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「リチャード・サラー…ローマ人の心情や実践の中に、紛れもない夫婦家族が存在することを、掘り出してみせたのである。世帯の構造化に関しては、複数の夫婦単位の同居はまれで、正常でないとみなしている。彼によれば、法学者たちは、共和政時代の者も含めて、既婚の兄弟同士もしくは父親と既婚の息子を連合させる合同世帯(joint household)の可能性を排除していた、という。…きわめてラスレット的な核家族への選好の痕跡」464頁

「ゲンスはパトリキの制度であった。だからあらゆる時代を通じて、貴族階級の家族よりも平民の家族の方が核家族的で、夫婦の絆が強く、女性尊重的であったとする仮説を立てても大胆過ぎるようには見えない」466頁

「〈ローマの進化の理論上の重要性〉
…分析を進めると、いくつかの歴史的変動の可逆性が浮き彫りになってくる。父系制の推進力が、微妙な差異に富んだ、時には局地的に偶然的な姿を見せるに至るのである。…父系制が今日でも、中国南部とインド南部において、いわゆる西洋的な近代化の外見を超えて、前進し続けている…日本のケースは、実質的な進化の例を提供してくれた。しかしその進化は、直系家族段階、すなわち息子がいない場合に娘による相続をつねに認める〈レベル1の父系制〉の段階で停止した。東南アジアの最大部分では、父系原則は、家族の母方居住反動、そして時には親族システムの母系反動を生み出したにすぎない。フイリピン人は長い距離と海とに守られて、起源的未分化状態からのいかなる変化をも免れた。
 父系制の作用は、全面的か部分的か、反動的か、もしくはゼロであるにしても、いずれにせよ不可逆的であるとこれまで思われてきた。これまでに研究されたケースは、つねに双処居住から単線性へと向かうものであった。ところがローマ帝国については、明瞭な逆行を経験することになるのだ。すなわち、親族に関しては、父系制から双方制へ、家族構造に関しては、複合性から核家族性への逆行である」475頁

「双方向性と核家族性への逆行は、2つの要因で説明がつく。まずローマの父系制が当初は脆弱であったことと、世帯の次元で稠密な父方居住共同体主義が不在であったこと。次いで、ローマが、蛮族の地か否かを問わず、女性のステータスの高さを特徴とする広大な空間を征服したこと。この空間は、西ヨーロッパだけでなく…エジプトも含む。敗れた者が破った者に作用を及ぼしたのだ」476頁

「〈帝国期の変動 核家族の新たな類型〉
 ローマの家族の歴史の標準的な姿というものは、最近まで、複合性から核家族性への、また権威主義から個人主義への粛々と進む前進という、ラスレット革命以前の家族の世界史の姿を凝縮したものに類似していた。ゲンス〔クラン〕が、ついでファミリア〔家門〕が、姿を消して行き、後期ローマ帝国時代には核家族に席を譲った、というわけである。この図式は、核家族性への逆行という図式と両立し得ることを、指摘しておこう。重要な差異は…伝統的な図式はも、ともに強力な父系制と複合性から出発していたという点である。
 この古典的な進化論的ヴィジョンに対して…ローマの家族がより核家族的であると考えるサラーは、不変説へと向かうヴィジョンを対置する」476-7頁

「ローマ法のユスティニアヌスによる変動は、平等主義核家族の出生証明であるとさえ言いたくなる。…晩期ローマが平等主義核家族にとって原型となっているという仮説は正しいだろう。
 この最終的な形式化は6世紀にビザンティウムで行なわれた。しかし本当のターニングポイント、つまり父系的家族観から双方的家族ヴィジョンへと移る転換点は、はるかに早い時期に位置づけられなければならない。早くも共通紀元前2世紀」479頁

「〈ヨーロッパにおける古代の父系制から近年の父系制へ 全般的図式〉
 ヨーロッパへの父系制の伝播はきわめて部分的なものであった。…それは以下の4つの段階を含むものとなる。出発点は未分化状態、次いで、地中海への父系制の最初の到来、この最初の地中海の極の自己破壊、そしてヨーロッパのステップからやって来た父系制の新たな波の到来である。
 初めは、他の地域と同じように、ヨーロッパでも未分化のシステムが支配的であった。それは核家族とこの核家族を包含する親族集団を組み合わせたものと想像することができる」486頁

「ギリシャの家族の歴史の特徴たる不連続制[ママ]を説明したいと思うならば、本質的な要素はおそらく、ユスティニアヌスの平等主義核家族モデルの存在が長い間続いたことである。ビザンツの歴史が終わったのは、1453年のことにすぎない。これは、ローマ帝国末に成熟期を迎えた双方家族のイメージの優位が10世紀近くも続いたことを意味するのである」487頁

「ロシアの農民は16世紀末まで自由であったが、その後17世紀の間に農奴化したのである。農奴制の確立と共同体世帯の採用との間に関連を打ち立てるのは魅力的な試みである。農地の構造と家族の構造は、他のところでもそうだが、ロシアにおいても、一まとまりの全体をなしており、1つの人類学的システムを定義するのである。これは農奴制・共同体主義という一まとまりの誕生ということになろう」498-9頁

「[ダニエル]カイザーは、農民の家族は17世紀まで核家族であったとするロシアの歴史研究者の多数派の結論を、多少の疑問を呈しながらも確証している」499頁

「すでに中国のケースを検討した時から、父方居住で外婚制の共同体家族というものが、どれほど自然なものではなく、個人にとって拘束的なシステムであったかを、私は強調している。私の解釈では、この家族の出現には特別な条件が必要であった。中国では、まず定住民の間で父方居住直系家族が出現し、次いで北方の遊牧民に萌芽状態の父系原則が伝達され、この原則がステップにおいて対称化され、最後にそれが中国を征服することによって帰還を果たすという複雑な過程があった。ステップのクランの父系制的対称性が、中国の父方居住の直系家族の上に上塗りされることによって、父方居住の共同体家族の出現が可能となったというわけである。このモデルを私はインド北部に適用することができた」500-1頁

