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「機械的な説明がなり立つのは、私たちの思考が全体から人工的に切りとる系にたいしてである。けれども全体そのもの、また全体のなかでおのずから全体に似てできている系になると、それらを機械的に説明する可能性はアプリオリにはみとめられない。みとめてよいなら、時間は無用となり、事象的でさえなくなろう。けだし、機械的な説明の真髄は、未来と過去とを現在の函数として計算できるものと考え、そして<一切は与えられている>と主張するところにある。この仮説によると、そうした演算のやりとげられる超人間的な知性になら過去・現在・未来は一目で見わたせることになる。事実また科学者のうち機械的説明を普遍的で完全に客観的と信じたひとびとは、知っててか知らないでかこの種の仮説を立ててきた。早くはラプラースがこの仮説を的確きわまる定式であらわしていた」61-2頁

「ハクスリ…『もしも進化論の根本的命題が真であるなら、すなわち、もし確かに無生有生の世界全体は宇宙の始原的な星雲質を構成していた分子のもつ諸力が一定法則にしたがって作用しあった結果であるならば、それに劣らず確かなこととして、現在の世界は宇宙蒸気のなかに潜勢的にやどっていたであろうし、また十分に力のある知性なら、この蒸気の分子の性質を知って、たとえば1868年の大ブリテン国における動物分布の状態を、ちょうど冬の寒い日に吐く蒸気の成りゆきを告げるときと同じ正確さで予言できたであろう』」62頁

「過激な機械論にはひとつの形而上学が蔵されている。この形而上学では事象の総体はひと丸めに永遠のなかに置かれており、そこに事物の見かけ上の持続はあっても、それはただ精神は弱いもので万事をいちどきに知ることはできぬということの表現にすぎぬ。けれども、私たちの経験中もっとも文句のありえぬものすなわち意識にとっては、持続はそんなものとはおよそ別物である。私たちは持続を測ることのできぬ流れとして知覚する。持続は私たちの存在の根底をなし、また私たちもひしと感じているとおり、私たちの交渉する事物の実質そのものでもある。普遍数学の見通しをいくら私たちに見せびらかしてもしかたがない。私たちは体系の要求するままに経験を犠牲にすることはできない。過激な機械論を私が斥けるゆえんである」63頁

「過激な目的論もまた受けいれられぬように思われる。目的論の教説には、たとえばライプニツに見られるような極端な形になると、事物や存在はひとまずたどっておいたプログラムを実施するにすぎぬ、との考えがこもっている。けれども宇宙には思いがけないことが何もなく、発明も創造も全然ないなら、時間はやはり無用になる。機械論の仮説と同じことで、ひとはここでもやはり<すべては与えられている>ことを前提しているのである。この意味での目的論は向きの逆になった機械論にすぎない。それは同じ前提から生気を吹きこまれている。…
 そうはいっても、目的論は機械論のように動きのとれぬ線で描かれた教説ではない。ひとがやわらか味をもたせようとすれば結構それに堪えられる。機械論の哲学は採るか捨てるかしかない。かりにごく小さな塵の一片が力学の予想した軌道からはずれてごくわずかでも自発性の証跡を示すことがあれば、この哲学は捨てられねばなるまい。これに反し、目的因をたてる教説は決定的に論破されることはけっしてないであろう。そのある形を遠ざけても、別な形であらわれるであろう。目的説の原理は心理的な本質のもので、柔軟をきわめている」63-4頁

「有機的世界にかぎってみても一切がそこでは調和であることの証明は一向にやさしくならぬ…自然は生物をたがいにせめがせる。自然はいたるところで秩序にならべて無秩序を、進歩にならべて退歩を見せつける。けれども、物質の総体についても確言できぬことが、ひとつびとつの有機体を別々に取りだしてみるならば真にはならないであろうか。ひとはそこに見ごとな仕事の分相、部分のあいだの霊妙な連帯性、無限の錯綜における完全な秩序をみとめぬであろうか。この意味で、生物はおのおの自分の実質に内在するひとつの計画を実現しているのではなかろうか。そのようなテーゼの要点は、底をあらえば、古来の目的観念を細かく砕くところにある。なにか<外的な>目的性があり、それにあわせて生物はつぎつぎに凭れあいになっているとするような考え方であると、ひとは受けいれないし、笑い草にさえしかねない。草は牝牛のために、子羊は狼のために作られた、と想像するのは馬鹿げているという。けれども、<内的な>目的性というものがある。それによると、生物はいずれも自分自身のために作られており、そのあらゆる部分は全体の最大善のために協力し、この目的にむけて知性によって有機的に組織されている。これが、すでに久しく古典的な目的観念である」65頁→

