「食べ物として摂取されたタンパク質が、身体のどこかに届けられ、そこで不足するタンパク質を補う、という考え方はあまりに素人的な生命観である。
それは生物をミクロな部品からなるプラモデルのように捉える、ある意味でナイーブすぎる機械論でもある。生命はそのような単純な機械論をはるかに超えた、いわば動的な効果として存在しているのである。
…生命をミクロな部品が組み合わさった機械仕掛けと捉える発想が抜き差しがたく私たちの生命観を支配している」82-4頁
著者は美容上のコラーゲン信仰を槍玉に挙げているが、筋トレ歴の長い自分は似た論法で、「プロテイン」の大量摂取が実は筋肉増強にあまり役に立たないというのは聞いたことある
「生命は、機械のようにいくつもの部品を組み立てただけで成り立っているわけではないという、厳然たる事実がある。
『生命の仕組み』と『機械のメカニズム』の違いを読み解く一つのカギは時間だろう。基本的に、機械の組み立て方において、時間の順序は関係しない。
…しかし、生命はそうではない。…
…合成した2万数千個の部品を混ぜ合わせても、そこには生命は立ち上がらない。…
…生命現象においては、機械とは違って、全体は部分の総和以上の何ものかである。1+1は2ではなく、2プラスα。そのプラスαは何か、それはどこから来るのか。
私は『時間』に由来すると考える。全体は部分の総和以上の何かだ、というテーゼをナイーブに受け止めすぎると、危ういオカルティズムに接近してしまう。生物はミクロな部品から成り立っているが、そこにプラスαの『生気』が加わって初めて生命となる、といった生気論がその典型だ。
…もちろん、生気などというものはない。だが、プラスαはある。プラスαとは、端的に言えば、エネルギーと情報の出入りのことである。
生物を物質のレベルからだけ考えると、ミクロなパーツからなるプラモデルに見えてしまう。しかし、パーツとパーツのあいだには、エネルギーと情報がやりとりされている。それがプラスαである」145-7頁→
(承前)「生命現象のすべてはエネルギーと情報が織りなすその『効果』のほうにある。…
そして、その効果が現れるために『時間』が必要なのである。…
…不可逆的な時間の折りたたみの中に生命は成立する。
そしてもう一つ重要な視点は生命現象という『効果』が生み出されるためには、驚くほど数多くの部品と部品の相互作用がタイミングよく生じる必要があるということだ。…近代の生命学が陥ってしまった罠は、一つの部品に一つの機能があるという幻想だった。部品は多数タイミングよく集まって初めて一つの機能を発揮する。
生命を『それぞれ特有の機能を持った部品の集合体』という要素のレベルでのみ考えると、時間の重要性を見失ってしまう。それだけではない。ある部品を差し替えれば、より効率が上がるとか、特別な効果が期待できるという機械論的な思考で生命を捉えてしまう落とし穴も、ここにある」147-8頁
ベルグソンも「時間」を強調してましたな
「私には何か重大な見落としがあったのだ。それは『生命とは何か』という基本的な問いかけに対する認識の浅はかさである。私たちの生命は、受精卵が成立したその瞬間から行進が開始される。それは時間軸に沿って流れる、後戻りのできない一方向のプロセスである。
さまざまな分子、すなわち生命現象をつかさどるミクロなパーツは、ある特定の場所に、特定のタイミングを見計らって作り出される。そこでは新たに作り出されたパーツと、それまでに作り出されていたパーツとのあいだに相互作用が生まれる。
その相互作用は常に離合と集散を繰り返しつつネットワークを広げていく。この途上、ある場所とあるタイミングで作り出されるはずのパーツが一種類、出現しなければ、どのような事態が起こるだろうか。
生命は、何らかの方法でその欠落をできるだけ埋めようとする。バックアップ機能を働かせ、あるいはバイパスを開く。そして、全体が組み上がってみると、なんら機能不全がない。
つまり、生命とは機械ではない。そこには、機械とはまったく違うダイナミズムがある。生命の持つ柔らかさ、可変性、そして全体としてのバランスを保つ機能——それを、私は『動的平衡』と呼びたいのである」175-6頁
現代の進んだ「機械」なら、この程度のことは難なくできるのでは…😅
「葉緑体の正体に関する研究はミトコンドリアのそれよりも少し先行していた。ざっとたどってみると、まず1883年に、細胞内の葉緑体が分裂によって増殖することが指摘され、共生体である可能性が示唆された」245頁
「[シェーンハイマーのマウス実験で]標識アミノ酸は、ちょうどインクを川に垂らしたように、『流れ』の存在とその速さを目に見えるものにしてくれたのである。つまり、私たちの生命を構成している分子は、プラモデルのような静的なパーツではなく、例外なく絶え間ない分解と再構成のダイナミズムの中にあるという画期的な大発見がこの時なされたのであった。