「共同体家族の2つの変異体を区別すべきではなかろうか。1つは縦軸によって支配されたもので、もう1つは横軸によって支配されたものである。家族構造によってイデオロギーが決定されることを論じた私のこれまでの著作の問題系を再び取り上げるならば、縦型の傾向が見られる共同体家族と横型の傾向が見られる共同体家族を区別することによって、セルビアならびにイタリアの共産主義とロシアの共産主義との間に存在する重要な差異を理解することができるはずであると、認めなければならない。ロシアのボリシェヴィズムの厳格さとイタリアおよびユーゴスラヴィアの共産主義の柔軟性との間の対比は、第3インターナショナルの歴史の決まり文句であった」。おそらくこれはグラムシ…の柔軟性とユーゴスラヴィアの自主管理の起源に他ならないのである」503-4頁

「<幻想1——起源的母系制>
…母系制の罠は、ギリシャ人の民族誌学者によって仕掛けられたものである。彼らは女性のステータスを著しく低下させた父系世界の出身で、女性の自立性を示すいかなる印をも系統的に母系制の証拠あるいは痕跡と解釈した。ギリシャ語の専門用語を用いるなら、〈家母長制〉(matriarcat)とか〈婦人覇権〉(gynécocratie)ということになるが、ここでは母系制とのみ言っておこう。…この罠は人文科学の歴史の最大の誤りの1つ、意味を持たない文書を大量に生産する、まさに精神の墓場となっていった。…
 1861年に出版されたバッハオーフェンの大著『母権制(Das Mutterrechit)』は、あらゆる誤りの生みの親とみなすことができる。…中国の民族誌学者たちはギリシャの民族誌学者と全く同じように父系制的精神を持っており、したがってわれわれにチベットとインド北部に存在する女性国家の存在と歴史に関する『証言』を残している。バーゼルのエリートたるバッハオーフェンは、ギリシャ人と中国人のように、父系制は文明のより進んだ局面として家母長制の後に出現した、と明らかに信じていた」504-5頁

「現在の母系制社会と未分化社会の現実を観察した者にとってはまったく単純なある事実…女性のステータスは、実際は母系制社会よりも未分化社会の親族システムにおける方が高いのである。この真理は、母系制システム…が、征服的な父系制に対する反動にすぎないことを理解すれば、より容易に認められるようになる。女性がステータスと財産の継承の主体になったとしても、女性が未分化システムにおけるよりも支配的であるということにはならない。未分化状態では女性は単に男性と同じように自由に配偶者を選ぶことができる。母系制の下では、女性のステータスは、父系の組織編成におけるよりも当然高くなる。しかし女性はもはやシステムの中の1つの要素に過ぎないのであるから、そのステータスは、未分化の世界の中で占めていた位置と比べれば、自立性が減少したものとなるのである。母系制システムでの女性の中心性というものには、夫が平均して妻より10歳年上であるというような、きわめて大きな夫婦間の年齢差が伴う場合がある。要するに、未分化システムの特徴たる夫婦間の年齢の相対的同等性というものとは、大分異なるのである」505-6頁

「母系制は北アメリカのすべてのインディアン住民の特徴というけではまったくなかった。北アメリカには多数の家族システムの変種が共存していたのである。しかし親族名称分析によって、実際に人類学の歴史に革新をもたらした重要人物であるモーガンが母系制を主張したとなると、もう取り返しがつかなかった。…この理論はいまや成熟し、中国人類学に影響を与えることになる。中国人類学の方は、婦人覇権的幻想を語る己自身の古典的著作を再発見することになるのである。円環は閉じられた。ギリシャ民族誌学者と中国のマルクス主義者は、同じ父系制の社会の出身であり、時間的・空間的に遠く離れているにもかかわらず、容易に意見の一致点を見いだすことができたわけである。過去において、母系制、母方居住、家母長制、等々が支配していたという一致点を」506-7頁

「<幻想2——インド・ヨーロッパ父系制>…
 最初は父系制であったとする仮説は、家族構造が複合的なものから単純なものへと進化するという仮説と容易に組み合わされる。メインはインド・ヨーロッパ語族が過去において父系制であったと想像した時に、彼は北部インドの〈ジョイント・ファミリー〉を念頭に置いている。彼はそれを古代的(アルカイック)なものと考えたが、これはその時代のヨーロッパのすべての学者たちが、核家族とは近代の獲得物であると想像していたのと同じ考え方に他ならない。…インド・ヨーロッパ語族という幻想は、歴史社会学の〔父系制という〕この常識に調和的に統合されていたのである。
 父系制の仮説それ自体は、本来的には母系制の幻想と矛盾するものではない。ギリシャ人は文明化された家父長制という理想が、家母長制の後に現われたと想像していた。この両概念の両立が難しくなったのは、インド・ヨーロッパ語族という仮説が付け加えられたからである。なぜならそれによって、父系制ははるか以前の過去のものとなってしまい、〔起源的過去のものとされていた〕母系制の幻想が処理不可能になってしまうからである」510頁

「ギリシャは多数の都市国家に細分化されていたために、アテネの勢力伸長以前の、女性のステータスの高さの痕跡を観察することができる。…スパルタの女性のステータスは、古典時代には文化的常識であり、スパルタが古代的(アルカイック)であることの印と解釈されていた。アテネあるいはローマの父系制を、インド・ヨーロッパ語族全体に共通した古代的(アルカイック)状態の残滓として提示するというのは、実のところ、歴史的な良識がかなり欠けているところを曝け出すことなのだ。なぜならアテネとローマは、まずは類型に収まらない都市国家であり、その後、歴史的成功を収め、伝統の保守よりもむしろ革新[父系革新?]の場となったのだからである」511頁

