に親族が同居しているのが普通であった。19世紀のフランスの社会学者フレデリック・ル・プレは、〈直系家族〉なる用語をつくりだし、この家族形態においては、長期にわたって世代から世代へと農地が分割されずに譲り渡されるとした。結婚と同時に農地をとりしきるようになるにしろ、妻とともに相変わらず父親の権威に服して生活するにせよ、いずれにしろ、相続権をもつ息子は花嫁を家に迎え入れ両親と同居する(もちろん、その他の息子は一片の土地も受けとらず、結婚もできなかったであろう)」32-3頁

「直系家族は2世代家族と比較すると、数的にはどのていどだったのだろうか。ヨーロッパ全土にわたる綿密な調査をおこなったあとでないと確かなことはいえないが、マイン河以南のドイツ、ロワール河以南のフランスでは、直系家族が一般的であったと思われる。…
 主要な世帯構造の第3のものは、東ヨーロッパにみられる大拡大(複合)家族である。これは、ユーゴスラヴィアでは、〈ザドルーガ〉、[ロシアの]バルト海沿岸のクールラント地方では、〈ゲジンド〉と呼ばれている」36頁

「植民地時代のアメリカの家屋は、設計者がイギリス出身であることを反映してか、他人に煩わされず親密な家庭生活を営むことができる場として作られている。…独立戦争の頃までには、アメリカ植民地の男女は、ヨーロッパの国では考えられないほど自由に、部外者の監視をうけることなく、性生活や感情生活を送っていたのである。もちろん、まったく自由であったわけではない。核家族であっても、建物の構造上、かれらのプライヴァシーは必ずしも完全に守られたわけではない。…
 プライヴァシーは西から東にいくにしたがって守られなくなり、プライヴァシーという考えは上流階級から下流階級にうつるにしたがって稀薄になる。中世の仕切りのない生活空間を区切って、べつべつの機能をもつ独立した部屋を最初に設けたのは富裕な人びとである」44頁

「家族愛はまず上流階級にあらわれ、広がったのであって、貧しい人びとの間にそれが広がったの比較的最近のことである。…夫婦が愛情を確かめあうには、2人だけの寝室、第三者を気にせずに甘い愛に酔いしれることのできる寝室が必要であった。このように家屋の構造の変化は感情革命の一側面をあらわしている。しかし、感情革命のべつの側面——たとえば男女関係におけるロマンティック・ラヴの出現——は、伝統的な住環境の変化をともなうことなく、下流階級から生じてくるのである」45頁

「家族史とは、核家族と周囲の共同体との関係の歴史である」45頁

「家族と共同体との関係は、20世紀と18世紀とでは異なる…今日では、私的領域と公的領域との間にははっきりと線が引かれており、それを犯すのは、市民の自由に対する侵害とみなされる。伝統社会では共同体と家族とはかたく結びついており、網のようにはりめぐらされた規則が両者を安定させていたのである。

 伝統社会の家族のおかれている環境そのものが、家族の親密さを作り出す妨げになっていた。好奇心にみちた顔が〈愛情生活〉をのぞきこんでおり、家族でもない人びとがひっきりなしに家に出入りした。生活空間が狭いためにどこにでも村びとの目が光っていて、感情や愛情に対する公的な規制もきわめて強かった。家族の親密な情緒的結びつきは生まれようもなかったのである。近代夫婦が生まれてくるためには、この強固な共同体生活が解体する必要があった。世代別に世帯が分離し、また家族でない人びとを家から除外し、家族規模が小さくなり、年齢的に近い人びとによって家族が形作られてはじめて、家族の感情的一体化が生まれてくるのである。そして夫婦は自分たちのことを自分で決定するという自立性をもち、心のままに振る舞っては大変なことになるという声を追い払わなければならない」54頁

「寒々とした農家やじめじめとした納屋のなかで、どのような家族の心の交流があったのか…気むずかしい使用人や病気がちの幼児にとりかこまれて、夫と妻は、どのように暮らしていたのだろうか。…次のようなスウェーデンの農民夫婦の姿のほうが真実に近いようである。『男が前を歩き、女は後を歩く、広い道でも、女は男と並んで歩いてはならず、後にさがって歩く。使用人である15歳の少年も、相手が30歳の女使用人であっても主人の娘であっても、男であるから前を歩くことには変わりない。実際に、この少年のうしろを農場主の妻が歩いているのを見ることもできる』」55-6頁
↑ K. Rob & V. Wikman (1937), Die Einleitung der Ehe, p.348.