まったく比喩ではなく、生命は行く川のごとく流れの中にあり、私たちが食べ続けなければならない理由は、この流れを止めないためだったのだ。そして、さらに重要なのは、この分子の流れが、流れながらも全体として秩序を維持するため、相互に関係性を保っているということだった。
個体は、感覚としては外界と隔てられた実体として存在するように思える。しかし。ミクロのレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている分子の緩い『淀み』でしかないのである」260頁
「<『動的平衡』とは何か>
生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され続けているのである。
だから、私たちの身体は分子的な実体としては、数ヵ月前の自分とはまったく別物になっている。分子は環境からやってきて、いっとき、淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。
つまり、環境は常に私たちの身体の中を通り抜けている。いや『通り抜ける』という表現も正確ではない。なぜなら、そこには分子が『通り過ぎる』べき容れ物があったわけではなく、ここで容れ物と呼んでいる私たちの身体自体も『通り過ぎつつある』分子が、一時的に形作っているにすぎないからである。
つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が『生きている』ということなのである。シェーンハイマーは、この生命の特異的なありようをダイナミック・ステイト(動的な状態)と呼んだ。私はこの概念をさらに拡張し、生命の均衡の重要性をより強調するため『動的平衡』と訳したい。英語で記せばdynamic equilibrium…となる」260-2
「『生命とは動的平衡にあるシステムである』という回答である。
そして、ここにはもう一つの重要な啓示がある。それは可変的でサスティナブルを特徴とする生命というシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす『効果』であるということだ。生命現象とは構造ではなく『効果』なのである。
…サスティナブルなものは常に動いている。その動きは『流れ』、もしくは環境との大循環の輪の中にある。サスティナブルは流れながらも、環境とのあいだに一定の平衡状態を保っている。
一輪車に乗ってバランスを保つときのように、むしろ小刻みに動いているからこそ、平衡を維持できるのだ。サスティナブルは、動きながら常に分解と再生を繰り返し、自分を作り替えている。それゆえに環境の変化に適応でき、また自分の傷を癒すことができる。…
サスティナブルなものは、一見、不変のように見えて、実は常に動きながら平衡を保ち、かつわずかながら変化し続けている。その軌跡と運動のあり方を、ずっと後になって『進化』と呼べることに、私たちは気づくのだ」262-3頁
ポエムですな😅
「シェーンハイマーは、それまでのデカルト的な機械論的生命観に対して、還元論的な分子レベルの解像度を保ちながら、コペルニクス的転回をもたらした。その業績はある意味で20世紀最大の科学的発見と呼ぶことができると私は思う[😅]。…
生命と生命観に関して偉大な業績を上げたにもかかわらず、シェーンハイマーの名は次第に歴史の澱に沈んでいった。
…流れながらも関係性を保つ動的な平衡系としての生命観は捨象されていった。…
動的平衡にあるネットワークの一部分を切り取って他の部分と入れ替えたり、局所的な加速を行うことは、一見、効率を高めているように見えて、結局は動的平衡に負荷を与え、流れを乱すことに帰結する。
実質的に同等に見える部分部分は、それぞれが置かれている動的平衡の中でのみ、その意味と機能を持ち、機能単位と見える部分にもその実、境界線はない。
…バイオテクノロジーの過渡期性を意味しているのではなく、動的平衡としての生命を機械論的に操作するという営為の不可能性を証明しているように、私には思えてならない」263-5頁
素朴なエコロジズムと悪魔合体😅
「生命はそのこと[エントロピーの増大]をあらかじめ織り込み、一つの準備をした。エントロピー増大の法則に先回りして、自らを壊し、そして再構築するという自転車操業的なあり方、つまりそれが『動的平衡』である。
しかし、長い間、『エントロピー増大の法則』と追いかけっこをしているうちに少しずつ分子レベルで損傷が蓄積し、やがてエントロピーの増大に追い抜かれてしまう。つまり秩序が保てない時が必ず来る。それが個体の死である。