「長子相続制度は、最後はドイツ語圏を支配することになり、イングランドにも影響を及ぼしたが、生まれたのはフランスにおいてである。この革新はカペー朝初期に、パリ盆地のフランス貴族もしくはフランス・ノルマン貴族のもとで始まった。…本書の全篇を通じて一貫するテーマの1つは、人類学においては、ある概念とその反対概念とは相対的に近接しているということである。例えば、父系制と母系制については、そのそれぞれが未分化性に対して持つ距離よりも、互いの間の距離の方が近いのである。家族生活に関しては、権威と自由、あるいは平等と不平等についても同じことが言える。権威と自由の2つはともに、世代間の実践的相互作用が不明確な状況というものに対立する。平等と不平等は両方とも、個人を互いにランク付けすることに対する無関心というものと区別されるのである。分析がここまで来ると、未分化性の概念を以下のように一般化することができる。すなわちこの概念は、父方親族と母方親族、自由と権威、平等と不平等の間に打ち立てられる区別がいずれも存在しないということを含む、と」520頁

「ルッツ・バークナーが行なったオーストリアやドイツの直系家族に関する研究は、ラスレットによって開始された、工業化以前のヨーロッパでの核家族の遍在の可能性をめぐる論争の中で重要な役割を果たした。ラスレットは、直系家族地域で複数組の夫婦を含む世帯がそれほど多くないために、〔核家族が遍在するとする〕誤りに引きずり込まれたのである。バークナーは、家庭集団の直系家族型発展サイクルでは、3世代世帯はある種の局面で姿を見せるにすぎず、住民リストの中に、ラスレットの用語に従って言うところの〈複式〉世帯の比率がひじょうに高く出ることを期待してはならない、ということを立証した」534頁

「〈直系家族 スカンディナヴィア〉
…19世紀初頭のスウェーデンの法律は、相続は子供の間で分割するように定めていたが、女子は男子の半分の権利しかなかった。これはコーランの定める規則と類似している。このことは、ヨーロッパ諸国の社会の中でも女性に最も有利な社会の1つたるスウェーデンとしては意外であるが、同時に、コーランの教えがどれほど反女権主義的とみなされ得ないかを示してもいる」537頁

「〈絶対核家族 イングランド〉
…イングランドの絶対核家族は、考え得る、そして観察し得るすべての家族システムの中で、その単純性によって極限をなしている…絶対核家族は平等主義核家族に近いが、実践においては世代間の相互の独立性をさらに確実に保証する。なぜなら、平等主義核家族には、すでに与えられた財産の〈持ち戻し〉の手続きがあり、このために子供たちは父親や母親が死亡した時に、遺産を細心綿密に分割するために集まらなければならないわけだが、絶対核家族にはこの手続きはないからである」548-9頁

「絶対核家族——もっとも平等主義核家族もだが——は、いかなる人類学的・社会的実体もない空虚の中で、それだけがひとりでに機能することができると思い込むのは、大きな誤りであろう。絶対核家族は、起源的家族を囲い込んでいた双方的親族集団を脱ぎ捨てて、一時的同居および末子による高齢の両親の世話という実用的慣行を捨て去って——いずれにせよイングランド中心部では——、純粋なものとなったわけだが、これらの要素に代わる代替メカニズムに頼る必要が生じる。ケンブリッジ学派はもちろん、家族の超個人主義によって生み出された具体的な困難が、いかにして管理され得たかということを、思料した。…現地の共同体の機能の仕方…その重要性は、広範な親族関係の役割が減少するにつれて増大するのである。16世紀から19世紀までのイングランドの特徴の1つはまさしく、小教区の扶助と拘束の役割が、国家に依拠しつつ、早期に制度化されたことである。これはおそらくヨーロッパでも唯一無比の事例である」549頁

「工業化以前の社会保障も、世帯の純粋な核家族的構造も、平等主義的核家族のケースで、支配的ではあるが排他的ではないものとしてわれわれが出会った、大規模農業経営がなかったなら、考えられなかっただろう。確かに核家族は他の形で機能することもあるだろうが、次のようなことは確実である。すなわち、農業賃金労働は、昔の農村の枠内では、一般的に小さな家と、庭と、多少の家畜、それに共同体の土地での入会地放牧権と落ち穂拾いの権利の所有を随伴するが、ここの賃金労働は両親と子供の分離を可能にするということである。賃金労働が老人を助けることがあるとしても、それは副次的なことにすぎない。一方、賃金労働のおかげで、若者は使用人として働くことで資産を蓄積することができ、次いで両親から独立して収入を得ることができるようになる。イングランドでは大農民の息子たちも他の大農民の家に使用人として送り出されていた。こうしたセンディング・アウト〔送り出し〕の慣行は、純粋に経済的な面ではまったく正当化されるものではなかったが、これなくしては農村上流階級における絶対核家族の作動は、考えられないのである」550頁→

(承前)「したがって平等主義核家族地帯と同じく絶対核家族地帯において、家族の核家族としての完璧性と農地の集中との間の連合が見出されるのは、意外なことではない。とはいえ大規模農業経営と核家族との相互補完性を強調するからといって、経済的決定の観念に賛同していることには、いささかもならない。農地の集中はたいていの場合、経済的近代化の過程の結果として出現するのではなく、ひじょうに古いかもしれず、もしかしたら社会が成立したとき以来であるかもしれない歴史に由来する構造的要素として姿を見せるのである。このことは、カウツキーが気付いたことであったが、マルクスはそれに気付かなかった。私は『新ヨーロッパ大全』で、中世の大領地と近代の大規模経営との間に存在する連続性を分析した。…
 …イングランドのケースでは、17、18世紀のエンクロージャーの動きが、貧しい農民が持つ共同体内の権利を清算することによって、それまでにすでに二極化していた農村の形態を完成させた。しかしエンクロージャーの分布図それ自体、中世の大領地の分布図と合致していたのである」550-1頁

