Bergson, Henri-Louis. (1907) L’Évolution créatrice.
=1979 真方敬道訳『創造的進化』岩波文庫

高2か高3の時に買って、40年近く積ん読してました😅(ちょうど岩波文庫が、パラフィン紙からツルツルのカバーに移行していた頃)

「生命の本性をきわめることは諦めねばならないのか。知性からあてがわれるにきまっている機械的な生命観で私たちはこらえていなければならぬのであろうか。この生命観は生命の全体活動を人間活動のある種の形に、生命の部分的で局所的なあらわれにすぎず生命作用の結果ないしは残渣のひとつにすぎないものにちぢめる以上、どうしても人工的符号的になるほかはない」10頁

「スペンサのにせの進化論を真の進化論で置きかえる…前者は要するに、すでに進化をとげた現在の事象をおなじく進化をとげた細片に裁断して、その上でこれらの断片から事象を再構成するものであり、したがって肝腎の説明されるはずの事柄をあらかじめ全部みとめてしまっている。それにかわる真の進化論は、事象をその発生し成長するままに跡づけることであろう」12-3頁

「生命が機械論と同様に目的性をも超えるようにみる考えはもちろん新しいどころではない。…心理的な生命は一でも多でもない。それは<機械的な>ものをも<知性的な>ものをも超える。機械論や目的論は『区別された多』、『空間性』、したがって部分が先行する集合の存在する場合にかぎって意味をもつ」14頁

「心的生命が見かけの上で不連続なのは、私たちの注意が不連続な一連のはたらきでこの生命に目をとめてゆくことによる。なだらかな斜面しかないところに、私たちは注意のはたらきの折線をたどって階段があるように思いこむのである。…出来事のあらわす不連続な姿は地の連続の上に浮きでたものである。この地の上にそれらの出来事は描かれ、それらをとびとびにする間隙そのものも地からきている。…それらのひとつびとつが私たちの心的全存在をひっくるめた流動塊に担われている。それらはいずれもある動く帯の上のいちばん輝いた点にすぎない。…この帯の全体が私たちのありのままの状態を構成しているのである。…状態はたがいに連続しあってひとつはてしない流れを構成している」23頁

ライエル=ダーウィン流の漸進主義? 😅

「物質は幾何学的に取りあつかうことのできる孤立した系を作る傾向をもつ。実はこの傾向によって私たちは物質を定義するわけであろう。しかし、それは傾向にすぎぬ。物質は極点まではゆかないし、孤立化もけっして完全には行われない。…真相はやはり、それらの作用はそれぞれ糸になってその系をもっと広い他の系につないでいる。。この系はさらに第3の系につながってそれが2系をそっくり包み、そうやってついには最客観的に孤立し一切からもっとも独立している系に、太陽系の全体にいたる。…この糸をつたって全宇宙に内在する持続は私たちの生きる地球の極致の部分まで伝わって来ている」31-2頁

「系」と「糸」が紛らわしい😅

「宇宙そのものにも相反するふたつの運動が区別されねばならない。ひとつは『下り』、もうひとつは『上り』で。前者はすっかり書きおえた巻物をひろげるだけである。原理的にはこの運動はゼンマイのゆるむさいのように、ほとんど一瞬におわりうる。ところが後者の『上り』の方は成熟あるいは創造の内的作業に対応するもので、本質的に持続する、そしてそれと切りはなせぬ間柄の『下り』の上に自分のリズムをおしつける」32-3頁

「生物は自然みずからが孤立させ閉じたものである。生物は異質な諸部分がたがいに補いあって組み立っている、それはたがいに入れ子になったさまざまの機能をいとなむ。それは<個体>なのであり、他のものはどれをとってみても、結晶でさえも個体とまではいわれない。…生命の諸特性はけっして完全には実現されぬもので、つねに実現の途上にある。それは<状態>よりは<傾向>なのだ。…そこでは相反する諸傾向がつねにもつれあっている。なかんずく個体性の場合には、個体化の傾向が有機的世界の随処にあらわれているとすれば、生殖の傾向も随処でそれと闘っている、といってよい。個体性が完全であるためには、どんな部分もその有機体からはなれたら独立には生きてゆかれないようでなければなるまい。しかしそうなれば、生殖はできなくなるであろう。実さい生殖とはほかでもなく、新しい有機体を旧いものからはなれて出た一片で再構成することにほかならぬのではないか。してみれば、個体性はおのが敵に宿を貸しているわけである。個体にとって切実な時間的に永続したい要求が、かえって個体を空間的にはけっして完成されぬ羽目におちいらせている。この2傾向をそれぞれのばあいについて考慮することも生物学者の仕事なのである」34-5頁