(承前)「目的論はいちどきにはやっと一個の生物しか包めぬところまでちぢまった。身をちぢめれば打たれる面の露出が少なくてすむと考えたのである。
 実は、それこそいよいよ打撃に身をさらしていたのである。やはり過激にみえるかも知れないが、私のテーゼはこうである。目的論は外的であるか、でなければまったく何ものでもない」65-6頁

「実さい、きわめて複雑でこの上なく調和した有機体を考察してみよう。あらゆる要素が全体の最大善のために協心している、と私たちは教えられる。そうだとしよう。しかし忘れてはならぬのは、各要素がいずれもある場合にそれ自身ひとつの有機体でありうること、そしてこの小さな有機体の存在を大きなものの生命に従属させることで私たちは外的目的性の原理を受けいれているのだということである。こうして、あくまでも内的な目的性というような観念は自己崩壊する。有機体は、それぞれに自分のために生きている諸組織からなる。その組織を作っている細胞がまたある自主性をもつ」66頁

マルチレベル淘汰説みたいな発想

「実は生気論の立場をきわめてむずかしくしているのは、自然界には純粋に内的な目的性もなければ、絶対的に切りはなされた個体性もないという事実なのである。…目的性をちぢめて生物の個体にかぎろうとしても仕方がないであろう。生命の世界に目的性がいくらかでもあれば、それは生命全体を不可分なひと抱えで包括しているのである。…そこで私たちは、目的性の単純な否定か、それとも、有機体の諸部分を有機体そのものに並べこむばかりでなくさらに各生物を残りの生物全部に並べこむ仮説か、のいずれかをえらばねばならぬ」67-8頁

「今日の生気論には区別すべきふたつの面がある。一方には純粋な機械論は不十分だとする主張があり、この主張はたとえばDrieschやReinkeのような科学者から唱えだされるとき高い権威をもつにいたる。他方はこの生気論は機械論と重なりあうとする仮説である(Drieschのentéléchies, Reinkeのdominantesなど)。両面のうち前者の方が意義深いことは論をまたぬ」68頁

「過激な目的論のあやまりは、過激な機械論ももとよりそうなのであるが、私たちの知性に自然なある種の概念を広く適用しすぎるところにある。…人間の知性は人間的行動の要求にあわせて作られている以上、それは意図しながら計算しながらひとつの目的に向けてもろもろの手段を並べこむとともに、機械性をいよいよ幾何学的な形に表象しながら操作をすすめる知性なのである。ひとびとは自然を数学的法則に支配される巨大な機械のように想像したり、あるいはひとつの計画の実現をそこに見たりするが、いずれにせよそれらは同じ生の諸必要から精神のなかに生じてたがいに補いあっているふたつの傾向が、極端にまでおしつめられたものにすぎない。
 ここに過激な目的論が過激な機械論におよその点で酷似するゆえんがある。どちらの教説も事物の経過にはもちろんのこと、たんに生命の発展のなかにすら、予見不能な形態創造というようなものは見たがらない。機械論は事象を類似あるいは繰りかえしの相面でしかみない。つまり機械論を支配するのは、自然界では似たものが似たものを生むばかりだというあの法則である。機械論の宿す幾何学がはっきりと浮きだしてくれるにつれて、何かが創造されるということは、たとえ形態の創造のばあいにかぎってもいよいよ容認できなくなる」69-70頁

「目的原理を厳格に適用すると、機械因果の原理のばあいと同様になり、『一切は与えられている』という結論にみちびかれる。この両原理はおなじ要求にたいする答として、同一事をふた通りの言葉で述べているのである。
 ここに、両原理が心をあわせてさらに時間を抹消した理由もある。…一切が時間のなかにあるなら、一切は内的に変化して、おなじ具体的な事象が二度と繰りかえすことはない。つまり繰りかえしは抽象のなかでしか起こりえない。…知性は繰りかえすものに気をとられ、似たもの同士を鑞づけすることことにひたすら専心しているので、時間に目をとめないでそっぽを向く。知性は流動するものを嫌い、触れるものをことごとく固形化する。私たちは事象的な時間を<考え>ないのである。しかし、生命が知性をはみでるからには、私たちは事象的な時間を生きている。純粋持続のなかで私たちをはじめ一切の事物は進化しているとの感じがひかえていて、それが本来の意味の知的表象のまわりに定かならぬ暈を、闇のなかへぼかしながら描きだす。機械論と目的論とは中心にきらめく光の核しか考えに入れぬ点で一致する」70-1頁

「私たちの思考を閉じこめている過激な機械論と目的論の枠から出てみよう。事象はただちに新しいものの絶えざる湧出となって私たちの前にあらわれる。…私たちの振舞いの展開には、いたるところ機械性がありいたるところ目的性がある。…機械論と目的論とはこのばあい私の振舞いを外から撮った眺めにすぎない。振舞いのなかから知性的なものをそれらは取りだしたのである。…自由な行動は観念と不可約であって、その『合理性』はほかならぬこの不可約ということで定義されねばならない。この不可約性があるから、ひとは自由な行動のなかに知的なものをいくらでも発見できるのである。これが私たちの内的展開の特徴である。それはまた疑いもなく生命進化の特徴でもある」72-3頁

「不可約」の原語は?