「数世紀前には人びとは通常愛情ではなく財産やリネージのために結婚したこと、夫婦が互いを思いやったり顔をつきあわす機会を最小限に抑え、まず生活を支えていくためにこの冷淡な家族関係をむしろ大事にしたこと、そして、仕事の分担や性役割を厳格にして、感情をできるだけもたないようにしたことである。現代の夫婦なら、表情豊かに振る舞い、抱擁しあい、見つめ合って互いの心を確かめるが、伝統社会の夫婦には、そうした触れ合いはほとんどみられなかった。『俺は俺の役割を果たす。お前はお前のことをしろ。2人とも共同体の期待どおりに生きていく。<それだけのことさ>。それで死ぬまで大過なくすごせるというものだ』。かれらは、自分たちが幸せかどうか自問することすらしなかっただろう。
 …私は、伝統社会では、ほとんどの夫婦に愛情が欠けていた(もちろん、一握りの上層ブルジョワや貴族の家庭はこのかぎりではないが)と主張しようと考えている」56頁

「18世紀の…この若き医師[ブリゥド医師]によれば、田舎者に愛がみられないのは、生活の重荷に打ちひしがれたその日常のためであり、動物的に〈自然の成り行き〉に身をまかせた結果なのである。
 しかし、判を押したようにどの農村においてもみられる女性の男性への従属は、単に悲惨な境遇だけに原因があるわけではない。たとえば、アベル・ユーゴに描かれているブルターニュ地方の夫婦は、生きることだけで精一杯という状況にはなかったが、親密な感情的つながりをもっていたとは思えない。『妻は、家の中では女中頭にすぎない。土地を耕し、家事をし、夫が終わったあとで食事をとる。その夫の話ぶりは荒っぽく、ぶっきらぼうで、ある種の軽蔑すらうかがわれる。…』…フランス中央部にあるブルボネ地方でも、ブルターニュ地方と事情はそうかわらなかった。時代的には、少し新しくなるが、ベルナール-ラングロワ医師の証言に耳をかたむけてみよう。『この地方にも幸福な結婚をする人びとはいる。しかし、多くの人びとにとって、結婚生活は束縛にすぎない。相手に敬意を払ったり、気遣いや優しさもみられない』」57-8頁→

(承前)「このように当時の人びとが記すところでは、農民の間にはロマンティック・ラヴなど——これが出現するのはもっとあとのことである——存在すべくもなかったし、都市の中流階級の家庭にはすでにこの頃にみられた夫婦間の特別な親密さ——これはのちに『家庭愛』となる——も存在しなかった。農民の夫と妻は、それぞれに殻に閉じこもり、冷やかに対立し合ったままいっしょに暮らしていたのである。…
 …一般には配偶者の死をこれほど深く悲しむことはなかった。相手が死ぬとわかっても、それで情がうつるということもなかったと思われる。…農民夫婦を結びつけているのは情緒というよりも経済観念であったので、妻が病にふせっても夫は医者にかかる費用をだしおしんだ」58-9頁

