「科学がいままでに構成したのは生命活動の老廃物にとどまっている。本来の意味で活動的・可塑的な物体は依然として合成を受けつけない。現代もっとも著名な一博物学者はかねてから主張して、生きた組織内で確認される現象は対立するふたつの筋合にわかれ、ひとつは<上向発生>で他は<下向発生>であるという。上向発生のエネルギの役割は、無機物質を同化して下等なエネルギを自分に固有の水準まで高めることにある。それは組織を形成する。これに反し、生命機能のいとなみそのものは(ただし同化、成長、生殖はのぞくとして)下向発生の筋合にぞくし、エネルギは下降してもはや上昇しない。物理化学に手が出せるとすれば、それはもっぱら下向発生の側の現象であり、すなわち要するに死物であって、生きものではない。…組織学的現象の研究が深まるにつれて、一切を物理学や化学で説明する傾向が鼓舞されるどころかかえって失望させられるばあいの如何にも多いという実状…組織学者E. B. ウィルソンは細胞の発達にささげられたお世辞でなくすばらしい書物のなかでそうした結論を出している。『細胞の研究は生命の形態、それも最下等なものを無機の世界から大きくへだてる溝を狭めるよりはむしろ拡げたようにみえる』」58-9頁
「生物の機能活動だけに没頭するひとは、生物学的過程をとく鍵は物理学や化学から与えられると信ずるようになりがちである。事実このひとびとは生物の体内で、ちょうどレトルト内でのように絶えず<くりかえす>現象を好んであつかう。生理学の機械論的な傾向はここからいくらかは説明がつく。これに反し、生きた組織の微妙な構造に、その発生や進化に注意を集中するひとにとっては、すなわちかたや組織学者と胎生学者にとりかたや博物学者にとっては、もはやレトルトの内容ばかりでなくレトルトそのものが相手である。そこではこのレトルトは<独自な>一連の行動が作りあげる本物の歴史をたどりながら、自己固有の形態を創造することがわかる。組織学者、胎生学者、あるいは博物学者といったひとびとは、生きた行動の物理化学的性格を生理学者のように気がるに信ずる気持にはなかなかなれない」60頁
「機械的な説明がなり立つのは、私たちの思考が全体から人工的に切りとる系にたいしてである。けれども全体そのもの、また全体のなかでおのずから全体に似てできている系になると、それらを機械的に説明する可能性はアプリオリにはみとめられない。みとめてよいなら、時間は無用となり、事象的でさえなくなろう。けだし、機械的な説明の真髄は、未来と過去とを現在の函数として計算できるものと考え、そして<一切は与えられている>と主張するところにある。この仮説によると、そうした演算のやりとげられる超人間的な知性になら過去・現在・未来は一目で見わたせることになる。事実また科学者のうち機械的説明を普遍的で完全に客観的と信じたひとびとは、知っててか知らないでかこの種の仮説を立ててきた。早くはラプラースがこの仮説を的確きわまる定式であらわしていた」61-2頁
「過激な機械論にはひとつの形而上学が蔵されている。この形而上学では事象の総体はひと丸めに永遠のなかに置かれており、そこに事物の見かけ上の持続はあっても、それはただ精神は弱いもので万事をいちどきに知ることはできぬということの表現にすぎぬ。けれども、私たちの経験中もっとも文句のありえぬものすなわち意識にとっては、持続はそんなものとはおよそ別物である。私たちは持続を測ることのできぬ流れとして知覚する。持続は私たちの存在の根底をなし、また私たちもひしと感じているとおり、私たちの交渉する事物の実質そのものでもある。普遍数学の見通しをいくら私たちに見せびらかしてもしかたがない。私たちは体系の要求するままに経験を犠牲にすることはできない。過激な機械論を私が斥けるゆえんである」63頁
「過激な目的論もまた受けいれられぬように思われる。目的論の教説には、たとえばライプニツに見られるような極端な形になると、事物や存在はひとまずたどっておいたプログラムを実施するにすぎぬ、との考えがこもっている。けれども宇宙には思いがけないことが何もなく、発明も創造も全然ないなら、時間はやはり無用になる。機械論の仮説と同じことで、ひとはここでもやはり<すべては与えられている>ことを前提しているのである。この意味での目的論は向きの逆になった機械論にすぎない。それは同じ前提から生気を吹きこまれている。…
そうはいっても、目的論は機械論のように動きのとれぬ線で描かれた教説ではない。ひとがやわらか味をもたせようとすれば結構それに堪えられる。機械論の哲学は採るか捨てるかしかない。かりにごく小さな塵の一片が力学の予想した軌道からはずれてごくわずかでも自発性の証跡を示すことがあれば、この哲学は捨てられねばなるまい。これに反し、目的因をたてる教説は決定的に論破されることはけっしてないであろう。そのある形を遠ざけても、別な形であらわれるであろう。目的説の原理は心理的な本質のもので、柔軟をきわめている」63-4頁