「生命の総体を表象するとは、生命自体が進化の途上で私たちのなかに沈めていったさまざまな単純な観念を組合わせることではありえない。部分は全体に、内容は容器に、生きた操作の名残りは操作そのものにどうして等価でありえようか。…私たちは進化の到達点のひとつを占めており、それは主要な点にはちがいないが唯一のものではない。しかも折角その点を占めながら、私たちはそこに含まれているものを残らず捉えはしない。…私たちのあつかうのは進化をとげたものつまり結果だけにきまっており、進化そのものすなわちそうした結果をもたらす行為は私たちにはあつかえぬだろう。
 以上が私の目ざしてゆく生命の哲学である。この哲学は機械論と目的論をともに同時に乗りこえることをうたう。しかし…それは前者よりは後者の教説に近い」75-6頁

「生哲学は過激な目的論よりは漠とした形ながら、有機的な世界をやはりひとつの調和した全体として私たちに再現するであろう。しかしこの調和は従来いわれてきたような完全なものからはほど遠い。そこにはいくらも不調和が入りこめる。おのおのの種が、各個体すらが生命の全衝動から特定のはずみだけを取りとめて、そしてこのエネルギを自分一個の利益にもちいようとつとめる。これが<適応>というものである。種や個体はこのように自分のことしか考えない。他の生命形態との軋轢がここから起こることになる。してみれば、調和は事実としては存在しないで、権利として存在するのである。…調和は、というよりはむしろ『相補性』は大まかに、状態よりは傾向のなかにあらわれるにすぎない。…調和は衝動の同一なことにもとづくので、共通な志向にもとづくのではない。生命に人間的語義での目的というものをもたせようとしても仕方がない。目的をとやかくいうのは、モデルという先在していてあとは実現さえすればよいものを考えることである。したがってそれは底を洗えば、一切は与えられており、未来も現在から読みとることはできると仮定することになる。それは、生命は運動するさいにも全体としても私たちの知性と同様に手をすすめるものだ、と信ずることである」76-7頁→

(承前)「実は知性は生命をみた動きのない断片的な眺めにすぎず、本性上つねに時間の外にたっている。生命というものは進行し持続する。…私がこれから提唱したい目的論的な解釈も、けっして未来を予料するものの意味にとってほしくない。それは過去を現在の光でみたある種の観照なのである。…目的概念は生命を知性から説明したために、生命の意味を過度に切りつめている。知性は、少なくとも私たちの内にみられるような知性は、進化がその経路において仕上げたものである。それは何かもっと広いもののなかで切りとられたもの、というよりはむしろ、せり出しも奥行きもある事象のどうしても平面化した投影にすぎぬ。本物の目的論ならこのようなもっと幅のある事象をこそ再構成するはずであろう。…その事象が知性からはみ出るからこそ、似たもの同士をむすびつけ繰りかえしをみとめこれを生産までする能力をこえるからこそ、それは疑いもなく創造的なのである」77-8頁

「機械論では進化を説明するに十分でないとして、この不十分さを確証する方法は古典的な目的概念に執着することではなく、いわんや目的概念を切りつめたりゆるめたりすることでもなく、かえってそれを越えてすすむことである」79頁

「生命はその発現以来、おなじひとつのはずみが進化の末ひろがりの諸線に分れながら続いてきたものである。ひとつびとつ創造されたものがつぎつぎにつけ加わって、何かが成長し発展してきた。発展したからこそ、さまざまな傾向はある点よりさきに伸びるためには軋轢がさけられなくなり、その結果たがいに分離するにいたったのである。…岐路はいくらでも生じたし横道もつぎつぎに開けて、諸要素は独立にそれらの道をわかれて伸びていった。それにもかかわらず各部分を運動しつづけさせているものは、依然として全体にわたる元のはずみなのである。こう見てくると、部分には全体のなかの何かが存続しているはずである」80頁

「<生命はさまざまな向きの進化の線上に似もつかぬ手段である種のおなじ器官を製作するものだ、ということがかりに確立できれば、純粋な機械論は論破されうるものとなり、また目的性も、私の解する特殊な意味でならば、ある面で立証できることになろう。なおその立証力は、私のえらんだ進化の諸線の開きかげんや、その線上に見られる相似な構造体のこみいりぐあいに比例することであろう>」81頁