「農民夫婦が互いにどう呼びあっていたか、あるいはどう呼ばれるのを好んでいたかを知れば、夫婦の心のうちをかいま見ることができるであろう。しかし、この点からみても、フランスの農民家族が友愛結婚の砦であったとはとても思えない。たとえば、サン・ロマン・アン・ガル(ローヌ県)という山村では、『妻は夫を尊敬しているようにみえる。妻は夫を〈旦那様〉、〈御主人様〉、〈御亭主様〉と呼び、間違っても親しげに呼ぶことはない。そして夫が食事をしている間中そのうしろに立っている』。その他の資料にも、農民の間では妻が夫を親しげに呼ぶことは珍しく、婚約中はなれなれしく『あんた』と呼んでいた女性でも、婚礼の日を契機に丁寧に『あなた様』と呼ぶようになる、と書かれている。
 …夫婦の間には、情緒面での深い断絶があったように思われる。よしんば、厳格に定められた社会的役割や性役割の枠組から抜け出ようとする人びとが少なからずいたとしても、それが資料に記録されていない以上、われわれにはわからないのである。
 社会の各層、また多分、都市と農村によって微妙な差異は認められたとしても、夫婦間の冷淡さは、1800年以前の夫婦生活の基本的特徴であり、どこでもそう大きな違いはなかった」61頁

「1748年に、プロシアの小都市ハレで小規模に発行されていた週刊誌が、1つの統計的な推定をおこなっている。すなわち、1000組の結婚のうち、幸せなのは10組そこそこであり、残りすべての結婚において、『夫婦はかれらの選んだ結婚を呪い嘆いていた』。…ドイツの小ブルジョワ階層に関するヘルムート・ミューラーの最近の研究…は、18世紀ならびに19世紀初頭の文学的資料や民族史学的な資料の徹底的な調査にもとづいている。ミューラーは、1820年以前のこの階層における結婚に、ロマンスを思わせるようなものはなに一つ見つけられなかった。彼が出会ったのはすべて、妻とも家族とも感情的なつながりをなんらもたない父親であった——かれらは、粗暴で強圧的で、男として外面を保つべく謹厳をよそおい、そして…狂ったように権威主義的となっていた。
 重要なのは小ブルジョワの夫がすべて粗野な人間であり、妻が残忍な仕打ちをうけていたということではなく、むしろそれぞれの果たすべき役割が厳密に定められていたことである。そして、役割遂行がうまくいかない場合、理解や歩み寄りをするだけの愛情がかれらの結婚生活にはなかったのである」63頁

「女性も<特定の領域においては>全面的に権限を握っていたことが明らかになっている。性によって完全に役割や仕事が区分されていたために、主婦は自分の小王国を思うがままに統治できたのである。夫が妻の仕事に口を出そうものなら、妻がとがめなくとも、友人か隣人の誰かが夫をたしなめた。これに対して今日では、女性特有の分野での女性の『権限』はかなり低下している。というのも、女性は、伝統社会では自分の管理下にあった領域をすべて男性とわかち合うようになったからである。友愛結婚においては、夫婦は、およそなにごとにつけ相談し、協同しあうものである。そのため、それぞれに完全にまかされる領域は小さくなってきている」68頁

「フランス…最も重要な点は、農婦がそれぞれの世帯において、かなりの権限をもっていたことである。今日のセルビア共和国の家庭において、男女間で『相異なっているが同等の』支配権が認められているように、伝統社会のフランスでも女性が一定の生活領域を明らかに支配していた。しかし、女性がつかさどる領域は、外部の市場経済からはっきりと隔てられていたため、夫に対してはほとんど力を持っていなかった。彼女は家に新しく富をもたらしはしたが、夫や世間に対しては、万事につき隷属的で下等な役割を果たさねばならなかった。そして、彼女が家庭内のある領域で自立性をもっていたとしても、そのことは彼女の境遇を改善するには少しも役立たなかった。市場経済と直接の接触をもつことによって——まず家内手工業によって、のちには、工場労働によって——はじめて、妻たちはこれらの従属的役割から自分を解放する手段を手に入れることになるのである」74頁