「有機的世界にかぎってみても一切がそこでは調和であることの証明は一向にやさしくならぬ…自然は生物をたがいにせめがせる。自然はいたるところで秩序にならべて無秩序を、進歩にならべて退歩を見せつける。けれども、物質の総体についても確言できぬことが、ひとつびとつの有機体を別々に取りだしてみるならば真にはならないであろうか。ひとはそこに見ごとな仕事の分相、部分のあいだの霊妙な連帯性、無限の錯綜における完全な秩序をみとめぬであろうか。この意味で、生物はおのおの自分の実質に内在するひとつの計画を実現しているのではなかろうか。そのようなテーゼの要点は、底をあらえば、古来の目的観念を細かく砕くところにある。なにか<外的な>目的性があり、それにあわせて生物はつぎつぎに凭れあいになっているとするような考え方であると、ひとは受けいれないし、笑い草にさえしかねない。草は牝牛のために、子羊は狼のために作られた、と想像するのは馬鹿げているという。けれども、<内的な>目的性というものがある。それによると、生物はいずれも自分自身のために作られており、そのあらゆる部分は全体の最大善のために協力し、この目的にむけて知性によって有機的に組織されている。これが、すでに久しく古典的な目的観念である」65頁→
「過激な目的論のあやまりは、過激な機械論ももとよりそうなのであるが、私たちの知性に自然なある種の概念を広く適用しすぎるところにある。…人間の知性は人間的行動の要求にあわせて作られている以上、それは意図しながら計算しながらひとつの目的に向けてもろもろの手段を並べこむとともに、機械性をいよいよ幾何学的な形に表象しながら操作をすすめる知性なのである。ひとびとは自然を数学的法則に支配される巨大な機械のように想像したり、あるいはひとつの計画の実現をそこに見たりするが、いずれにせよそれらは同じ生の諸必要から精神のなかに生じてたがいに補いあっているふたつの傾向が、極端にまでおしつめられたものにすぎない。
ここに過激な目的論が過激な機械論におよその点で酷似するゆえんがある。どちらの教説も事物の経過にはもちろんのこと、たんに生命の発展のなかにすら、予見不能な形態創造というようなものは見たがらない。機械論は事象を類似あるいは繰りかえしの相面でしかみない。つまり機械論を支配するのは、自然界では似たものが似たものを生むばかりだというあの法則である。機械論の宿す幾何学がはっきりと浮きだしてくれるにつれて、何かが創造されるということは、たとえ形態の創造のばあいにかぎってもいよいよ容認できなくなる」69-70頁
「目的原理を厳格に適用すると、機械因果の原理のばあいと同様になり、『一切は与えられている』という結論にみちびかれる。この両原理はおなじ要求にたいする答として、同一事をふた通りの言葉で述べているのである。
ここに、両原理が心をあわせてさらに時間を抹消した理由もある。…一切が時間のなかにあるなら、一切は内的に変化して、おなじ具体的な事象が二度と繰りかえすことはない。つまり繰りかえしは抽象のなかでしか起こりえない。…知性は繰りかえすものに気をとられ、似たもの同士を鑞づけすることことにひたすら専心しているので、時間に目をとめないでそっぽを向く。知性は流動するものを嫌い、触れるものをことごとく固形化する。私たちは事象的な時間を<考え>ないのである。しかし、生命が知性をはみでるからには、私たちは事象的な時間を生きている。純粋持続のなかで私たちをはじめ一切の事物は進化しているとの感じがひかえていて、それが本来の意味の知的表象のまわりに定かならぬ暈を、闇のなかへぼかしながら描きだす。機械論と目的論とは中心にきらめく光の核しか考えに入れぬ点で一致する」70-1頁
「私たちの思考を閉じこめている過激な機械論と目的論の枠から出てみよう。事象はただちに新しいものの絶えざる湧出となって私たちの前にあらわれる。…私たちの振舞いの展開には、いたるところ機械性がありいたるところ目的性がある。…機械論と目的論とはこのばあい私の振舞いを外から撮った眺めにすぎない。振舞いのなかから知性的なものをそれらは取りだしたのである。…自由な行動は観念と不可約であって、その『合理性』はほかならぬこの不可約ということで定義されねばならない。この不可約性があるから、ひとは自由な行動のなかに知的なものをいくらでも発見できるのである。これが私たちの内的展開の特徴である。それはまた疑いもなく生命進化の特徴でもある」72-3頁
「不可約」の原語は?