「〈ル・プレイの類型以外の類型〉
 これまでに記述された3つの家族類型(平等主義核家族、直系家族、絶対核家族)は、共通して高レベルの形式化に達している。これらの家族類型を構造化しているのは、核家族性か同居か、平等か不平等か、それとも遺言を行なう絶対的自由か、といった規則である。ル・プレイは、これらの規範を特定することによって、自分の類型体系を築き上げることができた。しかしまぎれもない周縁部的な古代的形態(アルカイズム)の保存庫にほかならないヨーロッパは、ル・プレイによってリストアップされていない形態を観察することもまた可能にしてくれる。…昔のシステムの残滓を見いだすのは、周縁地域の保守性という分析観点からすればまったく正常なことなのである」553-4頁

「〈フランス西部の謎〉
 家族システムを研究して40年になる現在、フランスの西部は私にとって、結局はいくつもの大きな誤りと不断の当惑の場所であったということになるだろうと、私は思っている。誤りの方はどちらかと言えばブルトン語使用のブルターニュに関わり、当惑の方は西部内陸部ならびに昔のポワトゥー州、つまりヴァンデ県を含むポワトゥー州に関わるものであった」566頁

「<3. ポワトゥー州とヴァンデ県>
 …彼[アラン・ガベ]はこの曖昧な様態に名称を与えるために、私が東南アジアならびにアンデス山脈のインディオ・システムを記述するために『第三惑星』で利用していた類型体系を継承して、『アノミー的家族』と呼んでいる。
 『アノミー的』という用語は、デュルケム以来、存在していたとされる諸規則の消滅を喚起していた。私としては今では、この規則の不在は、むしろより古い家族形態の残滓であると考えることになろう。
 …その地の支配的家族類型は核家族であったが、それにもかかわらず、一時的同居という現象と曖昧な遺産相続実践が排除されることはなかった」574頁

「一時的同居あるいは未分化の親族集団内に組み込まれた核家族が検出できる地域を枚挙してみて驚くのは、そのリストには歴史的、民族的あるいは言語的に古典的な何らかの集団への参照を必要とするものは含まれていないということである。ヨーロッパの中のケルト部分、ゲルマン部分、ラテン部分、スラヴ部分に属する実例が仲良く混じり合い、それにラップ人やタヴァスティア州のフィンランド人といった、非インド・ヨーロッパ語系民族も顔を出す。これが人類の古い昔の共通の基底から出自する諸形態の残滓であるとする仮説を受け入れるならば、このことに驚く理由はいささかもないのである」576頁

「いずれにせよ、子供をあまり登録しない社会では、世帯の平均サイズというものには、実質的に意味はないのである。そこから西欧全体で家族は核家族であったという命題を演繹することはできない。だからといって、ある特定の地域で、核家族仮説がこのきわめて古い時代に関して妥当であることを認めないとしたら、今度は逆に不条理である」582頁

「最も古い人類学的基底に関しては、データに現われる痕跡を検討するなら、相続慣行を通して、広大な親族集団を観察することもできるし、時には核家族的形態に到達することもできる。ただしいかなる地域についても完全な一覧表を手に入れることができるわけではない。確実なことは、ヨーロッパ大陸の西部の最も遠い過去を探っても、長子相続を伴う直系家族システムなり、共同体家族システムなりの痕跡をどこにも見つけることはできないということである。現存する稀少な情報源は、核家族で未分化の共通の基底という仮説をさらに強固なものにしてくれる」583頁

「ノルマン人の拡大によって、長子相続制は海を越えて各地へと伝播することになったが、とはいえそうして伝播した国々で、長子相続は元々の形態のままで生き残ることは、決してなかった。典型的な例がイングランドで、1066年という、やがて有名になる年に行なわれたノルマン人による最初の征服によって征服されたこの国がどうなったかは、周知の通りである。
 ノルマンディでは、中世において貴族の直系家族の最も見事な具体化の1つが、総領制(parage)の理論によって形を整えることになった。総領制とは、宗主に対する封建的義務について長男を弟たち全員の分まで責任を負う者と指名する。弟たちは、土地と城館を保持したが、それでも跡取りに指名された息子の権威から逃れることはできなかった。このようなシステムは、長子相続の厳格性と柔軟な血統の横への拡大とを組み合わせるものであった」605頁

「ジョージ・ホーマンズ…は、13世紀のイングランド農民に関するその古典的な著作の中で、遺産相続慣習を研究している。彼は長子相続地帯と末子相続地帯を系統的に分けようとはしないで、まずこの2つの遺産相続様式は、微細なレベルで混ざり合っていると示唆する。…
 これとは逆に、土地の分割可能性地域は、ホーマンズによって同質的で、それゆえに周縁部的な地帯として明快に定義されている。…
 遺産相続規則についての彼の議論は、基本的には、各地域に定着した住民集団の民族的起源に関する、その当時めぐらされた思弁を採用したものである。…しかしもし、イングランドにおける長子相続地帯と分割可能性地帯の分布を、民族的起源に関するあらゆる予断を忘れて、全体的に眺めてみると、長子相続が中心部に位置し、分割可能性が東と西の周縁部に分布していることを見て取ることができる。長子相続制の規則が理論上の中心から発して周囲に押し付けられていったことが想像できる…中世イングランドの周縁部の検討は、長子相続の押し付けの試み以前のイングランド全域の姿を蘇らせることになるかもしれないのである」606-8頁