「夜に仕事から帰ってきた夫は、きつい仕事と貧苦で疲れ切っており、目の前の食事のこと——食事といっても、もちろん良いものではない——しか考えていない。休息が第一だったので、セックスの楽しみはそっちのけであった。セックスでは、彼の疲れを癒すことにはならなかったのだろう。妻は妻で、その日の気苦労や労苦で疲れ果てており、つましい食事——乳飲み子が食事の栄養の大半を奪ってしまう——が終わると、夫の腕に抱かれるよりは、夫のそばで眠りにつくことになる。わたしは、確信をもって次のように言うことができる。彼の抱擁〔彼のこの言葉はセックスを意味している〕は、純粋に本能的なもの以外にはありえず、やむにやまれない欲求からしか起こらない……。

 パルム医師がこれを書いたのは、農婦のところに幼児を里子に出している母親たちに、農婦たちがセックスの妄想にとらわれたりしていないと安心させるためであった。当時の人びとは、前戯や後戯によって引き起こされる性的興奮は、乳母の乳に悪影響をおよぼすと考えられていたが、農民の間ではそのような心配はいらないとこの良き医師が反論したのである」79頁

「もし、ヘルムート・ミューラーの使った資料が信用に足るものであれば、ドイツの小ブルジョワにおいても、夫婦間のセックスは上の事例と同様のおざなりのものであった。彼は、『男性の性愛的に相手を満足させる能力のなさ』について書いており、また仕立て屋のヘンドラーについて次のような話を語っている。彼は『無理やり押しつけられた妻である年上の女に好感も情愛も』抱いていなかった。にもかかわらず、彼女との間に14年間で10人の子どもをもうけた。かれらの性関係のありようが想像されよう」79頁

「18世紀末になると、若者たちは結婚相手を選ぶとき、財産や親の意向といった外的な動機よりも、内的な感情を重んじるようになった。かれらは、親がよいと思う相手ではなく、自分の好みの相手を選ぶようになったのである。さらに1950年代から60年代になると、年齢にかかわりなく——といってもとくに若者であるが——人びとは、ロマンティック・ラヴから感情的おおいを取りさって、性的本能をあからさまにするようになる。そして、人びとは人間関係においてエロティシズムこそが貴重であると考え、かつてのように時間をかけて感情的なつながりをえようとせず、すぐに性的関係をもつようになったのである。こうした心性の歴史的変化は、一般の人びとの間に広がり、社会的秩序に大きな影響を与えたのであり、それは革命的と表現してもよいほどであった。わたしが…『2つの性革命』と名づけたのはそれゆえである」83頁

「18世紀末には、婚前セックスにおける最初の革命があった。そして、1960年代には第2次性革命が起こり、その結果、婚前セックスは誰でもが経験するごく一般的な事柄となったのである」88頁

「18世紀末の婚外妊娠の急増こそ、説明されるべきもっとも重要な現象である。これはその前後(少なくとも1960年代以前については)のどのような婚前セックスにおける変化にもまして、多くの人びとの生活を変えたのである。結論を先取りしていえば、それはより広範な社会変化と完全に一致している。すなわち、かつて何世紀間もほとんど変化しないで続いてきた伝統社会は、『近代社会』と呼ばれる社会によって破壊され、とって代わられた。愛すべきわれわれの社会は、とりわけ愛情生活にまつわる事柄に関して、失われた世界とはまったく異なっているようにわたしには思われる。結婚前の男女の態度や行動におけるこの未曾有の変化は、伝統社会から近代社会への移行の一環をなしていると考えている」89頁

「フランドランは、性的衝動は普遍的に存在すると考えており、エロティシズムというものは一面でおさえこまれると、他の面でさまざまに現われてくるというのである。
 …フランドランは間違っており、1750年以前の大部分の若者の生活にはエロティックな要素はなく、伝統社会では独身者の性衝動は完全に抑圧(昇華といいかえてもいいが)されていたと考えている。
 たとえば、マスターベーションは、婚前セックスの革命が起こる前には、それほど広くおこなわれていたようには思えない」102頁