「生命の総体を表象するとは、生命自体が進化の途上で私たちのなかに沈めていったさまざまな単純な観念を組合わせることではありえない。部分は全体に、内容は容器に、生きた操作の名残りは操作そのものにどうして等価でありえようか。…私たちは進化の到達点のひとつを占めており、それは主要な点にはちがいないが唯一のものではない。しかも折角その点を占めながら、私たちはそこに含まれているものを残らず捉えはしない。…私たちのあつかうのは進化をとげたものつまり結果だけにきまっており、進化そのものすなわちそうした結果をもたらす行為は私たちにはあつかえぬだろう。
以上が私の目ざしてゆく生命の哲学である。この哲学は機械論と目的論をともに同時に乗りこえることをうたう。しかし…それは前者よりは後者の教説に近い」75-6頁
「生哲学は過激な目的論よりは漠とした形ながら、有機的な世界をやはりひとつの調和した全体として私たちに再現するであろう。しかしこの調和は従来いわれてきたような完全なものからはほど遠い。そこにはいくらも不調和が入りこめる。おのおのの種が、各個体すらが生命の全衝動から特定のはずみだけを取りとめて、そしてこのエネルギを自分一個の利益にもちいようとつとめる。これが<適応>というものである。種や個体はこのように自分のことしか考えない。他の生命形態との軋轢がここから起こることになる。してみれば、調和は事実としては存在しないで、権利として存在するのである。…調和は、というよりはむしろ『相補性』は大まかに、状態よりは傾向のなかにあらわれるにすぎない。…調和は衝動の同一なことにもとづくので、共通な志向にもとづくのではない。生命に人間的語義での目的というものをもたせようとしても仕方がない。目的をとやかくいうのは、モデルという先在していてあとは実現さえすればよいものを考えることである。したがってそれは底を洗えば、一切は与えられており、未来も現在から読みとることはできると仮定することになる。それは、生命は運動するさいにも全体としても私たちの知性と同様に手をすすめるものだ、と信ずることである」76-7頁→
(承前)「実は知性は生命をみた動きのない断片的な眺めにすぎず、本性上つねに時間の外にたっている。生命というものは進行し持続する。…私がこれから提唱したい目的論的な解釈も、けっして未来を予料するものの意味にとってほしくない。それは過去を現在の光でみたある種の観照なのである。…目的概念は生命を知性から説明したために、生命の意味を過度に切りつめている。知性は、少なくとも私たちの内にみられるような知性は、進化がその経路において仕上げたものである。それは何かもっと広いもののなかで切りとられたもの、というよりはむしろ、せり出しも奥行きもある事象のどうしても平面化した投影にすぎぬ。本物の目的論ならこのようなもっと幅のある事象をこそ再構成するはずであろう。…その事象が知性からはみ出るからこそ、似たもの同士をむすびつけ繰りかえしをみとめこれを生産までする能力をこえるからこそ、それは疑いもなく創造的なのである」77-8頁
「適応とはもはや不適者の消去というだけのものではなくなるであろう。…有機体がその住むべき環境にたいして適応をおこなうといわれるとき、どこかに形態が先在して自分をみたす物質を待っているであろうか。環境は鋳型ではない。生命がそこに流しこまれそこから形態を受取るというふうなものではない。こんな理屈をいうひとは譬え話にだまされているのである。まだ形態などはなく、生命が自分の仕事として、課せられた条件に適する形態を自分のために創造するのである。生命にとっては環境から利益を引きだすこと、環境中の不都合なものを中和し有益なものは利用すること、つまり外部の作用にたいしてそれと似もつかぬ器官を作って反応すること、が必要になってくる。ここでは、適応するとはもはや<繰りかえすこと>ではなく、それとはまったく別物の、<応答すること>である」84-5頁
ニッチ構築的な