「無機の物体は私たちが活動するために必要であり、私たちの思考様式の原型ともなったものでもあるが、それはつぎのような単一な法則に支配されている。『現在は何ものも過去以上には含まず、また結果に見出されるものはすでに原因のなかにあったものだ。』しかし有機体はごく皮相な観察からもそういえるように不断の成長と変形とがその区別の標徴であったとするならば、有機体がはじめは<1箇>でのちに<複数>になっても驚くにあたるまい。…個体性はけっして完全ではなく、どれが個体でありどれがないかを述べることはしばしば困難であり、ときには不可能でもある。それでもやはり生命は個体性の追求を歴然とあらわしており、そこには自然的に孤立し自然的に閉じた系を構成しようとする努力がある」36-7頁

「生きた有機体は持続する。その全過程はそっくりのびて現在のなかに入りこみ、そこに現にあってはたらきつづける。…生物学には、どんな生物にもそのまま自動的にあてはまるような普遍的法則はない。あるのは、生命がそれぞれの種一般を投げる<諸方向>ばかりである。…<およそ何かが生きているところには、自分の名を書きこむための帳簿がひとつどこかをあけて置いてある>」37-8頁

こういうフレーズは、ポエムとしては美しいんでしょうけどね😅

「有機的<創造>というもの、生命をもともと生命たらしめているゆえんの進化現象というものは、どうしたらそれが数学的処理にひきこめるかを私たちは垣間みることすらできない。…生体の現瞬間の存在原因は直前の瞬間のなかには見いだされない。直前の瞬間にさらにその有機体の全過程を、遺伝を、要するにその悠久な歴史の総体をつけ加えねばならない」42-3頁

「進化である以上、そこでは過去がありのままに現在に引きつがれ、持続という<連結符>がこめられていなければならぬ。別言するならば、生物ないしは<自然的>な系の認識は持続の区間そのものにかかわるのに、<人工的>ないし数学的な系の認識はその末端のみにかかわるものなのである。
 このように見てくると、変化の連続性、過去が現在に保存されること、本物の持続、生きものはどうもそうした属性を意識と共有するらしい」45頁

「私は、進化論の独断的主張が科学にたいして力をもつように、進化論の用語はいまや哲学全体にたいして力をもつものと買っているわけである。
 しかしそうなると、生命を<生命一般>として何か抽象物のように、あるいはあらゆる生物をその下に書きこむための単なる見出しのように語ることはもはや許されないだろう。むしろ、さる瞬間に、空間内のしかじかの点で、はっきりそれとわかるひとつの流れが源を発した。そしてこの生命の流れが、物体をつぎつぎに有機組織化しつつそれを通りぬけ、世代から世代へとうつり力を少しでも失うどころかすすむにつれてかえって強まりながら、種に分れ個体に散らばってきた、とでもいおうか」49頁

「<生命とは胚子からおとなの有機体を介してまた胚子へとすすむひとつの流れのように見える>。有機体そのものは旧い胚子が新しい胚子となって生きつづけようと努力しながら突起させる瘤か芽にすぎぬかのような、一切の経過のしかたなのである。本質的なのは、はてしなくとげられる連続的な進歩である。この見えぬ進歩の背におのおの馬乗りになって、見える有機体はゆるされたしばしの時を生きる」50頁

ドーキンズの「遺伝子の川」的な響き

「有機体の進化は意識の進化に近いものである。意識では過去は現在におし迫り、在来のものの尺度では測れない新しい形態をそこから湧きださせる。…生命についてもまた意識のばあいと同様に、それは刻々に何ものかを創造しているということができよう」50-1頁

「生物とよばれる自然な系はなまの物質のなかに科学が切りとる人工的な系になぞらえてよいものか、それとも宇宙の全体が作るあの自然的な系にくらべる方がむしろよいのではないか…生命が一種の機械仕掛であることは私もその通りだとおもう。けれども、それは宇宙のなかで人工的に孤立させうる部分のもつ機械性なのか、それとも全事象界のか。…有機的創造の過程を分析して発見される物理化学的現象の数はいよいよ増すにちがいない。ここにこそ化学者や物理学者の本領もあるわけであろう。しかしそれだからといって、化学や物理学が生命の鍵をいつかは私たちに授けてくれることにはならない」54頁

「『生命』はどの点をとってみても物理や化学の力に切して[ママ]いる。しかしそれらの点は結局は精神からみた眺めにすぎず、そのさい精神は曲線の描き手である運動をこの瞬間あの瞬間に想像の上でとめて見ているのである。真相は、曲線が直線の合成ではないのと同じことで、生命は物理化学的な要素からできてはいない」55頁