「第2次性革命
 20世紀の婚前セックスを考えるにあたっては、次の3点を心にとどめておく必要がある。(1) 中世以来、今日ほど婚前セックスが一般的だったことはないこと。(2) 1900〜1950年の期間は、過去の数世紀と比べれば明らかに『近代的』であるとはいえ、この期間内にはほとんど変化がみられなかったこと。(3) 1960年代と1970年代初頭に、第2次婚前セックス革命(第1次革命は18世紀末に起こっている)ともいえる大きな変化が起こったことである」112頁

「アメリカ合衆国では、1900-1909年に結婚した白人女性で、結婚前に妊娠した割合は7%であった。1945-49年ではそれは10%であり、それほど大きな変化はみられない。スウェーデンでは、女性が結婚前に妊娠している確率は、1911年では3分の1であり、1948年でもその比率はかわらない。第一次大戦以前のドイツの工業都市では、結婚したカップルのうち花嫁がすでに妊娠していたのは、2組ないし3組に1組の割合であった。30年後におなじような状況であった。どちらかといえば、婚前妊娠は、20世紀半ばよりも18世紀末のほうが多かった。というのも、この150年間で結婚していない人びとの避妊実行率がはっきりと高まったからである。
 1900年から1940年にかけて、どの国においても非嫡出子の誕生が急速に減少したことを思いおこす必要がある。…われわれは、非嫡出子減少の原因がセックスの減少にではなく、避妊の実行率の上昇にあるという結論に達したのである」113頁

「ドイツの労働者における自体愛の行動は、1960年代に頂点に達したと思われる。5分の4が15歳までに、10分の9が29歳までにマスターベーションをはじめていた。女子では15歳までに3分の1、20歳までにほぼ60%が経験した」120頁

「若者たちは、家族からも周囲の共同体からも性については統制されていたが、それからしだいに解放されてきたことである。セックスは、かつて未婚の若者どうしの関係において、危険でしかも二次的なものにすぎなかったが、いまや出会いとデートの中心的部分となった。このようにセクシュアリティが解放され、男女関係における他のあらゆる競合的な情動(金銭欲や家族エゴなど)を駆逐する過程は、2つの段階をへて進行した。すなわち、異なる2つの性革命があったのである。
 第1に、18世紀末ごろ婚前セックスが独身者の生活の一部になりはじめた。この時期以前には、結婚式をひかえた男女においてさえもセックスはゆるされなかった。この時期以降は、交際をはじめたかなり早い段階から、婚約した男女がセックスをする事例がおおくなったし、時代がさがるにつれて、婚約していない偶然ひかれあっただけの男女でさえも、ともに一夜を過ごすようになった」124頁→

(承前)「第2に、1950年代半ば以降になると、多くの未婚者にとってセックスはごく普通の体験となった。1960年代には、たがいにひかれあった若い男女が、性の領域にまで2人の関係を発展させる可能性は非常に高くなった。またそれほど愛情を感じていない男女が、セックスをすることも多くなった。そして、かれらは、『性の宣教師の役目』をはるかにこえて、性の試みをおしすすめることさえあった。…1960年代になると、カップルがセクシュアリティの領域で量的ないし質的な満足がえられない場合、そのカップルは解消され、またべつの相手と交際をはじめることも多くなった。<このようなこと>は、過去にはけっして考えられなかったことである」124-5頁

「伝統社会の男女交際における打算と愛情
 …男女関係に感情の交流がみられなかったという第1の証拠として、打算的な結婚をあげることができよう。若者の希望はまったく無視され、家を守り繁栄させたいという両親の願望を満足させる相手と結婚するとすれば、そこには、愛情も感情もみられないと断言してさしつかえないだろう」145頁

「フランスの農民の中ではかなりの少数派である富裕な農民の間では、やはり、家族の利害が第1であり、個人の健康やカップルの幸福は第2であった。
 しかし、結婚の多くは見合い婚ではなかった。個人がそれぞれ自由に相手を選んだのである。その場合、男女関係にどのていど愛情がみられるのだろうか。このことを考える場合にはまず、いつの時代でも現代のように人びとは感情を表現するものではないということを、あらかじめ心にとめておく必要がある。異文化の人びとは、われわれと同じ情動を感じても、われわれとまったく違ったようにそれを表現するかもしれない。それゆえに、18、9世紀の過去の農民をみる場合も、内的な情動のわれわれとは違ったあらわれ方に、常に注意をしなければならない」146頁