「適応とはもはや不適者の消去というだけのものではなくなるであろう。…有機体がその住むべき環境にたいして適応をおこなうといわれるとき、どこかに形態が先在して自分をみたす物質を待っているであろうか。環境は鋳型ではない。生命がそこに流しこまれそこから形態を受取るというふうなものではない。こんな理屈をいうひとは譬え話にだまされているのである。まだ形態などはなく、生命が自分の仕事として、課せられた条件に適する形態を自分のために創造するのである。生命にとっては環境から利益を引きだすこと、環境中の不都合なものを中和し有益なものは利用すること、つまり外部の作用にたいしてそれと似もつかぬ器官を作って反応すること、が必要になってくる。ここでは、適応するとはもはや<繰りかえすこと>ではなく、それとはまったく別物の、<応答すること>である」84-5頁

ニッチ構築的な

「一言でいうと、いわゆる適応が環境の凹状で与えるものを凸状にくりかえすだけの受動的なものであるなら、適応はひとが作ってほしいようなものを作ってくれないであろう。また適応は能動的で、環境の出す問題に計算ずくで答えることができるといい切るひとがあれば、そのひとは私がはじめに指摘しておいた方向に私よりもさき走り、私からみても行きすぎている。…ひとは個々の特殊なばあいには、適応の過程は有機体が外部環境を最高度に善用できるための器官を組み立てる努力でもあるかのようないいかたをし、そのあとで適応一般について、それは環境の押型そのものを無差別な物質が受動的に受けとったものでもあるかのように語るのである」85-6頁

「目的性を弁護するひとがいつも重視してきた例を考察しよう。それは人間の眼の構造である。…構造と器官のあいだに作用反作用を果てしなくつづけさせれば、眼がだんだんと形成される過程は、私たちの眼ほどに入りくんだもののばあいでも、機械的以外の原因をもちこまないで説明されることになろう」88-9頁

「帆立貝の眼にも網膜、角膜、細胞構造の水晶体があらわれていることは、私たちの眼と同様である。…軟体動物と脊椎動物とが共通の幹から分れたのは帆立貝の眼ほどにこみ入った眼があらわれるずっと以前だった、ということではみな一致するであろう。ではそのような構造の類似はどこから来るのか。
 この点に関して、ふたつの相反する進化論体系の説明…ふたつというのは、純粋な偶然変異の仮説と、変異は外部環境の影響で一定方向にととのえられるとする仮説とである。…私は、ひとびとのもち出す変異は大きいにしても小さいにしても、偶然によるものであるかぎりそれは…構造上の類似の説明にはなりえない、ということを示してみたいと思う」89-91頁

「進化を決定する偶然変異が目にみえぬ変異であるなら、それらの変異を保存し累加するためにある善霊に——未来種の精霊に——お縋りせねばならなくなろう。自然淘汰はその役を引受けてくれまい。他方また偶然変異が急激なら、その突発した全変化がともどもに同一機能の遂行を目ざして補いあわぬかぎり、もとの機能が引きつづきいとなまれることも、あるいは新しい機能がそれにかわることもないであろう。もういちど善霊にお詣りして、さきほどは継時的な変異に<方向の恒続性>を確保していただいたように、こんどは同時的な変化に<収斂性>を授けていただく必要があろう。いずれの場合にも、たがいに独立な進化の諸線上に同一構造が並行に発達する事実は、偶然変異のただの蓄積にもとづくものではありえないであろう」96-7頁

「さきに私は『適応』の語の曖昧さを指摘しておいた。形態がだんだんと複雑になって外部環境の鋳型にますますきちんと嵌りこむのと、器官の構造がだんだん複雑になって環境をいよいよ有利に用いるのとは別のことである。…自然そのものが私たちの精神をこの2種の適応を混同するように仕向けているように見える。というのも、自然は能動的に反動する仕掛をいずれは組立てねばならぬ場合、ふつうまず受動的な適応からはじめるからである。…生きた物質が環境を利用するには。まずそこに受動的に適応するほかに術はないように思われる。運動を導かねぱならぬとき、生命ははじめまずその上に乗る。生命は入りこみながら手を打つのである」98-9頁

「アイメルの主著は教えるところが多い。ひとも知るようにこの生物学者は丹念に研究した結果、変形がおこなわれるのは外から内へ向う影響がゆるぎない一定方向に連続的にはたらくからであって、ダーウィンの唱えたような偶然変異によるのではないことを証明した。…原因がはたらきうるのは<押す>か<解発する>か<ほぐす>かによる。…この3つの場合をたがいに区別するものは、原因と結果のあいだの連帯性の強弱である。第1の場合では、結果の量ならびに質は原因の量ならびに質とともに変化する。第2の場合では、結果は量質いずれも原因の量質とともに変化しない。結果は不変なのである。最後の第3の場合には、結果の量は原因の量にしたがっても、原因が結果の質に影響することはない。…原因が結果の<説明になる>のは、実は第1の場合のみである。他のふたつの場合には、結果は多少なりとも与えられており、その先行物としてもち出されるものは結果の原因よりはむしろ——もちろん種々の度合での——機会なのである。…アイメル自身もときに因果性を確かにこの意味[第1と第2の中間]に解して、変異の『万華鏡的』な性格を語り、また有機化物質の変異は無機物が一定方向に変異するのに似て、ある一定方向におこなわれるという」100-2頁

