福岡伸一(2017)『新版 動的平衡——生命はなぜそこに宿るのか』小学館新書

いよいよ真打ち登場😅😅😅

「[バイオテクノロジーやバイオベンチャーがなかなかうまくいかないのは]バイオつまり生命現象が、本来的にテクノロジーの対象となり難いものだからである。工学的な操作、産業上の規格、効率よい再現性、そのようなものになじまないものとして、生命があるからだ」26頁

興味を引く書き出しだったのに、やはり斜め上に話を持っていくか…😅

「生命現象が絶え間ない分子の交換の上に成り立っていること、つまり動的な分子の平衡状態の上に生物が存在しうることは…ルドルフ・シェーンハイマーという科学者によって明らかにされていた。
 シェーンハイマーは食べ物に含まれる分子が瞬く間に身体の構成部分となり、また次の瞬間にはそれは身体の外へ抜け出していくことを見出し、そのような分子の流れこそが生きていることだと明らかにしていたのである」34頁

「ビデオテープの存在を担保するような[記憶現象の]分子レベルの物質的基盤は、脳のどこを探してもない。あるのは絶え間なく動いている状態の、ある一瞬を見れば全体として緩い秩序を持つ分子の『淀み』である。
 そこには因果関係があるのではなく、平衡状態があるにすぎない。私たちが『記憶の想起』と呼んでいるものも、実は一時点での平衡状態がもたらす効果でしかない」36頁

「生命体は口に入れた食物をいったん粉々に分解することによって、そこに内包されていた他者の情報を解体する。これが消化である。
 消化とは、腹ごなれがいいように食物を小さく砕くことがその機能の本質では決してなく、情報を解体することに本当の意味がある。タンパク質は、消化酵素によって、その構成単位つまりアミノ酸にまで分解されてから吸収される」72頁

せいぜいタンパク質にしか当てはまらないことを、食物全般の消化に一般化しすぎてないか😅

「他の生物の身体である食物——つまりタンパク質をそのまま体内に入れてしまうと、他者の情報が、私たち自身の情報と衝突し、干渉し合い、トラブルが起きるから、情報を1文字(アミノ酸)にまで解体する。それが消化である」74頁

「合成と分解との動的な平衡状態が『生きている』ということであり、生命とはそのバランスの上に成り立つ『効果』である…
 合成と分解との平衡状態を保つことによってのみ、生命は環境に適応するよう自分自身の状態を調節することができる。これはまさに『生きている』ということと同義語である。
…食べ物とはエネルギー源というよりはむしろ情報源なのである」80頁

「食べ物として摂取されたタンパク質が、身体のどこかに届けられ、そこで不足するタンパク質を補う、という考え方はあまりに素人的な生命観である。
 それは生物をミクロな部品からなるプラモデルのように捉える、ある意味でナイーブすぎる機械論でもある。生命はそのような単純な機械論をはるかに超えた、いわば動的な効果として存在しているのである。
…生命をミクロな部品が組み合わさった機械仕掛けと捉える発想が抜き差しがたく私たちの生命観を支配している」82-4頁

著者は美容上のコラーゲン信仰を槍玉に挙げているが、筋トレ歴の長い自分は似た論法で、「プロテイン」の大量摂取が実は筋肉増強にあまり役に立たないというのは聞いたことある

「私たちはしばしば生命現象をあまりにも単純な『メカニズム』として見がちである。この陥穽を、生化学者ルドルフ・シェーンハイマーは『ペニー・ガム』思考と呼んで批判した。
 自動販売機にペニー硬貨を入れると、ガムが出てくる。ならばペニーがガムに変わったと言えるのかと。…
 『ペニー・ガム』的な、インとアウトを付き合わせただけの線形思考からは、生命のリアリティは何も見えてこない。
…世界のあらゆる場所に、容易には見えないプロセスがあり、そこではグジャグジャの、つまり一見、混沌に見えて、その実、複雑な動的平衡が成り立つリアリティが生じているはずなのだ」92-5頁

フォロー

「生命現象を含む自然界の仕組みの多くは、比例関係=線形性を保っていない。非線形性をとっている。自然界のインプットとアウトプットの関係は多くの場合、Sの字を左右に引き伸ばしたような、シグモイド・カーブという非線形性をとるのである」101頁