「〈直系家族概念の成功と挫折 農地制度による説明〉
 …なぜヨーロッパ大陸の特定の地域で、ついには直系家族という概念が農民層に広がり、貴族のものよりもさらに厳格に農民の家族生活を構造化するに至ったのか…自ら望んでか、強制的であるかにかかわらず、農民たちによる長子相続の採用は、より稠密な家族形態をもたらすことになるのである。ただ1つの農地について、ただ1人の子供への分割なき移譲は、世代間の緊密な同居へと向かう可能性がある。…
 …長子相続という理想の導入以前に、複数のはっきり異なった農地システムが存在していた…農地の経営で家族経営が多数派であったところでは、直系家族システムは調整に便利で、問題が起こった場合の解決策として提出されていた。中規模農地からなる、住民が充満した世界では、子供たちの転出の可能性が底をつけば、長子への不分割相続が横行する可能性があった。領主の大荘園が耕作空間の大部分を占めていたところでは、不分割のメカニズムは農村部のきわめて少数の上層カテゴリーにとってしか意味かなかった」609頁

「ヨーロッパの直系家族の出現が、比較的最近の局面においてきわめて漸進的に進行した…ディオニジ・アルベラは、アルプス山脈南部では、直系家族が定着し始めるのは17世紀以降に過ぎないとしている。…直系家族の確立は、10世紀末に始まり、ほぼ千年に及ぶわけである。しかし直系家族の革新の重要性は、この革新が定着に成功した領域の範囲を越えている。この革新の適用が社会を征服することに挫折したところにおいて、この適用は、純粋な核家族システムの再浮上もしくは出現を促進させることになったのである」614頁

「〈純粋な核家族システムの出現〉
 イングランド(あるいはデンマークもしくはオランダ)の絶対核家族、ならびにフランス(あるいはカスティーリャもしくは南イタリア)の平等主義核家族は、ユーラシアという塊の周縁部に位置し、核家族性および親族システムの未分化という基本的な古代的(アルカイック)特徴を保存してはいるが、歴史的変遷の結果として単純化され練り上げられた形態である。われわれは中世から始めて、これらの核家族の出現を理解しなければならない。この時代に関しては…未分化の親族集団の中に包含された、近接居住もしくは同居を伴う核家族という仮説を受け入れることができる。農地制度の構造が基本的な説明要因となる」614-5頁

「〈平等主義核家族の再浮上 ローマの痕跡〉
 平等主義核家族がまるまるかつてのローマ帝国の空間の中にすっぽりと収まる…
 後期ローマ帝国の家族はそれ自体が、都市部では平等主義核家族の言わば原型であった。ローマ帝国のかつての版図には、平等主義的価値の文化的持続を想定しなければならない。それは都市システムの名残、大荘園、ブドウ栽培などに付着して、各地に拡散していた。…
 貨幣経済への回帰、都市の再生、大規模農業経営——ならびにそれに対応する労働者——の再確立が、ローマの平等主義の残滓と組み合わされて、平等主義核家族の台頭を担保した。それは時とともに系統的に強化されていったと考えることができる。
 長子相続制という徹底的な不平等主義概念が社会の上層階層に定着したことは、その反動で、住民の中の被支配的部分に平等という反対概念が明確化するのを促進することにもなり得た。…
 とはいえ…あまりにも静態的な、言ってみれば構造主義的な見方を導くことになってはならない。…フランス革命以前には、個人主義的・平等主義的な家族は、模倣に値する上流階級に担われた威信あるモデルではなかった。したがって平等主義核家族が占める空間の増大の可能性は、農民共同体とその拡大というレベルで探求しなければならないのである」616-7頁

「〈イングランド的家族の創出〉…
 遺言の自由な行使は、親族のいかなる統制からも解放するがゆえに絶対核家族の根本的要素であるが、とはいえこれの起源は、いつともしれぬ太古の昔に遡るわけではない。…中世の終わり頃には、家族というものが己の法的自由を回復しようと努力していたことが感知される。ヘンリー8世…から、遺言の自由が肯定されるようになる。1540年には、『従軍』義務が課せられている農地(封土)の3分の2とそれ以外の土地全部を自由に処分することが可能になる。革命下にあって、従軍義務のある保有地は明らかに時代遅れのものとなり、長期議会は1645年に遺言の完全な自由を確立する。…したがって遺言の自由は、比較的近年の歴史の生産物なのである」619頁

「〈直系家族と国家の誕生〉
 ル・プレイの家族システム(平等主義核家族、絶対核家族、直系家族)は、歴史によって伝統的に認められた政治的空間の中で、形をとった。パリ盆地、カスティーリャ、中部ポルトガルという平等主義核家族地域の中心部では、国家が発展した。これには南イタリアも加えることができる。イタリア半島の中でただ1つ、中世に重要な領域国家、ナポリ王国が出現した地域である。さらにまた、イングランド、デンマーク、そしてオランダでも、絶対核家族は、単一の民族国家というものの歴史の枠内に収まるのである。ドイツあるいはイベリア半島・オクシタニアにおける直系家族は、これよりやや複雑である。この場合に成立する対応関係とは、早熟で、しかも流産した国家の歴史との対応関係である。つまり、中世の頃から始まって、やがて統一化的国家の台頭へと至るということがなく、小サイズの諸国家が存続するままにしたという意味で、流産した歴史なのである」620-1頁