「一言でいうと、いわゆる適応が環境の凹状で与えるものを凸状にくりかえすだけの受動的なものであるなら、適応はひとが作ってほしいようなものを作ってくれないであろう。また適応は能動的で、環境の出す問題に計算ずくで答えることができるといい切るひとがあれば、そのひとは私がはじめに指摘しておいた方向に私よりもさき走り、私からみても行きすぎている。…ひとは個々の特殊なばあいには、適応の過程は有機体が外部環境を最高度に善用できるための器官を組み立てる努力でもあるかのようないいかたをし、そのあとで適応一般について、それは環境の押型そのものを無差別な物質が受動的に受けとったものでもあるかのように語るのである」85-6頁
「帆立貝の眼にも網膜、角膜、細胞構造の水晶体があらわれていることは、私たちの眼と同様である。…軟体動物と脊椎動物とが共通の幹から分れたのは帆立貝の眼ほどにこみ入った眼があらわれるずっと以前だった、ということではみな一致するであろう。ではそのような構造の類似はどこから来るのか。
この点に関して、ふたつの相反する進化論体系の説明…ふたつというのは、純粋な偶然変異の仮説と、変異は外部環境の影響で一定方向にととのえられるとする仮説とである。…私は、ひとびとのもち出す変異は大きいにしても小さいにしても、偶然によるものであるかぎりそれは…構造上の類似の説明にはなりえない、ということを示してみたいと思う」89-91頁
「進化を決定する偶然変異が目にみえぬ変異であるなら、それらの変異を保存し累加するためにある善霊に——未来種の精霊に——お縋りせねばならなくなろう。自然淘汰はその役を引受けてくれまい。他方また偶然変異が急激なら、その突発した全変化がともどもに同一機能の遂行を目ざして補いあわぬかぎり、もとの機能が引きつづきいとなまれることも、あるいは新しい機能がそれにかわることもないであろう。もういちど善霊にお詣りして、さきほどは継時的な変異に<方向の恒続性>を確保していただいたように、こんどは同時的な変化に<収斂性>を授けていただく必要があろう。いずれの場合にも、たがいに独立な進化の諸線上に同一構造が並行に発達する事実は、偶然変異のただの蓄積にもとづくものではありえないであろう」96-7頁
「さきに私は『適応』の語の曖昧さを指摘しておいた。形態がだんだんと複雑になって外部環境の鋳型にますますきちんと嵌りこむのと、器官の構造がだんだん複雑になって環境をいよいよ有利に用いるのとは別のことである。…自然そのものが私たちの精神をこの2種の適応を混同するように仕向けているように見える。というのも、自然は能動的に反動する仕掛をいずれは組立てねばならぬ場合、ふつうまず受動的な適応からはじめるからである。…生きた物質が環境を利用するには。まずそこに受動的に適応するほかに術はないように思われる。運動を導かねぱならぬとき、生命ははじめまずその上に乗る。生命は入りこみながら手を打つのである」98-9頁
「アイメルの主著は教えるところが多い。ひとも知るようにこの生物学者は丹念に研究した結果、変形がおこなわれるのは外から内へ向う影響がゆるぎない一定方向に連続的にはたらくからであって、ダーウィンの唱えたような偶然変異によるのではないことを証明した。…原因がはたらきうるのは<押す>か<解発する>か<ほぐす>かによる。…この3つの場合をたがいに区別するものは、原因と結果のあいだの連帯性の強弱である。第1の場合では、結果の量ならびに質は原因の量ならびに質とともに変化する。第2の場合では、結果は量質いずれも原因の量質とともに変化しない。結果は不変なのである。最後の第3の場合には、結果の量は原因の量にしたがっても、原因が結果の質に影響することはない。…原因が結果の<説明になる>のは、実は第1の場合のみである。他のふたつの場合には、結果は多少なりとも与えられており、その先行物としてもち出されるものは結果の原因よりはむしろ——もちろん種々の度合での——機会なのである。…アイメル自身もときに因果性を確かにこの意味[第1と第2の中間]に解して、変異の『万華鏡的』な性格を語り、また有機化物質の変異は無機物が一定方向に変異するのに似て、ある一定方向におこなわれるという」100-2頁