「図形の生成に運動をもちこんだ頃に近世数学が起こったということはやはり正しい。私の信ずるところをいうと、数学がその対象にせまる近さまで生物学もいつかは自分の対象にせまりえたならば、近世の数学と古代幾何のあいだに見られる関係が、そのまま生物学と有機体の物理化学とのあいだになりたつことであろう。…そのような科学は<変形の力学>というものであろう。…固有な生命活動に含まれる物理化学的要素を積分しても、生命活動はおそらく部分的にきまるだけで、一部は不定なままに残るであろう」55-6頁

「科学がいままでに構成したのは生命活動の老廃物にとどまっている。本来の意味で活動的・可塑的な物体は依然として合成を受けつけない。現代もっとも著名な一博物学者はかねてから主張して、生きた組織内で確認される現象は対立するふたつの筋合にわかれ、ひとつは<上向発生>で他は<下向発生>であるという。上向発生のエネルギの役割は、無機物質を同化して下等なエネルギを自分に固有の水準まで高めることにある。それは組織を形成する。これに反し、生命機能のいとなみそのものは(ただし同化、成長、生殖はのぞくとして)下向発生の筋合にぞくし、エネルギは下降してもはや上昇しない。物理化学に手が出せるとすれば、それはもっぱら下向発生の側の現象であり、すなわち要するに死物であって、生きものではない。…組織学的現象の研究が深まるにつれて、一切を物理学や化学で説明する傾向が鼓舞されるどころかかえって失望させられるばあいの如何にも多いという実状…組織学者E. B. ウィルソンは細胞の発達にささげられたお世辞でなくすばらしい書物のなかでそうした結論を出している。『細胞の研究は生命の形態、それも最下等なものを無機の世界から大きくへだてる溝を狭めるよりはむしろ拡げたようにみえる』」58-9頁

「生物の機能活動だけに没頭するひとは、生物学的過程をとく鍵は物理学や化学から与えられると信ずるようになりがちである。事実このひとびとは生物の体内で、ちょうどレトルト内でのように絶えず<くりかえす>現象を好んであつかう。生理学の機械論的な傾向はここからいくらかは説明がつく。これに反し、生きた組織の微妙な構造に、その発生や進化に注意を集中するひとにとっては、すなわちかたや組織学者と胎生学者にとりかたや博物学者にとっては、もはやレトルトの内容ばかりでなくレトルトそのものが相手である。そこではこのレトルトは<独自な>一連の行動が作りあげる本物の歴史をたどりながら、自己固有の形態を創造することがわかる。組織学者、胎生学者、あるいは博物学者といったひとびとは、生きた行動の物理化学的性格を生理学者のように気がるに信ずる気持にはなかなかなれない」60頁

「私は、生物という自然の手で閉じられた系を科学が孤立させるさまざまな系になぞらえることの許されぬ理論的理由を、説いてきた。…持続が生物におしつける跡型の深まるにつれて、その有機体と、持続を入りこませないで上つらを滑らせるだけの単純な機械仕掛との区別はいよいよあからさまになる。…進化論の仮説が生命の機械論的理解の縁者であるようにふつう見られているわけが私には解せない」60-1頁

「機械的な説明がなり立つのは、私たちの思考が全体から人工的に切りとる系にたいしてである。けれども全体そのもの、また全体のなかでおのずから全体に似てできている系になると、それらを機械的に説明する可能性はアプリオリにはみとめられない。みとめてよいなら、時間は無用となり、事象的でさえなくなろう。けだし、機械的な説明の真髄は、未来と過去とを現在の函数として計算できるものと考え、そして<一切は与えられている>と主張するところにある。この仮説によると、そうした演算のやりとげられる超人間的な知性になら過去・現在・未来は一目で見わたせることになる。事実また科学者のうち機械的説明を普遍的で完全に客観的と信じたひとびとは、知っててか知らないでかこの種の仮説を立ててきた。早くはラプラースがこの仮説を的確きわまる定式であらわしていた」61-2頁

「ハクスリ…『もしも進化論の根本的命題が真であるなら、すなわち、もし確かに無生有生の世界全体は宇宙の始原的な星雲質を構成していた分子のもつ諸力が一定法則にしたがって作用しあった結果であるならば、それに劣らず確かなこととして、現在の世界は宇宙蒸気のなかに潜勢的にやどっていたであろうし、また十分に力のある知性なら、この蒸気の分子の性質を知って、たとえば1868年の大ブリテン国における動物分布の状態を、ちょうど冬の寒い日に吐く蒸気の成りゆきを告げるときと同じ正確さで予言できたであろう』」62頁