ナポリ王国はヴァイキングが侵略して建設したもののはずだが…

「ヨーロッパ諸国家の誕生と直系家族の結びつき…長子相続は10世紀末に、国家の不分割の道具として台頭した。そして国家はますます民族と合致しなければならなくなる。直系家族は権威と不平等を組み合わせたものだが、この2つの価値は本質的官僚的な価値であり、また連続性という直系家族の理想は、近代国家へと向かう通路の1つであった。時として直系家族は農民層の中に定着し、そのようにして人類学的基底を構成するものになったのである。そこで歴史が示唆しているのは、直系家族が民衆の間であまりにも成功したところ、つまりドイツやイベリア半島・オクシタニア空間においては、国家は領土の面では拡大することを止めた、まるで不分割原則が小国家の非集合原則によって補完されたかのように、ということである。ところで農民の直系家族が、たいていの場合に表明している理想とは、複数の農園は集められて1つになってはならず、長男は跡取りの長女と決して結婚してはならない、というものである。その後、国家の開花は、まずはイングランドおよび北フランスを手始めとして、核家族の空間内で起こった。しかし絶対核家族と平等主義核家族は、部分的には、当初は国家の誕生に貢献していた直系家族に対する反動として誕生したのである」621頁

観念的な議論で感心せぬなあ…

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「要するに、砂漠の、あるいは砂漠近辺の遊牧は、なんらかのやり方で、内婚を促進したに違いないのである。これに対して、12世紀の始めより中東に侵入したトルコないしモンゴルの大ステップ遊牧社会は、やがて中東を支配するに至った集団のイスラムへの改宗後も、イトコ婚へのある程度の抵抗を特徴とし続けた。…
…父系の組織編成とアラブ的内婚とは、イスラムの台頭の時にすでに姿を見せていたものだが、それはすでに当時から、遊牧とベドウィン的生活様式とに結びついていた」693頁

「〈家族類型の最初の歴史的解釈〉
 中東のケースにおいては、周縁地域の保守傾向の原則は直ちに適用されるように思われる。…定住民集団の核家族類型(一時的同居あるいは近接居住を伴う)は周縁部に存在する。母方居住、末子相続、長子相続、残留型ないし手つかずで元のままの外婚制、こうしたものの痕跡もやはり周縁部に存在する。
 こうした地理的分布から引き出せる主たる結論を要約すると、以下のようになる。
 ——起源的家族類型は核家族であったに違いない。
 ——中国や北インドと同様に、長子相続制が、兄弟間の平等に先行して行なわれていた可能性がある。
 ——父系原則は、この地域のどこかに位置する中心から周囲に広がった。
 ——内婚もまた、この地域に属するある中心から周囲に広がった革新であった。
 家族形態のこの一覧を通覧して感じたのは,キリスト教諸教会やシーア派ら派生したイスラム教のさまざまな変種という少数派宗教と、残留型家族類型との結びつきである」695頁

「中東ではキリスト教の残滓が周縁部の孤立地帯を占めているのも、あまり驚くことではない。イスラムは、この地帯に遅れて起こった革新であり、1つの中心点から、征服によって周囲に拡散していったのである。…要するに、キリスト教が古代的(アルカイック)家族形態に結びついているのは、当たり前なのである。
 シーア派と周縁部という概念との連合はより興味深い。いま検討した地理的ならびに家族絡みのデータは、シーア派とは、スンニ派イスラムと比べて革新者的なものと見なされるべきではなく、何らかの仕方で保守者的なものと見なされるべきだ、ということを強烈に示唆している。…シーア派とはとりわけ、古い人類学的要素に固執した住民集団の中で成功した、もしくは生き延びたものなのだ」696頁

「中東の例外的な父系制の強さは、それだけでも、数千年に及ぶ規模を喚起する。ところがイスラムというのは近年の現象であり、この宗教が中東に出現したとき、アラブ圏は最大限の父系制の地帯であったわけではないのである。…
 宗教的要因、つまりイスラムが、父系制の歴史の中でひじょうに重要な役割を果たしたと、何の検証もなしに頭から決めつけるのは、避けなければならない。…ムハンマドの啓示の後の歴史が示しているのは、コーランがアラブの親族システムに重圧をかけることはなかったということである。ムハンマドは部族法から女性を守ろうとした。…ムハンマドの時代のアラブのシステムでは、娘は遺産相続から除外されていた。そこでムハンマドは、コーランの規則の中に娘の留保分を設定することで、娘の地位を改善しようと試みたのである。…
 …イスラム圏の歴史の中で、親族システムの固有の力学の方が、コーランの啓示よりも強かった」697-8頁

「中国の家族の典型的なシークエンスの大きな特徴のうちの3つを思い出しておこう。…
 1 中国の長子相続制は共通紀元前1100年頃に出現する。それは〈レベル1の父系制〉を含意していた。この父系制の程度を測定することはできないが、15から30%の母方居住権を存続させていたはずである。
 2 この穏健な父系原則は、おそらくステップの遊牧民たちに伝えられたと思われる。彼らは兄弟たちに同等の役割を与えて、この原則を対称化した。その後、その反動が中国を襲う。いまや父系の対称性の観念を担うことになったこれら遊牧民に侵略されたのである。長子相続制と中国直系家族の上に遊牧民の対称性が張り付くと、共同体家族という複合的なシステムが生まれることになった。共通紀元前200から100年ころ、中国は、この父方居住共同体家族によって、〈レベル2の父系制〉に到達した。これは、母方居住婚には実際上敵対的で、おそらく95%を超える父方居住率の出現へと至るのである。…
 3 これに次いで、中国において、女性のステータスの漸進的な低下が観察され、やがて〈レベル3の父系制〉に至る。このレベルは、共通紀元900から950年ころに、中国女性たちの纒足の慣習という兆候に行き着くのである」705-6頁