「ロマンティックな行動パターンは、特殊な時代的、文化的条件のもとで偶然あらわれることがあっても、もともと<伝統社会の>農民の男女交際にはみられないものである」147頁

「われわれの失った世界では、男女関係にいかなる感情劇も伴っていなかったということである。精神の高揚や絶望は、感情のうねりが歴史の表面にあらわれてきたときに、初めて生まれるのである。
 …農民の男女関係にロマンスが欠けていたという証拠は、公的な場でのカップルの振る舞いにもみることができる。…伝統社会の農民は、われわれのように感情を表現しようとしなかったと考えて間違いないであろう」148頁

「決心が本物かどうかは、最終的に、あらゆる障害をのりこえようとする意志によってきまる。この点において、農民たちの心は優柔不断なことこのうえない。すなわち、両親が結婚に反対するという障害につきあたると、若い2人は、どちらもあきらめてしまうのである。間違いを犯してはならない。両親の同意が<必要>なのである。両親の意思に逆らうと、財産を継承できないかもしれないのだ。世襲される社会では、世襲財産をもらえないことにでもなると、自然と飢え死に寸前にまで追いこまれることになる。また、しかるべき結婚式もあげないで家をかまえると、共同体のみんなの非難の的になるのはいうまでもない。それゆえに、少年が、少女の両親に結婚の申し込みをするまで、2人は何も決められないのである」150頁

「2つのことが読み取れる。第1に、カップル自身が自分たちの心の問題より家族利害を優先すべきことを了解していること、第2に、この過程にはかりな儀礼的な要素がみられることである。若い男女のつきあい方は、慣習によって決められており、『申し込み』をするための複雑なダンス(男性は決まりきった口上を完全に覚えてしまっている)、自分の愛がいかに純粋なものか、そして、どれほど夢中になっているかの表明——すべては、決まりきった会話であり、この古くからある男女交際劇の配役たちは、言うべきせりふを成長とともに学び、一生の間に繰り返し使うのである。人間どうしの自発的な関係、あるいは個人と個人の創造的な交渉といった世界はほとんどなかったのである。
 20世紀に入っても、相変わらず若者たちは両親の希望に逆らうことはなかった。ただし、第一次世界大戦の頃には、農民たちの間でも、感情のあり方そのものは大きく変わってしまっていた。…そう、これが、ロマンティック・ラヴというものである」151頁

フォロー

「ここで興味深いのは、わたしが知るかぎりイギリスの場合と違って、フランスやその他の国々においては、妻に対する虐待が共同体の強い関心をひくことは明らかになかったという点である。…イギリスにおいては、家族関係の近代化がかなり早い時期にすでにはじまっていたことが、ここでも認めることができるであろう。夫婦関係の平等化が進みだしていたため、共同体は、妻を罰する権利といった古い家父長権のなこりを容認するわけにはいかなくなり、妻をなぐる夫にも[シャリヴァリで]懲罰をくわえるようになったと考えられるのである。フランスにおいて夫婦の間の関係が対等になるのはかなりあとの時期のことであり、そのときには、すでにシャリヴァリの慣習は消滅していた」235-6頁

「シャリヴァリは、どの地方においても、共同体が個々の家族内部で秩序を保たせるための手段であり、家族のプライヴァシーや家族どうしの親密な結びつきを強力に妨げるものだった。シャリヴァリによって共同体は個人の行動を常に監視することができ、個人を逸脱行為から引き戻すことができた。あるいはまた——イギリスでしばしばみられたように——はみだし者を共同体から完全に排除した。共同体は家族の問題に介入する権利をもつという、この伝統的な了解が失われるとき——すなわち、核家族が誕生したとき——シャリヴァリはその存在理由を失うことになる」237頁