「過激な機械論にはひとつの形而上学が蔵されている。この形而上学では事象の総体はひと丸めに永遠のなかに置かれており、そこに事物の見かけ上の持続はあっても、それはただ精神は弱いもので万事をいちどきに知ることはできぬということの表現にすぎぬ。けれども、私たちの経験中もっとも文句のありえぬものすなわち意識にとっては、持続はそんなものとはおよそ別物である。私たちは持続を測ることのできぬ流れとして知覚する。持続は私たちの存在の根底をなし、また私たちもひしと感じているとおり、私たちの交渉する事物の実質そのものでもある。普遍数学の見通しをいくら私たちに見せびらかしてもしかたがない。私たちは体系の要求するままに経験を犠牲にすることはできない。過激な機械論を私が斥けるゆえんである」63頁

「過激な目的論もまた受けいれられぬように思われる。目的論の教説には、たとえばライプニツに見られるような極端な形になると、事物や存在はひとまずたどっておいたプログラムを実施するにすぎぬ、との考えがこもっている。けれども宇宙には思いがけないことが何もなく、発明も創造も全然ないなら、時間はやはり無用になる。機械論の仮説と同じことで、ひとはここでもやはり<すべては与えられている>ことを前提しているのである。この意味での目的論は向きの逆になった機械論にすぎない。それは同じ前提から生気を吹きこまれている。…
 そうはいっても、目的論は機械論のように動きのとれぬ線で描かれた教説ではない。ひとがやわらか味をもたせようとすれば結構それに堪えられる。機械論の哲学は採るか捨てるかしかない。かりにごく小さな塵の一片が力学の予想した軌道からはずれてごくわずかでも自発性の証跡を示すことがあれば、この哲学は捨てられねばなるまい。これに反し、目的因をたてる教説は決定的に論破されることはけっしてないであろう。そのある形を遠ざけても、別な形であらわれるであろう。目的説の原理は心理的な本質のもので、柔軟をきわめている」63-4頁

「有機的世界にかぎってみても一切がそこでは調和であることの証明は一向にやさしくならぬ…自然は生物をたがいにせめがせる。自然はいたるところで秩序にならべて無秩序を、進歩にならべて退歩を見せつける。けれども、物質の総体についても確言できぬことが、ひとつびとつの有機体を別々に取りだしてみるならば真にはならないであろうか。ひとはそこに見ごとな仕事の分相、部分のあいだの霊妙な連帯性、無限の錯綜における完全な秩序をみとめぬであろうか。この意味で、生物はおのおの自分の実質に内在するひとつの計画を実現しているのではなかろうか。そのようなテーゼの要点は、底をあらえば、古来の目的観念を細かく砕くところにある。なにか<外的な>目的性があり、それにあわせて生物はつぎつぎに凭れあいになっているとするような考え方であると、ひとは受けいれないし、笑い草にさえしかねない。草は牝牛のために、子羊は狼のために作られた、と想像するのは馬鹿げているという。けれども、<内的な>目的性というものがある。それによると、生物はいずれも自分自身のために作られており、そのあらゆる部分は全体の最大善のために協力し、この目的にむけて知性によって有機的に組織されている。これが、すでに久しく古典的な目的観念である」65頁→

(承前)「目的論はいちどきにはやっと一個の生物しか包めぬところまでちぢまった。身をちぢめれば打たれる面の露出が少なくてすむと考えたのである。
 実は、それこそいよいよ打撃に身をさらしていたのである。やはり過激にみえるかも知れないが、私のテーゼはこうである。目的論は外的であるか、でなければまったく何ものでもない」65-6頁

「実さい、きわめて複雑でこの上なく調和した有機体を考察してみよう。あらゆる要素が全体の最大善のために協心している、と私たちは教えられる。そうだとしよう。しかし忘れてはならぬのは、各要素がいずれもある場合にそれ自身ひとつの有機体でありうること、そしてこの小さな有機体の存在を大きなものの生命に従属させることで私たちは外的目的性の原理を受けいれているのだということである。こうして、あくまでも内的な目的性というような観念は自己崩壊する。有機体は、それぞれに自分のために生きている諸組織からなる。その組織を作っている細胞がまたある自主性をもつ」66頁

マルチレベル淘汰説みたいな発想

「実は生気論の立場をきわめてむずかしくしているのは、自然界には純粋に内的な目的性もなければ、絶対的に切りはなされた個体性もないという事実なのである。…目的性をちぢめて生物の個体にかぎろうとしても仕方がないであろう。生命の世界に目的性がいくらかでもあれば、それは生命全体を不可分なひと抱えで包括しているのである。…そこで私たちは、目的性の単純な否定か、それとも、有機体の諸部分を有機体そのものに並べこむばかりでなくさらに各生物を残りの生物全部に並べこむ仮説か、のいずれかをえらばねばならぬ」67-8頁