「運動性と意識のあいだには明白な関係がある。…しかしながら、このような運動性や選択やひいてはまた意識はいずれも神経系の存在を必要条件とはしていない。…ある動物に脳がないという理由で意識もないとするのは、胃がないから養分をとることができぬというのに劣らず愚かしい言い分であろう。最下等な有機体にもうごく<自由>の度に応じて意識があるということになる。…動物は感受性と目覚めた意識とによって、植物は眠った意識と無感覚とによってそれなりに定義されるのではないか」140・141・143頁
「生命のひとつの本質的発露でほかの発露の特徴を萌芽ないし潜勢の状態で示さぬものはない。逆に、進化のある線上で他の線にそって発達しているもののいわば思出にぶつかったら、私たちはおなじ原傾向の分裂から生じた諸要素を相手にしているのだと結論すべきである。そのような意味で、植物と動物とは生命の2方向に開いた主要な発展をたしかに代表している。植物は固着性と無感覚によって動物から区別されるにしても、運動や意識も植物のなかに思出としてまどろんでいて、いつ甦えるかわからない。こうして常態どおり眠りこんでいる思出のほかに、目ざめて活動している思出ももとよりある。…<ひとつの傾向が発展しながら分解するとき、そこに生じた特殊な諸傾向はいずれも自分の専門となった仕事と両立できそうなものなら何でも原傾向のなかから取りとめて発展させようとするものだ>。ここから説明されるのはほかでもない、進化の独立な諸線上におなじ複雑な器官が形成されるという…事実であろう」149-50頁
「高等な有機体は本質的には消化・呼吸・循環・分泌等の器官の上に感覚・運動系統が据えつけられたといった構造になっていて、それらの器官はこの系統を修復し清掃し保護してやり、また恒常的な内部運動をそのために作ってやり、最後になかんずく潜在エネルギをそれに送って場処運動にかえさせるなどの役割をもつ。…高等な有機体では機能の複雑化は無限にすすむ。それゆえそうした有機体のひとつを研究すると、そこでは一切が一切の手段をつとめているかのようになっていて、私たちは円運動に巻きこまれてしまう。だからといってこの円にやはり中心がないわけではない。その中心が、感覚器官と運動装置のあいだに張りわたされた神経要素の系統なのである」156頁
「最下等なモネラ…から天賦にもっともめぐまれた昆虫類やすぐれて知的な脊椎動物にいたるまで、動物がとげてきた進歩はなかんずく神経系統の進歩であり、それもこの進歩の各段階に応じて必要となった諸部分のあらゆる創造と複雑化とをともなっての進歩であった。…生命の役目は物質に不確定性をはめこむことにある。生命が進化の歩みにつれて創造する形態は不確定な、すなわち予見されぬものである。それらの形態が運び手をつとめるはずの活動もまたいよいよ不確定に、すなわちいよいよ自由になる。…ノイロンをもった神経系統はそれこそ<不確定性の貯蔵所>ではないか。生命衝動の本質がこの種の装置の創造にむかって進んできたのだということは、有機的世界の全体を一目みわたせばわかるように思われる」157-8頁
「有機的世界をつらぬいて進化する力はかぎられた力であること、自分を超えようとつねにつとめながら自分の生み出そうとする仕事にたいしていつもきまって背丈が足りぬということは、忘れられてはならない。この点の誤解から過激な目的論のいろいろな誤謬や子供じみた考えが生れる。過激な目的論は生物界の全体をひとつの工作物として、それも私たちの作るものに似た工作物として表象した。それによると、この工作物のあらゆる部品は器官全体ができるだけ機能を発揮することを目ざして配置されている。どの種も自分の存在理由や機能や使命をもつ。あらゆる種が一緒になって一大協奏曲を奏でており、そこではちょっと聞くと不協和なところも底にある調和をひときわひびかせるのにもっぱら役立つ。要するに自然界においても万事は人間の天才の作品のばあいと同様にはこぶと考えられている。天才のなしとげる成果はごく小さいかもしれないが、製作物と製作の仕事とのあいだにはとにかく完全な等量関係が存在するのである」158-9頁