「おびただしい数の小原因のふた通りの蓄積からこのように同じ結果が生ずるということは、機械論哲学のたよる原理になんとも矛盾している。…
 否応でもある内的な方向原理に訴えないかぎり、結果のこのような収斂はえられないであろう。そうした収斂の可能性は、新ダーウィン派のたてた目に見えぬ偶然変異の説にも、急激な偶然変異の仮説にもあるとはみえないし、外力と内力との一種機械的な合成によって諸器官の進化に一定の方向があてがわれるという説からさえうかがえない」103-4頁

「現在おこなわれているあらゆる型の進化論のなかでは新ラマルク説だけが内的で心理的な発展原理を、ぜひとも頼りにするほどではないにしてもとにかく容れる幅をもったものである。それはまた、たがいに独立な発展線上に複雑でしかも同一な器官が形成されるわけを説明できそうな唯一の進化論でもある。実さい、おなじ環境を有利に用いようとするおなじ努力はおなじ結果に導くこと、ことに外部環境の課する問題がひと通りの解しかゆるさぬたぐいのものであるときそうなることは納得できる」105頁

「スペンサがまず獲得形質の遺伝の問題を自問することからはじめたならば、このひとの進化論はおそらく全然べつの形をとったのではなかろうか。もしも個体の身につけた習慣はごく例外のばあいにしか子孫に伝わらぬとすると(私にはそうらしく思える)、スペンサの心理学はことごとく書きなおされねばならず、その哲学の相当な部分が崩壊することとなろう」107頁

「新ダーウィン派の説くところでは、変異の本質的な原因は個体のになう胚に内属する変差であってその個体の重ねてきた振舞いではないとされるが、その点はたぶん正しいであろう。私がこの派のひとびとについて行きにくくなるのは、この生物学者たちが胚に内属する変差をひたすら偶然的で個別的とするときである。変差は胚から胚へと個体を介して伝わるある衝動の発達したものであり、したがってただの偶然ではないこと、またおなじ種の現員の全部か少なくともそのある数かにおなじ形で現われることはきわめてありうること、などを私としては信ぜぬわけにはゆかない。それに、<突然変異>説も早くからダーウィン説をこの点で立ちいって修正している。そのいうところによれば、種は長期間を経たある与えられた時機にいたると、変ろうとする気運にその全体が乗っとられる。してみると<変ろうとする気運>は偶然ではないのである。…新ダーウィン派も変異の周期が決まっていることは認めかかっている。そうすると少なくとも動物では変異の方向もまた決まっていてよいことになろう。ただしその決まる程度はいずれ示さねばならぬ」114-5頁

「なるほど有機的世界の進化が全体としてあらかじめ決定されているはずはない。それどころか有機的世界においてつぎからつぎへと別な形態が不断に創造されてゆくところに、生の自発性は発露しているというのが私の主張なのである。けれども、この非決定性は完全なものではありえない。ある部分が決定性に残されているはずである。…私がアイメルと別れるのは、物理的並びに化学的な原因の組合わせがありさえすれば結果は確実に出てくる、と主張されるときである。私はそれに反対して、もしそこに『定向進化』があるならば、心理的原因が入りこんでいるのだということを、眼という適切な例で立証しようとこころみてきた」116頁

「私は生命の<根源のはずみ>が胚のひとつの世代からつづく世帯へと移ってゆき、成体となった有機体は胚から胚への媒介をつとめる連結符だと考えている。このはずみこそは進化の諸線に分たれながらもとの力をたもって、変異の根ぶかい原因となるものである。少なくとも、規則的に遺伝し累加されて新種を創造する変異を、それはひき起こす」117頁

「機械論が目的論の擬人的性格を非難することには一理ある。しかし機械論もまた自分では気づかずに、同じ方法をただ片輪にしただけで用いている。なるほど機械論は目的の追求や観念的なモデルを一掃した。けれども機械論もやはり、自然は工作する人間なみに部分を取りあつめながら仕事をすすめたことにしたいのである。とはいえ胚子の発達をひと目でもみたら、生命の営みぶりはそれとはまったく異なることを機械論は見せつけられたであろう。<生命の手のすすめ方は要素の連結と累加によらず、分離と分割による>。
 そのようなわけで、機械論と目的論の見かたはふたつながら乗りこえられなければならぬ。どちらももとを正せばひとの仕事をする姿にたよって人間精神がゆきついた見かたにすぎない。…器官のかぎりない複雑さと機能の極端な単一さ、このふたつの対比こそは私たちの目を開いてくれるにちがいない」118-9頁