「〈家族愛の登場〉
 一般に現代の家族生活は『友愛』結婚——夫と妻の関係は支配と従属関係ではなく友人関係にあり、仕事と愛情を互いにわかちあう結婚に——[に]よって特徴づけられていると考えられている。おそらくこれは正しいであろう。しかし、近代家族の情緒的絆は、単に夫と妻だけを結びつけているのではない。それはまた子どもたちをも家族という感情の単位につなぎとめている。友愛という概念では、夫婦と子どもとの関係が必ずしも十分にあらわせない。また、『友愛』という言葉には、ある種の強いロマンティックな愛着が夫婦を永続的に結びつけるといった誤ったふくみが感じられる。いずれにしても近代家族をあらわすのに、友愛という概念では不適当である。それゆえ本書では、伝統家族から近代家族を区別するために『家族愛』という表現を用いた」238頁

「家族愛、すなわち、家族は外部からの侵入に対して、プライヴァシーと自立によって守られるべき貴重な情緒単位であるという意識は、近代における感情革命の第3の波を構成している。第1の波、ロマンティック・ラヴは、性関係に対する共同体の監視からカップルを解き放ち、愛情の世界へとかれらをみちびいた。第2の波である母性愛は、近代家族にくつろぎを与える安息所を築きあげ、共同体の生活との関わりから多くの女性を解放した。そして最後に家族愛が、家族を周囲の伝統社会との相互関係から切り離した。家族の構成員は、かつてさまざまな年齢集団や同性の仲間集団とわかちあってきた団結意識よりさらに強い一体感を家族の間でいだくようになった」238頁

「家族と共同体との多くの絆を支えてきた小都市や村の祭りが消滅しはじめるのは、ようやく1860年代から70年代になってからのことである。聖ヨハネの日のボン・ファイアやカーニヴァルの仮装行列は、その頃につぎつぎと姿を消していったのである。
 …ブルジョワ家族の生活様式がとり入れられることによって、富裕な農民が共同体と関わり合う機会は少なくなった。さらに、ブルジョワ的接待方法が下流階級の人びとをつきあいの場から追いはらうことになったのである。農民の世界での奇蹟がかくして起こる。すなわち、ワインと白いテーブルクロスが、伝統社会から近代社会への転化をもたらしたのである」241-2頁

「イギリスにおいては、親族がかつての友人および共同体の位置を占めるようになり、また、国家の社会福祉政策がかつて親族がおこなった伝統的な援助に取ってかわったため、核家族と知人や隣人とをむすぶ絆はかなり弱くなった」251頁

「(1) アメリカの家族はもともと『近代家族として誕生した』といってよいだろう。なぜなら、アメリカ大陸への植民者は、上陸と同時に、それぞれがプライヴァシーと家族水入らずの生活を原則として生活をスタートさせたと考えられるからである。…
 (2) アメリカの家族には、過去の世代との絆を断ち切ろうとする傾向があると思われる。…時間的な観点がないために、とくに若者たちは、自分が世代をこえてつながるリネージの1つの鎖の目であることを自覚することが困難になっている。…
 (3) アメリカの家族は、過去の数世紀にみられたあらゆる形態の共同生活からしだいに身を遠ざける傾向にあったと考えられる。今日のアメリカの家族が隣人とまったく関係をもたないことは調査によって示されている」254-5頁

「質的な面でも、親族間のつきあいは、共同体におけるつきあいにかわることはできない。親族の存在が、世代を越えてのびるリネージの一部であるという意識を個人にうえつけ、あるいは、親戚がなによりも困難な事態が起こったときに、身近にあって援助の手を差しのべるものであれば、それは、団結の儀式と物的な相互依存の意識とに支えられたかつての小共同体と機能的には等しいものといえるのかもしれない。しかしながら、今日人びとが親族に会うのはそんな理由からではない。親族はむしろ友人のようなものと考えられ、かれらと共に時間をすごすのは、パーソナリティを表現し、またそれを満足させるような理由——これが核家族誕生の起因であった——からである。今日の親族は、夫婦家族の自己中心的な情緒構造を補強し、拡大するものであって、それに敵対したり、それに破壊的脅威を与えるものではない。それゆえに、親族が、農村社会の灰の中から不死鳥のようによみがえったにしても、現代社会の核家族が物理的にも精神的にも、隔離された存在であることに変わりはないのである」257頁