「不協和の深い原因は埋めようのないリズムの差異にひそんでいる。生命一般は動きそのものである。生命の発露した個々の形態はこの動きをしぶしぶと受けとるにすぎず、たえずそれに遅れている。動きはずんずん前進するのに、個々の形態はその場で足踏みしていたがる。進化一般はなるたけ直線的にすすもうとし、特殊な進化過程はいずれも円を描く。生物は一陣の風に巻きあげられたほこりの渦のようなもので、生命の大きな息吹きのなかに浮んだままぐるぐると自転する。したがって生物は割合に安定していて、しばしば動かぬものの真似までうまくやるので、私たちはついそれを<進歩>よりはむしろ<事物>としてあつかい、その形態の恒久的なところすら運動を描いたものに他ならぬことを忘れてしまう。…生物は何はともあれ通過点であり生命の本領は生命をつたえる運動にあるのだ」159-60頁
「生命は根かぎり働こうとするのにおのおのの種はできるだけわずかな努力ですませる方をえらぶ、とでもいおうか。生命はそのぎりぎりの本質すなわち種から種へ移行するところを直視するなら、ひたすら増大する行動である。ところが生命の通りぬけてゆく個々の種はいずれも楽をすることしか念頭にない。種は最小の骨折りですむ方へ向う。自分のなろうとする形態に溺れて種はなかば眠りこみ、自分以外の生命全体のことにはほとんど知らぬ顔である。種は身近な環境から最大限にしかもできるだけたやすく摂取することを目あてに自分を仕上げてゆく。このようなわけで、生命が新しい形態の創造に向ってすすむ行為とこの形態そのものが描きあげられる行為とは、ふたつの異なった運動でありしばしば競りあってもいる」160-1頁
「生きている形態は定義そのものからいって生きられる形態である。有機体がその生きる環境にたいして適応しているようすはどのように説明されるにしても、種が存続している以上その適応は十分でないはずがない。この意味で古生物学や動物学が描いてみせる系図上の種は、いずれも生命がかちとった<成功>であった。…運動はよく脱線し、停止させられることもしばしばであった。通過点にすぎぬはずのものが終点になった。この新しい観点に立つと、失敗は通則に、成功は例外でしかもいつも不完全なものにみえてくる。…動物の生命が踏みこんだ4つの主方向のうちふたつは袋小路に行きあたり、のこるふたつの道でも努力は成果と釣合わぬのがふつうであった」161頁
「生命に内在する力がかぎりのないものであったなら、その力はおなじ有機体内に本能と知性とをたぶんはてしなく発展させたであろう。しかしあらゆる徴候からみて、生命のこの力は有限であり、発揮されはじめると早々に涸れるらしい。同時にいくつもの方向に遠くまで行くことはこの力にはむずかしい。それは選択せねばならぬ。それもなまの物質にたいする2通りの働らきかけかたのうちひとつを択ぶほかない。その力は<有機的>な道具を自分のために創作しそれで仕事をして<直接に>そうした作用を生みだすことができる。あるいはまた、ある有機体によって<間接に>働らきかけることもできる。このばあいその有機体は必要な道具を自然にそなえていないかわりに、自分で無機物を細工して道具を作るであろう。ここから知性と本能が生ずる。両者は発展しながらだんだんと方角が開くが、たがいに分離することはけっしてない。…知性に本能の入用な度合は本能が知性を要するよりも大きい」174-5頁
「生命の底には物理力のもつ必然性にできるだけ多数の不確定性を接木しようとする努力がひそむことを仮定しよう。この努力はエネルギを創造するところまでは行きえない。…生命の努力の唯一のねらいは自分の自由にまかされた既存のエネルギをできるだけうまく利用することにあるかのようにみえる。…努力そのものにはこの解発する能力しかない」145-6頁