「今日の生気論には区別すべきふたつの面がある。一方には純粋な機械論は不十分だとする主張があり、この主張はたとえばDrieschやReinkeのような科学者から唱えだされるとき高い権威をもつにいたる。他方はこの生気論は機械論と重なりあうとする仮説である(Drieschのentéléchies, Reinkeのdominantesなど)。両面のうち前者の方が意義深いことは論をまたぬ」68頁

「過激な目的論のあやまりは、過激な機械論ももとよりそうなのであるが、私たちの知性に自然なある種の概念を広く適用しすぎるところにある。…人間の知性は人間的行動の要求にあわせて作られている以上、それは意図しながら計算しながらひとつの目的に向けてもろもろの手段を並べこむとともに、機械性をいよいよ幾何学的な形に表象しながら操作をすすめる知性なのである。ひとびとは自然を数学的法則に支配される巨大な機械のように想像したり、あるいはひとつの計画の実現をそこに見たりするが、いずれにせよそれらは同じ生の諸必要から精神のなかに生じてたがいに補いあっているふたつの傾向が、極端にまでおしつめられたものにすぎない。
 ここに過激な目的論が過激な機械論におよその点で酷似するゆえんがある。どちらの教説も事物の経過にはもちろんのこと、たんに生命の発展のなかにすら、予見不能な形態創造というようなものは見たがらない。機械論は事象を類似あるいは繰りかえしの相面でしかみない。つまり機械論を支配するのは、自然界では似たものが似たものを生むばかりだというあの法則である。機械論の宿す幾何学がはっきりと浮きだしてくれるにつれて、何かが創造されるということは、たとえ形態の創造のばあいにかぎってもいよいよ容認できなくなる」69-70頁

「目的原理を厳格に適用すると、機械因果の原理のばあいと同様になり、『一切は与えられている』という結論にみちびかれる。この両原理はおなじ要求にたいする答として、同一事をふた通りの言葉で述べているのである。
 ここに、両原理が心をあわせてさらに時間を抹消した理由もある。…一切が時間のなかにあるなら、一切は内的に変化して、おなじ具体的な事象が二度と繰りかえすことはない。つまり繰りかえしは抽象のなかでしか起こりえない。…知性は繰りかえすものに気をとられ、似たもの同士を鑞づけすることことにひたすら専心しているので、時間に目をとめないでそっぽを向く。知性は流動するものを嫌い、触れるものをことごとく固形化する。私たちは事象的な時間を<考え>ないのである。しかし、生命が知性をはみでるからには、私たちは事象的な時間を生きている。純粋持続のなかで私たちをはじめ一切の事物は進化しているとの感じがひかえていて、それが本来の意味の知的表象のまわりに定かならぬ暈を、闇のなかへぼかしながら描きだす。機械論と目的論とは中心にきらめく光の核しか考えに入れぬ点で一致する」70-1頁

「私たちの思考を閉じこめている過激な機械論と目的論の枠から出てみよう。事象はただちに新しいものの絶えざる湧出となって私たちの前にあらわれる。…私たちの振舞いの展開には、いたるところ機械性がありいたるところ目的性がある。…機械論と目的論とはこのばあい私の振舞いを外から撮った眺めにすぎない。振舞いのなかから知性的なものをそれらは取りだしたのである。…自由な行動は観念と不可約であって、その『合理性』はほかならぬこの不可約ということで定義されねばならない。この不可約性があるから、ひとは自由な行動のなかに知的なものをいくらでも発見できるのである。これが私たちの内的展開の特徴である。それはまた疑いもなく生命進化の特徴でもある」72-3頁

「不可約」の原語は?

「生命の総体を表象するとは、生命自体が進化の途上で私たちのなかに沈めていったさまざまな単純な観念を組合わせることではありえない。部分は全体に、内容は容器に、生きた操作の名残りは操作そのものにどうして等価でありえようか。…私たちは進化の到達点のひとつを占めており、それは主要な点にはちがいないが唯一のものではない。しかも折角その点を占めながら、私たちはそこに含まれているものを残らず捉えはしない。…私たちのあつかうのは進化をとげたものつまり結果だけにきまっており、進化そのものすなわちそうした結果をもたらす行為は私たちにはあつかえぬだろう。
 以上が私の目ざしてゆく生命の哲学である。この哲学は機械論と目的論をともに同時に乗りこえることをうたう。しかし…それは前者よりは後者の教説に近い」75-6頁