「機械論と目的論はふたつながら、事象そのものたる運動のかたわらを素通りしてしまうであろう。運動はある意味で位置やその秩序より<以上>のものである。…機械論も目的論もゆくべきところまで行っていない。しかし別の意味では機械論と目的論はどちらも行きすぎている。けだしふたつながらヘラクレスのもっとも辛い仕事を自然に割りあてて、無限に複雑な無数の要素を組立てて見るという単一な行為に仕上げさせたかったのに、実さいは自然は眼を作るさいに私が手を挙げる以上の苦労はしなかったからである。自然の単一な行為はおのずから無数の要素に分かれ、それをあとからひとが見て同一目的に向って配列されていることに気づくのである」121頁

「私たちは有機組織を<製作品>なみに表象せずにはいられぬ…しかし製作と有機化とは別のことである。前者は人間に固有な作業である。その要点は、材料を諸部分に裁断してそのひとつが他にはまりこんでそこから共同のはたらきが獲られるようにしておいたものを、寄せあつめることにある。ひとは諸部分を、あらかじめその観念的な中心となっていた働らきのいわば周囲に配置する。つまり、製作は周辺から中心に向うのであり、あるいは哲学者風にいえば、多から一にすすむのである。これに反し、組織化の仕事は中心から周辺に向う。それはほとんど数学的な点にはじまり、この点のまわりに同心円の波をたえず拡大させながらひろがってゆく。製作の仕事はあつかう材料の分量が多ければそれだけ効果的である。そのやりかたは集中と圧縮による。これに反し、有機組織化のはたらきにはどこか爆発のようなところがある。出発にさいしそれに必要な場処はできるだけわずかで物質も極小でなければならぬ。有機化する力はいやいや空間に入りこんだとでもいった風にしかみえない」121-2頁

「細胞は機械の部品になり、有機体は部品の寄せあつめとなろう。そして個々の部品を組みたてた要素的な仕事は、全体を組織した仕事の真の要素と見なされることになろう。これが科学の見かたである。私の意見では哲学の見かたはそれとはまったく異なる」123頁

「あるひとは各粒子の位置の決定を、附近の粒子がそれにおよぼす作用に由来させるであろう。かれは機械論者であろう。他のひとは、総体にわたる計画が要素的な作用を細かい点までつかさどっていたと考える。これは目的論者であろう。ところが真相はただひとつの不可分な行動が、やすり屑をつきぬける手の動きがあるにすぎない。…言いかえるなら、機械論も目的論もここは出る場処ではなく、ある<独特な>説明のしかたに訴えるべきであろう。…
…要素の秩序はかならず完全無欠である。秩序は半端ではありえない。くどくなるが、秩序を生みだす事象の過程に部分がないからである。ここのところを機械論も目的論も考慮していない」124-5頁

「生命は何であるよりもまずなまの物質にはたらきかける傾向なのだといおう。このはたらきかけの方向はもちろん前もってきまってはいない。そこから、生命は進化の途上に予想もつなぬ多様な形態をまきちらすことになる。とはいえこのはたらきはいつも偶然性の性格を多少とも高い度合で帯びており、ともかくも選択のきざしがそこには含まれている」126頁

「榴弾が破裂するさいのそれぞれ特殊な砕けかたは、その榴弾につまっていた火薬の爆発力とその力にたいする金属の抵抗とから同時に説明される。生命が個体や種に砕けるばあいも同様である。その砕ける原因は2系列をなしていると思われる。生命がなまの物質のがわで出あう抵抗と生命のしのばせている(さまざまな傾向が不安定に平衡しているための)爆発力とがそれである」128頁

「生命は傾向なのであるが、傾向はその本質からいって束状に展開するもので、大きくなることだけで方向を扇形にひろげて生命のはずみをそれらの諸方向に分かつ。…自然はさまざまな傾向が大きくなって枝分れしたままに保存しておく。自然はそれらの傾向を末ひろがりに開いたさまざまの種の系列に仕立て、各系列をべつべつに進化させる」130頁

フォロー

「生きている形態は定義そのものからいって生きられる形態である。有機体がその生きる環境にたいして適応しているようすはどのように説明されるにしても、種が存続している以上その適応は十分でないはずがない。この意味で古生物学や動物学が描いてみせる系図上の種は、いずれも生命がかちとった<成功>であった。…運動はよく脱線し、停止させられることもしばしばであった。通過点にすぎぬはずのものが終点になった。この新しい観点に立つと、失敗は通則に、成功は例外でしかもいつも不完全なものにみえてくる。…動物の生命が踏みこんだ4つの主方向のうちふたつは袋小路に行きあたり、のこるふたつの道でも努力は成果と釣合わぬのがふつうであった」161頁