「タンパク質を貯蔵することはできない。なぜならタンパク質(正確に言えばその構成要素であるアミノ酸)の流れ、すなわち動的平衡こそが『生きている』ということと同義だからである」117頁

「生命は、機械のようにいくつもの部品を組み立てただけで成り立っているわけではないという、厳然たる事実がある。
 『生命の仕組み』と『機械のメカニズム』の違いを読み解く一つのカギは時間だろう。基本的に、機械の組み立て方において、時間の順序は関係しない。
…しかし、生命はそうではない。…
…合成した2万数千個の部品を混ぜ合わせても、そこには生命は立ち上がらない。…
…生命現象においては、機械とは違って、全体は部分の総和以上の何ものかである。1+1は2ではなく、2プラスα。そのプラスαは何か、それはどこから来るのか。
 私は『時間』に由来すると考える。全体は部分の総和以上の何かだ、というテーゼをナイーブに受け止めすぎると、危ういオカルティズムに接近してしまう。生物はミクロな部品から成り立っているが、そこにプラスαの『生気』が加わって初めて生命となる、といった生気論がその典型だ。
…もちろん、生気などというものはない。だが、プラスαはある。プラスαとは、端的に言えば、エネルギーと情報の出入りのことである。
 生物を物質のレベルからだけ考えると、ミクロなパーツからなるプラモデルに見えてしまう。しかし、パーツとパーツのあいだには、エネルギーと情報がやりとりされている。それがプラスαである」145-7頁→

(承前)「生命現象のすべてはエネルギーと情報が織りなすその『効果』のほうにある。…
 そして、その効果が現れるために『時間』が必要なのである。…
…不可逆的な時間の折りたたみの中に生命は成立する。
 そしてもう一つ重要な視点は生命現象という『効果』が生み出されるためには、驚くほど数多くの部品と部品の相互作用がタイミングよく生じる必要があるということだ。…近代の生命学が陥ってしまった罠は、一つの部品に一つの機能があるという幻想だった。部品は多数タイミングよく集まって初めて一つの機能を発揮する。
 生命を『それぞれ特有の機能を持った部品の集合体』という要素のレベルでのみ考えると、時間の重要性を見失ってしまう。それだけではない。ある部品を差し替えれば、より効率が上がるとか、特別な効果が期待できるという機械論的な思考で生命を捉えてしまう落とし穴も、ここにある」147-8頁

ベルグソンも「時間」を強調してましたな

「私には何か重大な見落としがあったのだ。それは『生命とは何か』という基本的な問いかけに対する認識の浅はかさである。私たちの生命は、受精卵が成立したその瞬間から行進が開始される。それは時間軸に沿って流れる、後戻りのできない一方向のプロセスである。
 さまざまな分子、すなわち生命現象をつかさどるミクロなパーツは、ある特定の場所に、特定のタイミングを見計らって作り出される。そこでは新たに作り出されたパーツと、それまでに作り出されていたパーツとのあいだに相互作用が生まれる。
 その相互作用は常に離合と集散を繰り返しつつネットワークを広げていく。この途上、ある場所とあるタイミングで作り出されるはずのパーツが一種類、出現しなければ、どのような事態が起こるだろうか。
 生命は、何らかの方法でその欠落をできるだけ埋めようとする。バックアップ機能を働かせ、あるいはバイパスを開く。そして、全体が組み上がってみると、なんら機能不全がない。
 つまり、生命とは機械ではない。そこには、機械とはまったく違うダイナミズムがある。生命の持つ柔らかさ、可変性、そして全体としてのバランスを保つ機能——それを、私は『動的平衡』と呼びたいのである」175-6頁

現代の進んだ「機械」なら、この程度のことは難なくできるのでは…😅

「遺伝子に欠損があれば、その欠損を埋め合わせるように自ら平衡から平衡へ移動できるのが生命の本質的な特性である。これが生命を機械と隔てているのであり、生命の定義と言ってもよい」182頁

「GP2遺伝子ノックアウト・マウスが何に役立ったのかと言えば、それは私をして、生命の動的平衡について思索を深める契機をもたらしてくれたことだと言える」191頁

ノックアウトマウスの実験に失敗したことで奇天烈な思想に至ったのだとすれば、かわいそうなところもありますなあ😅

「この[マーギュリスの細胞内共生の最初の論文の]うち鞭毛については誤解だった(鞭毛にはDNAが見つかっていない)」242頁

「葉緑体の正体に関する研究はミトコンドリアのそれよりも少し先行していた。ざっとたどってみると、まず1883年に、細胞内の葉緑体が分裂によって増殖することが指摘され、共生体である可能性が示唆された」245頁