「〈中心的局面における世帯の父方居住と明白な核家族性〉
 アッシリア学者たちは、古バビロニア時代の家族の基本的な2つの特徴、すなわち核家族性と父方居住性について意見が一致している。核家族性はここでは、小さな住居、ないし複数の相続人の間で頻繁に分割される住居、ないし結婚する男は独立した炉を立てなければならないという義務、によって定義される。父方居住の特徴は、娘を遺産相続から排除することと兄弟が互いに近接居住することによって定義される。これらの特徴は…ハンムラビ法典に姿を現わしている。自立した炉の設立という考えは、176項と190項に現われる。その相続権は明瞭に男性平等タイプのものであるが、末子への配慮の痕跡も保持している。特に166項にそれは見られる」710頁

「ハンムラビ法典は、男子に対して平等主義的であるが、偏執的ではない。だれか1人の息子に他の者よりも有利な恩恵を与える権利があり、しかもその息子は遺産相続の際に遺産の総額にその分を返還する義務はない、ということを認めているからである。それは165項に示されている。…
 女子は、相続から排除されているが、相当な婚資を受け取る。ある結婚契約書が明らかにしていることだが、ある娘は、婚資の一部として、母親から移譲された家を受け取っている。併せて指摘しておくなら、このことは、この父系・父方居住システムが、経済の領域において女性の現実的な自律性を存続させていることを示している、ということになる。
 ハンムラビ法典の中には、父方居住による巨大な家族的ネットワークに取り囲まれた核家族というモデルが暗黙のうちに想定されている」712-3頁

「ロシアのアッシリア学者ディアコノフは、『拡大』家族という表現の発見者にして第一人者となった。彼は古バビロニア時代のウルで、『拡大家族』の痕跡を見出したが、その拡大家族とは、『3ないし4世代の父系親族とその妻、子、ならびに家人を結びつける経済的単位、ないしそのような複数の経済的単位を強固に連結した集団』である」716頁

「〈シュメールの長子相続制〉
…歴史の一段階において、シュメールの影響下にあった近東全域に長子相続の優位が存在した。その後、権力の中心となったアッカド王国から、平等主義的革新がもたらされたが、古い不平等主義的家族文化を完全に圧倒することには、特に周縁部において、成功しなかった。最初の局面において、シュメールの影響が遠隔の地にまで及んだ…インドのマヌ法典の中に見られる〈長子の取り分は2人分〉の定めは…おそらくこのシュメールの影響の強い痕跡に他ならない」724頁

「メソポタミアほど。直系家族イデオロギーの誕生に有利な場所も文化もそうはないであろう。それは、充満した世界という意識から生まれた不分割の諸規則を備えている。しかし、長子相続制の規則が、北、北西あるいは東の、より広大で人口の少ない空間に伝播したことも、想定できなくてはならない。その際、長子相続制の規則は、いかなるマルサス主義的必要性からも切り離されたものとなり、東北日本や北スウェーデンで目にしたものに似ている。ヌジやアッシリアにおいて、長子相続制の概念が、それが必要でない家族システムの上に貼付けられたと想像することを妨げるものはなにもない。
 中国、日本、北インド、あるいはヨーロッパの一部のケースと同じように、シュメールのケースにおいても、長子相続制の中には、父系原則の不完全ながら最初の出現を見なければならない。要するに、息子たちのうち最初に生まれた者が肝要なのである。しかし、繰り返し言うが、男性長子相続制は、息子すべてを同等と見なさないのであるから、男性と女性とを系統的に対立させるようなイデオロギーに呼応することはありえないのである。一方に長子がいて、残る他方には弟たちと女たちがいる、というわけである」727頁

「〈シュメールの第一局面における女性たち〉
 古バビロニア時代から出発して、3千年紀へ、シュメール・ルネサンスと言われる時代、次いでアッカド帝国の時代へと遡って行き、遂に歴史の曙たる古代王朝にまで達すると、女性のステータスが連続して上昇していくのが観察できることになる。女性の経済的役割は、上層階層においても社会の底辺でも、ますます明白になって行く。最も遠い過去において、女性は単に織物の女工というだけでなく、自由に財産を所有したり売却したりする力を持った取引の主体としても姿を現わしている。…長子相続制規則の存在が証明しているように、当時の家族システムが直系家族型のものであったと仮定するならば、この最初の父系制は残留性の母方居住に順応していた、と言うよりはむしろ、家系の連続性を確保するためにそれを必要としていた」732頁

「ヨーロッパの親族システムの未分化状態、西欧の家族の核家族性、大西洋沿岸の女性のステータスの高さ、これらは、近代化の結果ではなく、そもそも出発点においては全世界に普遍的な、核家族的にして個人主義的、双方的にして男女平等主義的なものであった1つの人類学的形態が、ユーラシアの極限的な周縁部に生き残っている姿だということになる。周縁部に生き残ったものは、必要なだけ奥深く過去の中へ沈潜するなら、中央部にも見出すことができる。現在の南部イラクは、今日地球上で最も強力な父系システムの1つに占められている。しかし、今から5000年以上前、シュメールの初期には、まさにこの場所において、いわゆる近代ヨーロッパのそれにおそらく近い家族形態と親族システムが支配していた」735-6頁

「〈3つの段階 中国からメソポタミアへ〉
 …メソポタミアの家族の発展の3段階を区別することができる。それは中国の歴史の中で私が特定した3段階と同一のものである。
 1 まず出発点において、典拠は不完全であるけれども、夫婦家族の優勢と、女性のステータスが男性と平等であったことを断定することができ、家族システムは…双処居住核家族型であり、さらにそれが、未分化な親族集団に取り囲まれていたと仮定することができる。…実はそれは人類全体に関わっていたのだ。…
 2 第2の局面において、シュメールに長子相続の規則が台頭する。これは父系原理の発展の第1段階である。とはいえ、3世代を含む典型的な直系家族的世帯の存在は、検出されていない。
 3 第3の局面において、兄弟間の平等と家族集団の共同体化が同時に明確になる。…この第2の変動の中心は、もはやシュメールではなく、アッカドである。やや北に移動したとは言え、相変わらず南部メソポタミアの中であることは、変わりない。
 家族はますます稠密化し、そうした家族形態の発展に伴って、女性のステータスも連続して低下して行くが、その動きは共同体家族の出現後も続き、アッシリアを初め各地における、ヴェールの出現が随伴する」744-5頁