フォロー

「生哲学は過激な目的論よりは漠とした形ながら、有機的な世界をやはりひとつの調和した全体として私たちに再現するであろう。しかしこの調和は従来いわれてきたような完全なものからはほど遠い。そこにはいくらも不調和が入りこめる。おのおのの種が、各個体すらが生命の全衝動から特定のはずみだけを取りとめて、そしてこのエネルギを自分一個の利益にもちいようとつとめる。これが<適応>というものである。種や個体はこのように自分のことしか考えない。他の生命形態との軋轢がここから起こることになる。してみれば、調和は事実としては存在しないで、権利として存在するのである。…調和は、というよりはむしろ『相補性』は大まかに、状態よりは傾向のなかにあらわれるにすぎない。…調和は衝動の同一なことにもとづくので、共通な志向にもとづくのではない。生命に人間的語義での目的というものをもたせようとしても仕方がない。目的をとやかくいうのは、モデルという先在していてあとは実現さえすればよいものを考えることである。したがってそれは底を洗えば、一切は与えられており、未来も現在から読みとることはできると仮定することになる。それは、生命は運動するさいにも全体としても私たちの知性と同様に手をすすめるものだ、と信ずることである」76-7頁→

(承前)「実は知性は生命をみた動きのない断片的な眺めにすぎず、本性上つねに時間の外にたっている。生命というものは進行し持続する。…私がこれから提唱したい目的論的な解釈も、けっして未来を予料するものの意味にとってほしくない。それは過去を現在の光でみたある種の観照なのである。…目的概念は生命を知性から説明したために、生命の意味を過度に切りつめている。知性は、少なくとも私たちの内にみられるような知性は、進化がその経路において仕上げたものである。それは何かもっと広いもののなかで切りとられたもの、というよりはむしろ、せり出しも奥行きもある事象のどうしても平面化した投影にすぎぬ。本物の目的論ならこのようなもっと幅のある事象をこそ再構成するはずであろう。…その事象が知性からはみ出るからこそ、似たもの同士をむすびつけ繰りかえしをみとめこれを生産までする能力をこえるからこそ、それは疑いもなく創造的なのである」77-8頁

「機械論では進化を説明するに十分でないとして、この不十分さを確証する方法は古典的な目的概念に執着することではなく、いわんや目的概念を切りつめたりゆるめたりすることでもなく、かえってそれを越えてすすむことである」79頁

「生命はその発現以来、おなじひとつのはずみが進化の末ひろがりの諸線に分れながら続いてきたものである。ひとつびとつ創造されたものがつぎつぎにつけ加わって、何かが成長し発展してきた。発展したからこそ、さまざまな傾向はある点よりさきに伸びるためには軋轢がさけられなくなり、その結果たがいに分離するにいたったのである。…岐路はいくらでも生じたし横道もつぎつぎに開けて、諸要素は独立にそれらの道をわかれて伸びていった。それにもかかわらず各部分を運動しつづけさせているものは、依然として全体にわたる元のはずみなのである。こう見てくると、部分には全体のなかの何かが存続しているはずである」80頁

「<生命はさまざまな向きの進化の線上に似もつかぬ手段である種のおなじ器官を製作するものだ、ということがかりに確立できれば、純粋な機械論は論破されうるものとなり、また目的性も、私の解する特殊な意味でならば、ある面で立証できることになろう。なおその立証力は、私のえらんだ進化の諸線の開きかげんや、その線上に見られる相似な構造体のこみいりぐあいに比例することであろう>」81頁

「適応とはもはや不適者の消去というだけのものではなくなるであろう。…有機体がその住むべき環境にたいして適応をおこなうといわれるとき、どこかに形態が先在して自分をみたす物質を待っているであろうか。環境は鋳型ではない。生命がそこに流しこまれそこから形態を受取るというふうなものではない。こんな理屈をいうひとは譬え話にだまされているのである。まだ形態などはなく、生命が自分の仕事として、課せられた条件に適する形態を自分のために創造するのである。生命にとっては環境から利益を引きだすこと、環境中の不都合なものを中和し有益なものは利用すること、つまり外部の作用にたいしてそれと似もつかぬ器官を作って反応すること、が必要になってくる。ここでは、適応するとはもはや<繰りかえすこと>ではなく、それとはまったく別物の、<応答すること>である」84-5頁

ニッチ構築的な

「一言でいうと、いわゆる適応が環境の凹状で与えるものを凸状にくりかえすだけの受動的なものであるなら、適応はひとが作ってほしいようなものを作ってくれないであろう。また適応は能動的で、環境の出す問題に計算ずくで答えることができるといい切るひとがあれば、そのひとは私がはじめに指摘しておいた方向に私よりもさき走り、私からみても行きすぎている。…ひとは個々の特殊なばあいには、適応の過程は有機体が外部環境を最高度に善用できるための器官を組み立てる努力でもあるかのようないいかたをし、そのあとで適応一般について、それは環境の押型そのものを無差別な物質が受動的に受けとったものでもあるかのように語るのである」85-6頁