「カルティジアン[機械論]に対する新しいカウンター・フォースとして、私は今、2つの可能性を考えている。一つは生命が本来持っている動的な平衡、つまりイクイリブリアムの考え方を、生命と自然を捉える基本とすることである。
 生命とは何か?
…DNAの世紀だった20世紀的な見方を採用すれば『生命とは自己複製可能なシステムである』との答えが得られる。確かに、これはとてもシンプルで機能的な定義であった。
 しかし、この定義には、生命が持つもう一つの極めて重要な特性がうまく反映されていない。それは、生命が『可変的でありながらサスティナブル(永続的)なシステムである』という古くて新しい視点である。…
 生命が分子レベルにおいても(というよりもミクロなレベルではなおさら)、循環的でサスティナブルなシステムであることを、最初に『見た』のはルドルフ・シェーンハイマーだった」257-8頁

「[シェーンハイマーのマウス実験で]標識アミノ酸は、ちょうどインクを川に垂らしたように、『流れ』の存在とその速さを目に見えるものにしてくれたのである。つまり、私たちの生命を構成している分子は、プラモデルのような静的なパーツではなく、例外なく絶え間ない分解と再構成のダイナミズムの中にあるという画期的な大発見がこの時なされたのであった。
 まったく比喩ではなく、生命は行く川のごとく流れの中にあり、私たちが食べ続けなければならない理由は、この流れを止めないためだったのだ。そして、さらに重要なのは、この分子の流れが、流れながらも全体として秩序を維持するため、相互に関係性を保っているということだった。
 個体は、感覚としては外界と隔てられた実体として存在するように思える。しかし。ミクロのレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている分子の緩い『淀み』でしかないのである」260頁

「<『動的平衡』とは何か>
 生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され続けているのである。
 だから、私たちの身体は分子的な実体としては、数ヵ月前の自分とはまったく別物になっている。分子は環境からやってきて、いっとき、淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。
 つまり、環境は常に私たちの身体の中を通り抜けている。いや『通り抜ける』という表現も正確ではない。なぜなら、そこには分子が『通り過ぎる』べき容れ物があったわけではなく、ここで容れ物と呼んでいる私たちの身体自体も『通り過ぎつつある』分子が、一時的に形作っているにすぎないからである。
 つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が『生きている』ということなのである。シェーンハイマーは、この生命の特異的なありようをダイナミック・ステイト(動的な状態)と呼んだ。私はこの概念をさらに拡張し、生命の均衡の重要性をより強調するため『動的平衡』と訳したい。英語で記せばdynamic equilibrium…となる」260-2

「『生命とは動的平衡にあるシステムである』という回答である。
 そして、ここにはもう一つの重要な啓示がある。それは可変的でサスティナブルを特徴とする生命というシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす『効果』であるということだ。生命現象とは構造ではなく『効果』なのである。
…サスティナブルなものは常に動いている。その動きは『流れ』、もしくは環境との大循環の輪の中にある。サスティナブルは流れながらも、環境とのあいだに一定の平衡状態を保っている。
 一輪車に乗ってバランスを保つときのように、むしろ小刻みに動いているからこそ、平衡を維持できるのだ。サスティナブルは、動きながら常に分解と再生を繰り返し、自分を作り替えている。それゆえに環境の変化に適応でき、また自分の傷を癒すことができる。…
 サスティナブルなものは、一見、不変のように見えて、実は常に動きながら平衡を保ち、かつわずかながら変化し続けている。その軌跡と運動のあり方を、ずっと後になって『進化』と呼べることに、私たちは気づくのだ」262-3頁