「さきに適応一般に関して述べたように、種の変形はその種特有な利益というものからつねに説明されるはずである。変異の直接原因がそこから示されるにちがいない。けれどもそのようにして与えられるものはしばしば変異のごく皮相な原因にすぎないであろう。深い原因は生命を世界につき入れる衝力にある。この衝力が生命を植物と動物に分裂させ、動物性の線を柔軟な形態の方へと切りかえ、そして動物界が危うくまどろみかけていたなかである時機に少なくともそのいくつかの点でうまいぐあいに動物を目ざませ前進させたのであった」164頁

「生物に関していわれるばあい、成功とは多様をきわめる環境のなかで可能なかぎり多種の障害をつきぬけてできるだけ広大な地域を蔽えるように発達する性能の意味に解されなければならない。地球全体を自分の領土と心得ている種は掛値なしに支配的な種であり、したがって優位に立つ種である。人類はそのような種であり、脊椎動物の進化の頂点を示すものであろう。しかし他にもそのようなものが関節動物の系列中にある。昆虫なかんずくある種の膜翅類がそれである。人間が地上の王であるなら蟻は地下の女王であった、と古言にもいう」166頁

「つまるところ植物的麻痺と本能と知性の3つが動植物に共通な生命衝力のなかに寄りあっていた要素なのである。これらの要素は実に思いもかけなかった形態にあらわれて発達しながら、ただ大きくなっただけのために分裂したのであった」167頁

「生命がひとつの有機体となって現われたばあい、それは私からみるとなまの物質からある種のものを獲得しようとするある種の努力をあらわしている」169頁

「かりに私たちが思いあがりをさっぱりと脱ぎ捨てることができ、人類を定義するばあいその歴史時代および先史時代が人間や知性のつねにかわらぬ特徴として提示しているものだけに厳密にたよることにするならば、たぶん私たちはホモ・サピエンス(知性人)とは呼ばないでホモ・ファベル(工作人)と呼んだであろう。つまり、<知性とはその本来の振舞いらしいものからみるならば人工物なかんずく道具をつくる道具を製作し、そしてその製作にはてしなく変化をこらす能力なのである>」171頁

「ほとんどの本能は有機的組織化の仕事そのものの延長であり、あるいはもっとましな言いかたをすれば、その完成なのである。…<仕上げのできた本能は有機的な道具を利用しくみ立てさえもする能力であり、仕上げのできた知性は無機の道具を製作し使用する能力である>」172-3頁

「生命に内在する力がかぎりのないものであったなら、その力はおなじ有機体内に本能と知性とをたぶんはてしなく発展させたであろう。しかしあらゆる徴候からみて、生命のこの力は有限であり、発揮されはじめると早々に涸れるらしい。同時にいくつもの方向に遠くまで行くことはこの力にはむずかしい。それは選択せねばならぬ。それもなまの物質にたいする2通りの働らきかけかたのうちひとつを択ぶほかない。その力は<有機的>な道具を自分のために創作しそれで仕事をして<直接に>そうした作用を生みだすことができる。あるいはまた、ある有機体によって<間接に>働らきかけることもできる。このばあいその有機体は必要な道具を自然にそなえていないかわりに、自分で無機物を細工して道具を作るであろう。ここから知性と本能が生ずる。両者は発展しながらだんだんと方角が開くが、たがいに分離することはけっしてない。…知性に本能の入用な度合は本能が知性を要するよりも大きい」174-5頁

「人間にいたってはじめて知性は自分を残りなくつかむ。そしてこの勝利を実証しているのがほかでもない、敵にたいし寒さや饑えにたいして身を守る手持ちの自然な手段が人間に乏しいことである。…正直のところ自然はやはりこの[本能と知性という]2通りの心的活動のあいだに迷わずにはいられなかった。一方は直ちに成功することは疑いないにしても効果にかぎりがあり、他方は一かばちかであるがもしうまく独立できればその版図はいくらでも拡がりえよう。とにかく最大の成功はここでもやはり最大の危険を冒したものになったのであった。<そのようなわけで、本能と知性とはたったひとつの同じ問題の方角はちがいながらもどちらもすっきりとした2通りの解を示しているのである>」175-6頁

「[植物と動物の]2種類の無意識のあいだの相違…意識が<無い>という無意識と意識が<無くされた>ための無意識とのちがい…無い意識と無くされた意識とはどちらもゼロにひとしい。しかしはじめのゼロは何もないことをあらわし、のちのゼロはふたつの量が大きさはひとしく方向が反対で相殺し中和しあうという事態をあらわしている」176-7頁