「セックスは『家族愛』においてどのていどの位置を占めているのか。いいかえると、近代において夫婦を結びつけている根本的な絆はなにかということである。エロティシズムという強力な構成要素をもつロマンティック・ラヴか、それとも、幼子に対する母親の関心から生まれてくる家庭における幸福感なのか。…わたしが検討してきた19世紀のフランスに関する資料からみると、ロマンティック・ラヴは近代家族の構成要素としては比較的小さな役割しか果たしてこなかった。
 1850-1914年の間に、ほとんどすべての夫婦において夫婦関係の『性愛化』が生じた。ここでいう『性愛化』とは、男女の結合において、性行為および性的魅力がそれだけで独立した役割をもつようになったという意味にすぎない」261頁

「感情革命の起源は資本主義に求めることができるであろう。個人主義や愛情といった心性が生まれてきた時期には、農民の日常生活の経済的基盤も大きく変化した。価値や行動様式がこのように大きく変化したのは、多分、近代的な市場経済が伝統的な『モラル』エコノミーにとってかわったためであるといってよい」270頁

「男女関係の領域では、自由への希求はロマンティック・ラヴとしてあらわれる。幸福になりたいという願望、長い内面への旅に乗りだし、自己を磨き、自己を発見したいという願望がロマンスという形で意識の表面にのぼってきたのである。…性体験も自己実現の一部であって、個人主義によって共同体への忠誠という拘束を解放された人びとは、すぐに自由な性関係をもつにいたったに違いない。このように、資本主義は労働力市場を介して、ロマンティック・ラヴの出現に影響を与えた。つまり、経済的個人主義が文化的自己中心主義を生みだしたということであり、私的な快楽が全体の利益に優先し、自由への希求の結果として非嫡出子が激増したのである。
 …この自由への希求が男性よりも女性に大きな影響を与えた…女性の側で、男性とベッドをともにしてよいという態度が、18世紀になってはじめて生まれた…それは賃金労働の機会が増えたことによると、わたしは考えている」274頁

「自由への希求が芽ばえ、個人的自立や性の冒険に対する願望が気持のなかにおこってきていたがために、これらの女性は自ら進んで資本主義を求めたのだろうか。それとも、彼女たちはやむをえない事情から、伝統社会の安息の地から引き離され、このような自分に似合わない新しい経済環境に追いやられて、そこで性を食いものにされたのだろうか。わたしは前者の可能性が高いと考える。なぜなら、19世紀にはヨーロッパのあちこちで、若い未婚女性が資本主義的な賃金労働に惹かれ、伝統的職業から離れつつあったからである」276頁

「母親が自分の時間を育児とは違ったことに使う必要がなくなったのは、経済成長のおかげであった。手工業の雇う職人の数が多くなるにつれ、同様に、農民の場合も作男の数が増えるにつれ、妻の援助はそれほど必要ではなくなったのである。資本主義が農場や仕事場に浸透するにつれ、両性間の分業がはっきりしていき(ただし、性<役割>のほうはそれほど、はっきりと分離していたわけではない——これが本書を通じて性的分業と性役割を厳密に区別した理由である)、女性は生産活動よりも育児に専念するようになったのである。…
 このように、物質生活の向上した結果、母親は一段と育児に心を砕くようになった。家族の所得が増えるにつれ、女性の仕事も生産活動の担い手から育児係へと変わっていった。…そのおかげで子どもは生きのびることができたのである。
 19世紀末の乳幼児死亡率の急速な低下」279頁

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