ポエムですな😅

「シェーンハイマーは、それまでのデカルト的な機械論的生命観に対して、還元論的な分子レベルの解像度を保ちながら、コペルニクス的転回をもたらした。その業績はある意味で20世紀最大の科学的発見と呼ぶことができると私は思う[😅]。…
 生命と生命観に関して偉大な業績を上げたにもかかわらず、シェーンハイマーの名は次第に歴史の澱に沈んでいった。
…流れながらも関係性を保つ動的な平衡系としての生命観は捨象されていった。…
 動的平衡にあるネットワークの一部分を切り取って他の部分と入れ替えたり、局所的な加速を行うことは、一見、効率を高めているように見えて、結局は動的平衡に負荷を与え、流れを乱すことに帰結する。
 実質的に同等に見える部分部分は、それぞれが置かれている動的平衡の中でのみ、その意味と機能を持ち、機能単位と見える部分にもその実、境界線はない。
…バイオテクノロジーの過渡期性を意味しているのではなく、動的平衡としての生命を機械論的に操作するという営為の不可能性を証明しているように、私には思えてならない」263-5頁

素朴なエコロジズムと悪魔合体😅

「生命はそのこと[エントロピーの増大]をあらかじめ織り込み、一つの準備をした。エントロピー増大の法則に先回りして、自らを壊し、そして再構築するという自転車操業的なあり方、つまりそれが『動的平衡』である。
 しかし、長い間、『エントロピー増大の法則』と追いかけっこをしているうちに少しずつ分子レベルで損傷が蓄積し、やがてエントロピーの増大に追い抜かれてしまう。つまり秩序が保てない時が必ず来る。それが個体の死である。
 ただ、その時にはすでに自転車操業は次の世代にバトンタッチされ、全体としては生命活動が続く。…だから個体がいつか必ず死ぬというのは本質的には利他的なあり方なのである。
 生命は自分の個体を生存させることに関してはエゴイスティックに見えるけれど、すべての生命は必ず死ぬ。これによって致命的な秩序の崩壊が起こる前に、秩序は別の個体に移行し、リセットされる。実に利他的なシステムなのである。
 したがって『生きている』とは『動的平衡』によって『エントロピー増大の法則』と折り合いをつけているということである。換言すれば、時間の流れにいたずらに抗するのではなく、それを受け入れながら、共存する方法を採用している」😅276-7頁

エントロピー云々はもろベルタランフィーの引き写しで、死の利他主義云々は小林武彦的😅

「全身の細胞が一つの例外もなく、動的平衡にあり、日々、壊され、更新されている。…
生命は、こうして、不可避的に身体の内部に蓄積される乱雑さを外部に捨てている。この精妙な仕組みこそが、生命の歴史が38億年をかけて組み上げた、時間との共存方法なのである」277-8頁

捨てたり更新したりは物質代謝ではあるけれども、それが生命(生物)の本質かと言われるとやはり違う気がしますなあ…メイナード=スミスが興味を持った自己組織化のように、無生物であっても秩序を維持する(福岡の言い方では「サスティナブル」な)仕組みは存在するわけで

「生命が『流れ』であり、私たちの身体がその『流れの淀み』であるなら、環境は生命を取り巻いているのではない。生命は環境の一部、あるいは環境そのものである」280頁

「ロハスの考え方は、何かを禁止したり、命令するものではない。むしろ、私たちの考え方にパラダイム・シフトをもたらすものだ。そのシフトとは、端的に言えば、線形性から非線形性へ、機械論から動的平衡へということである。
…私たちは線形性の幻想に疲れ、より自然なあり方に回帰しつつある」281-2頁

何ともふんわりしていて月並みですなあ😅

「[ベルグソンの]『生命には物質の下る坂を登ろうとする努力がある』という、かの有名な言明自体は今も十分に有効である。この思考は、のちに、ノーベル賞物理学者アーウィン・シュレディンガーに引き継がれた。シュレディンガーは、ベルグソンを直接引用しているわけではないが、その歴史的著作『生命とは何か』(1944)の中で、エントロピー増大則の坂を、生命がいかにして登りうるか、という問いを中心的な課題として取りあげた」284-5頁

「坂を登ろうとする努力が尽きたとき、細胞もしくは個体は死を迎える。つまり坂の下方にずるずると引きずり降ろされ、奈落の底——つまりエントロピー増大が極まった熱力学的な死の状態——に落ちる。
 生命とは何か、と問われたとき、この眺望を総合すれば、物質が下ろうとする坂を、絶えず登り返すという、あてどのない往還、とどまるところのないシーソー運動が繰り返されること、つまり『動的平衡』である、と言うことができる」286頁

新しいものを表示
ログインして会話に参加
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。