「中国の家族の歴史を記述するために私が第3章で練り上げた図式との類似は、驚く他ない。それは、双方制という仮説を出発点にして、長子相続制と直系家族の台頭、そして最後に共同体変動に至るというものであった。この過程の全体に女性のステータスの低下が伴い、ヴェールの着用に至ることはないが、上流階級における纒足の慣行へと行き着くというわけである。中国のケースでは、私はいくつかの年代を転換点として提示した。メソポタミアのケースではそれははるかに難しい。…直系家族の台頭の年代を『2500年から2200年の間』…共同体家族のそれを『2200年から1800年の間』」745頁

「〈1つのモデルとその諸問題〉
 この段階に至れば、私としては、中国シークエンスを驚くほど忠実に複写する進化の図式を提唱することができる。シュメールにおいて、当初は優勢であった核家族は、内因性の進化によって、何らかの直系家族的形態に取って代わられたと考えられる。定住民集団の人口密度の増大が、空間は限られており、人で一杯であるという印象を抱かせたからであるが、都市間の戦争が、男性優位と父系の選好の端緒を容易にする要因であったことも忘れてはならない。対称化と兄弟間の平等を必要とする共同体段階への移行は、中国におけるのと同様に、対称化された遊牧民の家系システムの征服的侵入によって可能となったのであろう。家族の平等主義と統一帝国的考え方の間には機能的連関が存在するがゆえに、バビロン第1王朝を、中国の最初の帝国家系の厳密な等価物とすることができるであろう。時間的前後関係に忠実に従うなら、メソポタミアの歴史は中国のそれに大幅に先行するものであるから、秦の始皇帝はハンムラビ王の意識せざる反復者であったということになるであろう。その逆ではない」750頁

「家族形態の転換については、より古い年代を想定せざるを得なくなる。それはやはり西セム系集団の侵入と結合して起こったはずであり、共通紀元前2250年頃には、直系家族の不完全な父系制が対称化された父系イデオロギーへと変わる変換は、おそらくすでに実現していた、ということになる。この変換は、サルゴン王によるメソポタミア統一のほぼ直前に、アッカドで実行されていたと想像することすらできるのである」751頁

「中東の家族形態の発展の中で、いくつかの全般的な結論は明快である。
・起源における、夫婦ならびに女性の高いステータスの明白性。
・メソポタミアの歴史の中の本来のシュメール局面における男性長子相続の出現。しかしそれは伝播普及して、ティグリス・ユーフラテス両河の平野全体に広がり、地中海にまで至る現在のシリアの領土にまで及んだ。
・家族システムの対称化。それは世帯の核家族性と父方近接居住を組み合わせた家族形態へとつながる。しかしそれは都市的環境の中で起こった変化であり、まぎれもない共同体家族を喚起する農村での不分割を伴っていた。
・メソポタミアの歴史における遊牧民現象の重要性。これら遊牧民の許で、ベドウィン系部族の家系的慣行を想起させる家系的慣行と、左右、南北といった対称化された概念を用いる部族的組織編成が、ハンムラビによる平等主義的遺産相続規則の法典化の直前の時代に、出現する。このことは、遊牧民の侵入による直系家族の対称化を示唆している。…
・女性のステータスの低下の激化。それには、新アッシリア局面を含む、いくつかの加速期があった。ここメソポタミアでは、父系の進展力は、時とともに自動的に強化されるという観念を含んでいる」752-3頁

「〈古王国下の核家族〉
 ジャック・ピレンヌは、古王国の下、特に第3王朝の下にあって、エジプトの特徴は核家族——ピレンヌの用語に従えば〈個人主義〉家族であったことを、示している。…
『…家族は最も限定された形態に帰着する。つまり父、母、子供たちで構成されるのである。…』」757頁

「エジプトの最も遠い過去の中に、ピレンヌは、ラスレットとマクファーレンがイングランドのはるかに近い過去の中に見出したものを発見した。すなわち、核家族と個人主義である。彼ら2人と同様に、彼は、大家族から夫婦家族へ、複合性から単純性への変遷を信じようとした伝統的な歴史社会学の不十分さを明らかにした。ピレンヌは自分の発見から理論的な結論を引き出してはいない。彼は、古代王国のエジプト家族はすでに近代的であったと言い、核家族性、双方性、遺書の使用といった近代性の属性を述べるだけに留めている。家族が大家族であったされるさらに遠い過去を、読者に自由に想像させているのである。
 しかし、家族構造と全般的社会構造の関係については、彼は一気に、ラスレットとマクファーレンの2人よりも先に進み、[ロジャー]スミスの段階に達するのである。…ピレンヌもまた、家族の核家族性と国家の中央集権化を系統的に結びつけている。…ピレンヌはエジプト史の中に相次いで到来した3つのサイクルを区別するが、それらのサイクルの中で,国家の中央集権化の局面は、個人主義的法と核家族に相当し、国家秩序の解体の中間的な期間には、家族の複合的諸形態の精力伸長が介入してくるのである」759頁→

有賀喜左衛門の、生活防衛的な共同体としての「家」論とも親和的だなあ

「数多くの時代に確認されているエジプト女性の法的な行動の自由は、そのステータスが、美しい物品(オブジェ)のステータスではなく、権利において男性と同等な者としてのそれであることを示している。すべての時代を通じて、民衆は一夫一婦制である。それに対して、貴族階級は一夫多妻制を実践した」767頁

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