ただ、その時にはすでに自転車操業は次の世代にバトンタッチされ、全体としては生命活動が続く。…だから個体がいつか必ず死ぬというのは本質的には利他的なあり方なのである。
生命は自分の個体を生存させることに関してはエゴイスティックに見えるけれど、すべての生命は必ず死ぬ。これによって致命的な秩序の崩壊が起こる前に、秩序は別の個体に移行し、リセットされる。実に利他的なシステムなのである。
したがって『生きている』とは『動的平衡』によって『エントロピー増大の法則』と折り合いをつけているということである。換言すれば、時間の流れにいたずらに抗するのではなく、それを受け入れながら、共存する方法を採用している」😅276-7頁
エントロピー云々はもろベルタランフィーの引き写しで、死の利他主義云々は小林武彦的😅
「確かに食物(主に炭水化物)はエネルギー源として燃やされる部分もあるが、タンパク質は違う。私たちが毎日、タンパク質を食物として摂取しなければならないのは、自分自身の身体を日々、作り直すためである。…生命は絶え間のない分子と原子の流れの中に、危ういバランスとしてある。私が自らの生命論のキーワードとしている『動的平衡』である。それまで静的なものとして捉えられてきた生命観に、シェーンハイマーは、新しいパラダイム・シフトをもたらしたのだ。
動的平衡の流れを作り出すためには、作る以上に壊すことが必要である。それゆえ細胞は一心不乱に物質を分解している。チカノーバー氏らは、シェーンハイマーの遺志を継いで、壊すことの重要性を明らかにしたのだった。
生命にとって重要なのは、作ることよりも、壊すことである。細胞はどんな環境でも、いかなる状況でも、壊すことをやめない。むしろ進んで、エネルギーを使って、積極的に、先回りして、細胞内の構造物をどんどん壊している。なぜか。生命の動的平衡を維持するためである」296頁→
「合成と分解を同時進行させながら、その同時進行において、わずかに分解が合成を先回りしたとき、一瞬、平衡バランスが崩れ、揺らぎがエントロピーの減少する方向に起こりうる。もちろんすぐに平衡はエントロピーが増大する方向に戻ろうとする。このときまたわずかに分解が合成を先回りし、再び揺らぎを作る。このように分解と合成のプロセスが逆方向に同時・連続的に起こりつつも、常にわずかに分解が先回りするとき、生命の環たる円弧は、物質が必然的に下るべき坂をゆっくりと登り返すことが可能になる。
これを動的平衡と呼ばずしてなんと呼ぶべきだろうか。坂を登り返す、この動的な円弧を、ベルグソンの弧(Bergson’s Arc)と名付け、動的平衡の数理的な概念モデルとしてここに提案したい」302-3頁
ベルグソン自身は弧の話にはしてねえけどなあ…😅
「ベルグソンの弧において、分解がわずかに合成を上回って起こり続けるとすれば、その帰結として生じることは、円弧は坂を登り返しつつありながら、刻一刻、その全長を少しずつ短くせざるを得ない、ということだ。円弧は物質の下る坂を登りつつ、少しずつその長さを縮め、エントロピー増大の法則に部分的に抗しつつも、徐々に小さくなって最終的に消滅してしまうことになる。ここに生命の有限性の必然があるのではないだろうか。同時に有限性があるゆえに、そこに時間の経過が(あえて踏み込めば時間の発生が)あるのではないだろうか。…
…ここでもまた分解と合成という逆反応の動的平衡が成立している。そして重要なことは、この動的平衡の現場でも、わずかに分解のほうが、つまりテロメアの短縮のほうが勝っているとうことである。このことが生命の時間を限局しているとともに、生命の秩序、物質の下る坂を登り返すことに寄与しているのである」308-11頁
ベルグソンの弧の短縮という純粋概念上の出来事と、テロメアの短縮という現実で起きている現象とは、見かけ上似ているだけで全然別ものだと思いますが…何かもう、ムチャクチャですな😅
「カルティジアン[機械論]に対する新しいカウンター・フォースとして、私は今、2つの可能性を考えている。一つは生命が本来持っている動的な平衡、つまりイクイリブリアムの考え方を、生命と自然を捉える基本とすることである。
生命とは何か?
…DNAの世紀だった20世紀的な見方を採用すれば『生命とは自己複製可能なシステムである』との答えが得られる。確かに、これはとてもシンプルで機能的な定義であった。
しかし、この定義には、生命が持つもう一つの極めて重要な特性がうまく反映されていない。それは、生命が『可変的でありながらサスティナブル(永続的)なシステムである』という古くて新しい視点である。…
生命が分子レベルにおいても(というよりもミクロなレベルではなおさら)、循環的でサスティナブルなシステムであることを、最初に『見た』のはルドルフ・シェーンハイマーだった」257-8頁