「目的性を弁護するひとがいつも重視してきた例を考察しよう。それは人間の眼の構造である。…構造と器官のあいだに作用反作用を果てしなくつづけさせれば、眼がだんだんと形成される過程は、私たちの眼ほどに入りくんだもののばあいでも、機械的以外の原因をもちこまないで説明されることになろう」88-9頁

「帆立貝の眼にも網膜、角膜、細胞構造の水晶体があらわれていることは、私たちの眼と同様である。…軟体動物と脊椎動物とが共通の幹から分れたのは帆立貝の眼ほどにこみ入った眼があらわれるずっと以前だった、ということではみな一致するであろう。ではそのような構造の類似はどこから来るのか。
 この点に関して、ふたつの相反する進化論体系の説明…ふたつというのは、純粋な偶然変異の仮説と、変異は外部環境の影響で一定方向にととのえられるとする仮説とである。…私は、ひとびとのもち出す変異は大きいにしても小さいにしても、偶然によるものであるかぎりそれは…構造上の類似の説明にはなりえない、ということを示してみたいと思う」89-91頁

「進化を決定する偶然変異が目にみえぬ変異であるなら、それらの変異を保存し累加するためにある善霊に——未来種の精霊に——お縋りせねばならなくなろう。自然淘汰はその役を引受けてくれまい。他方また偶然変異が急激なら、その突発した全変化がともどもに同一機能の遂行を目ざして補いあわぬかぎり、もとの機能が引きつづきいとなまれることも、あるいは新しい機能がそれにかわることもないであろう。もういちど善霊にお詣りして、さきほどは継時的な変異に<方向の恒続性>を確保していただいたように、こんどは同時的な変化に<収斂性>を授けていただく必要があろう。いずれの場合にも、たがいに独立な進化の諸線上に同一構造が並行に発達する事実は、偶然変異のただの蓄積にもとづくものではありえないであろう」96-7頁

「さきに私は『適応』の語の曖昧さを指摘しておいた。形態がだんだんと複雑になって外部環境の鋳型にますますきちんと嵌りこむのと、器官の構造がだんだん複雑になって環境をいよいよ有利に用いるのとは別のことである。…自然そのものが私たちの精神をこの2種の適応を混同するように仕向けているように見える。というのも、自然は能動的に反動する仕掛をいずれは組立てねばならぬ場合、ふつうまず受動的な適応からはじめるからである。…生きた物質が環境を利用するには。まずそこに受動的に適応するほかに術はないように思われる。運動を導かねぱならぬとき、生命ははじめまずその上に乗る。生命は入りこみながら手を打つのである」98-9頁

「アイメルの主著は教えるところが多い。ひとも知るようにこの生物学者は丹念に研究した結果、変形がおこなわれるのは外から内へ向う影響がゆるぎない一定方向に連続的にはたらくからであって、ダーウィンの唱えたような偶然変異によるのではないことを証明した。…原因がはたらきうるのは<押す>か<解発する>か<ほぐす>かによる。…この3つの場合をたがいに区別するものは、原因と結果のあいだの連帯性の強弱である。第1の場合では、結果の量ならびに質は原因の量ならびに質とともに変化する。第2の場合では、結果は量質いずれも原因の量質とともに変化しない。結果は不変なのである。最後の第3の場合には、結果の量は原因の量にしたがっても、原因が結果の質に影響することはない。…原因が結果の<説明になる>のは、実は第1の場合のみである。他のふたつの場合には、結果は多少なりとも与えられており、その先行物としてもち出されるものは結果の原因よりはむしろ——もちろん種々の度合での——機会なのである。…アイメル自身もときに因果性を確かにこの意味[第1と第2の中間]に解して、変異の『万華鏡的』な性格を語り、また有機化物質の変異は無機物が一定方向に変異するのに似て、ある一定方向におこなわれるという」100-2頁

「おびただしい数の小原因のふた通りの蓄積からこのように同じ結果が生ずるということは、機械論哲学のたよる原理になんとも矛盾している。…
 否応でもある内的な方向原理に訴えないかぎり、結果のこのような収斂はえられないであろう。そうした収斂の可能性は、新ダーウィン派のたてた目に見えぬ偶然変異の説にも、急激な偶然変異の仮説にもあるとはみえないし、外力と内力との一種機械的な合成によって諸器官の進化に一定の方向があてがわれるという説からさえうかがえない」103-4頁