「生物が現実にはたす行為を取りかこんで可能的な行動あるいは潜勢的な活動の地帯があり、意識とはこの地帯に内在する光なのであろう。意識は躊躇ないしは選択を意味する。…<生物の意識とは潜勢的な活動と現実の活動との算術的な差であると定義してよいであろう。意識は表象と行動とのあいだのへだたりの尺度である>。
 そこで知性はどちらかといえば意識にむかい、本能は無意識にむかうと想定してよかろう。けだし、あつかう道具は自然が組立て、その適用の対象は自然がそなえ、獲られる結果も自然が要求しているところでは、選択には端役しかのこっていない。…本能の<不足額>が、行為を観念からへだてる距離が意識になるわけであろう。してみると意識はひとつの事故にすぎぬことになろう」177-8頁

「形式的認識が世にあらわれたのは実用が目あてだったにしても、実さいに役立つものだけにそれはかぎられぬことになる。知的な生物は自分を超えるゆえんのものを自分のなかに蔵しているのである」184-5頁

「私は人間の知性は行動の必要に左右されるものとしている。行動を措定すれば、そこから知性の形式そのものが導出されるのである」186頁

「事象における流動的なものは一部分知性からのがれるし、生物における生命固有なものはことごとく知性からのがれるであろう。<自然の手になったままの私たちの知性は非有機的な個体を主な対象としている>」187頁

「人間言語の符号を特徴づけているのは、その一般性よりはむしろ可動性である。<本能の符号は固着した符号であり、知性の符号は動く符号である>」193頁

「知性の要素をなす諸能力はいずれも物質を行動の用具に、すなわち言葉の語源的な意味での器官(オルガン)に変形することを目ざしている。生命は有機体(オルガニズム)を生みだすだけで満足せず無機物そのままをお添えに与えて、これが生物の丹精によって大がかりな器官に転化されることを望んだのである。生命はそうしたつとめをまず知性に課する。それで知性は無生の物質に見とれてわれを忘れているかのような物腰をいまも相かわらずつづけているわけである。知性は外をみつめ自分自身にたいして外に立つ生命であり、原則どおりまず有機化されていない自然の歩みを採りいれて、それから事実上この歩みを導こうとする。…知性は何をするにせよともかく有機化されたものを非有機的なものに分解する。けだし、知性は自分に自然な方向をさかさにし自分自身に振りむかぬかぎり、本物の連続や事象そのままの運動性や相互の完全透入を、一言でつくせばそれこそ生命たる創造的進化を考えることはできぬのである」196頁

「科学の進歩するにともない、たがいに外にならびあってひとつの生物を作っている異質的な要素がますます多数あらわれる。こうして科学はいよいよ生命のまじかに迫るのであろうか。むしろその反対で、生物の生命に固有なものとその並びあった部分を細かに追及してゆくにつれてだんだんと後退してみえるのではなかろうか」197頁

「知性は本来の語義での<進化>すなわち純粋な動きともいえる連続変化をまるで考えるようにできていない。…知性は生成を<状態>の羅列として表象する。…私たちがいくら努力してはてしなく追加をすすめて生成の動きをうまく真似てみても仕方はないので、生成そのものは私たちがそれをつかまえたと信ずるとき指のあいだからすり抜けることであろう。
 ほかでもない、知性はつねに構成しながら構成しなおそうとししかも与えられたもので構成しなおそうとするからこそ、歴史の各瞬間における<新奇な>ものをとり洩らすのである。知性は予見されぬものを許容しない。創造をことごとく斥ぞける。…私たちのたずさわっているのは既知のものとうまく嚙みあう既知のもの、要するにつねに繰りかえす旧いものである。…知性は根底からの生成と同様に完全な新しさというものもみとめない。…知性は生命の本質的な一面を、まるでそんな対象を考えるためにはできていないかのように取りにがす」197-200頁

「私たちが頑固で生きものを無生物としてあつかい、事象はすべてこんなにも流動的なのにそれを止まったきり動かぬ固体の形で考えようとする…私たちは不連続なもの、動かぬもの、死んだもののなかでしか落ちつけぬのである。<知性は生命にたいする本性的な無理解を特徴とする>。
 それとは反対に生命の形式そのものにあわせて型どられているのが、本能である。…本能は生命の奥ぞこの秘密を私たちに打ち明けてくれるにちがいない。けだし本能は生命が物質を有機化する仕事を引きついでいるにすぎぬ」200-1頁

「ひとつの種が他の種のある特殊な点についてもつ本能的な知識は、生命の一体性そのものに由来している。生命とは古えの哲人の表現をかりれば、自己自身と共感するひとつの全体なのである」203頁

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