「現在おこなわれているあらゆる型の進化論のなかでは新ラマルク説だけが内的で心理的な発展原理を、ぜひとも頼りにするほどではないにしてもとにかく容れる幅をもったものである。それはまた、たがいに独立な発展線上に複雑でしかも同一な器官が形成されるわけを説明できそうな唯一の進化論でもある。実さい、おなじ環境を有利に用いようとするおなじ努力はおなじ結果に導くこと、ことに外部環境の課する問題がひと通りの解しかゆるさぬたぐいのものであるときそうなることは納得できる」105頁

「スペンサがまず獲得形質の遺伝の問題を自問することからはじめたならば、このひとの進化論はおそらく全然べつの形をとったのではなかろうか。もしも個体の身につけた習慣はごく例外のばあいにしか子孫に伝わらぬとすると(私にはそうらしく思える)、スペンサの心理学はことごとく書きなおされねばならず、その哲学の相当な部分が崩壊することとなろう」107頁

「新ダーウィン派の説くところでは、変異の本質的な原因は個体のになう胚に内属する変差であってその個体の重ねてきた振舞いではないとされるが、その点はたぶん正しいであろう。私がこの派のひとびとについて行きにくくなるのは、この生物学者たちが胚に内属する変差をひたすら偶然的で個別的とするときである。変差は胚から胚へと個体を介して伝わるある衝動の発達したものであり、したがってただの偶然ではないこと、またおなじ種の現員の全部か少なくともそのある数かにおなじ形で現われることはきわめてありうること、などを私としては信ぜぬわけにはゆかない。それに、<突然変異>説も早くからダーウィン説をこの点で立ちいって修正している。そのいうところによれば、種は長期間を経たある与えられた時機にいたると、変ろうとする気運にその全体が乗っとられる。してみると<変ろうとする気運>は偶然ではないのである。…新ダーウィン派も変異の周期が決まっていることは認めかかっている。そうすると少なくとも動物では変異の方向もまた決まっていてよいことになろう。ただしその決まる程度はいずれ示さねばならぬ」114-5頁

「なるほど有機的世界の進化が全体としてあらかじめ決定されているはずはない。それどころか有機的世界においてつぎからつぎへと別な形態が不断に創造されてゆくところに、生の自発性は発露しているというのが私の主張なのである。けれども、この非決定性は完全なものではありえない。ある部分が決定性に残されているはずである。…私がアイメルと別れるのは、物理的並びに化学的な原因の組合わせがありさえすれば結果は確実に出てくる、と主張されるときである。私はそれに反対して、もしそこに『定向進化』があるならば、心理的原因が入りこんでいるのだということを、眼という適切な例で立証しようとこころみてきた」116頁

「私は生命の<根源のはずみ>が胚のひとつの世代からつづく世帯へと移ってゆき、成体となった有機体は胚から胚への媒介をつとめる連結符だと考えている。このはずみこそは進化の諸線に分たれながらもとの力をたもって、変異の根ぶかい原因となるものである。少なくとも、規則的に遺伝し累加されて新種を創造する変異を、それはひき起こす」117頁

「機械論が目的論の擬人的性格を非難することには一理ある。しかし機械論もまた自分では気づかずに、同じ方法をただ片輪にしただけで用いている。なるほど機械論は目的の追求や観念的なモデルを一掃した。けれども機械論もやはり、自然は工作する人間なみに部分を取りあつめながら仕事をすすめたことにしたいのである。とはいえ胚子の発達をひと目でもみたら、生命の営みぶりはそれとはまったく異なることを機械論は見せつけられたであろう。<生命の手のすすめ方は要素の連結と累加によらず、分離と分割による>。
 そのようなわけで、機械論と目的論の見かたはふたつながら乗りこえられなければならぬ。どちらももとを正せばひとの仕事をする姿にたよって人間精神がゆきついた見かたにすぎない。…器官のかぎりない複雑さと機能の極端な単一さ、このふたつの対比こそは私たちの目を開いてくれるにちがいない」118-9頁

「機械論と目的論はふたつながら、事象そのものたる運動のかたわらを素通りしてしまうであろう。運動はある意味で位置やその秩序より<以上>のものである。…機械論も目的論もゆくべきところまで行っていない。しかし別の意味では機械論と目的論はどちらも行きすぎている。けだしふたつながらヘラクレスのもっとも辛い仕事を自然に割りあてて、無限に複雑な無数の要素を組立てて見るという単一な行為に仕上げさせたかったのに、実さいは自然は眼を作るさいに私が手を挙げる以上の苦労はしなかったからである。自然の単一な行為はおのずから無数の要素に分かれ、それをあとからひとが見て同一目的に向って配列されていることに気づくのである」121頁

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