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Bergson, Henri-Louis. (1907) L’Évolution créatrice.
=1979 真方敬道訳『創造的進化』岩波文庫

高2か高3の時に買って、40年近く積ん読してました😅(ちょうど岩波文庫が、パラフィン紙からツルツルのカバーに移行していた頃)

「生命の本性をきわめることは諦めねばならないのか。知性からあてがわれるにきまっている機械的な生命観で私たちはこらえていなければならぬのであろうか。この生命観は生命の全体活動を人間活動のある種の形に、生命の部分的で局所的なあらわれにすぎず生命作用の結果ないしは残渣のひとつにすぎないものにちぢめる以上、どうしても人工的符号的になるほかはない」10頁

「スペンサのにせの進化論を真の進化論で置きかえる…前者は要するに、すでに進化をとげた現在の事象をおなじく進化をとげた細片に裁断して、その上でこれらの断片から事象を再構成するものであり、したがって肝腎の説明されるはずの事柄をあらかじめ全部みとめてしまっている。それにかわる真の進化論は、事象をその発生し成長するままに跡づけることであろう」12-3頁

「生命が機械論と同様に目的性をも超えるようにみる考えはもちろん新しいどころではない。…心理的な生命は一でも多でもない。それは<機械的な>ものをも<知性的な>ものをも超える。機械論や目的論は『区別された多』、『空間性』、したがって部分が先行する集合の存在する場合にかぎって意味をもつ」14頁

「心的生命が見かけの上で不連続なのは、私たちの注意が不連続な一連のはたらきでこの生命に目をとめてゆくことによる。なだらかな斜面しかないところに、私たちは注意のはたらきの折線をたどって階段があるように思いこむのである。…出来事のあらわす不連続な姿は地の連続の上に浮きでたものである。この地の上にそれらの出来事は描かれ、それらをとびとびにする間隙そのものも地からきている。…それらのひとつびとつが私たちの心的全存在をひっくるめた流動塊に担われている。それらはいずれもある動く帯の上のいちばん輝いた点にすぎない。…この帯の全体が私たちのありのままの状態を構成しているのである。…状態はたがいに連続しあってひとつはてしない流れを構成している」23頁

ライエル=ダーウィン流の漸進主義? 😅

「物質は幾何学的に取りあつかうことのできる孤立した系を作る傾向をもつ。実はこの傾向によって私たちは物質を定義するわけであろう。しかし、それは傾向にすぎぬ。物質は極点まではゆかないし、孤立化もけっして完全には行われない。…真相はやはり、それらの作用はそれぞれ糸になってその系をもっと広い他の系につないでいる。。この系はさらに第3の系につながってそれが2系をそっくり包み、そうやってついには最客観的に孤立し一切からもっとも独立している系に、太陽系の全体にいたる。…この糸をつたって全宇宙に内在する持続は私たちの生きる地球の極致の部分まで伝わって来ている」31-2頁

「系」と「糸」が紛らわしい😅

「宇宙そのものにも相反するふたつの運動が区別されねばならない。ひとつは『下り』、もうひとつは『上り』で。前者はすっかり書きおえた巻物をひろげるだけである。原理的にはこの運動はゼンマイのゆるむさいのように、ほとんど一瞬におわりうる。ところが後者の『上り』の方は成熟あるいは創造の内的作業に対応するもので、本質的に持続する、そしてそれと切りはなせぬ間柄の『下り』の上に自分のリズムをおしつける」32-3頁

「生物は自然みずからが孤立させ閉じたものである。生物は異質な諸部分がたがいに補いあって組み立っている、それはたがいに入れ子になったさまざまの機能をいとなむ。それは<個体>なのであり、他のものはどれをとってみても、結晶でさえも個体とまではいわれない。…生命の諸特性はけっして完全には実現されぬもので、つねに実現の途上にある。それは<状態>よりは<傾向>なのだ。…そこでは相反する諸傾向がつねにもつれあっている。なかんずく個体性の場合には、個体化の傾向が有機的世界の随処にあらわれているとすれば、生殖の傾向も随処でそれと闘っている、といってよい。個体性が完全であるためには、どんな部分もその有機体からはなれたら独立には生きてゆかれないようでなければなるまい。しかしそうなれば、生殖はできなくなるであろう。実さい生殖とはほかでもなく、新しい有機体を旧いものからはなれて出た一片で再構成することにほかならぬのではないか。してみれば、個体性はおのが敵に宿を貸しているわけである。個体にとって切実な時間的に永続したい要求が、かえって個体を空間的にはけっして完成されぬ羽目におちいらせている。この2傾向をそれぞれのばあいについて考慮することも生物学者の仕事なのである」34-5頁

「無機の物体は私たちが活動するために必要であり、私たちの思考様式の原型ともなったものでもあるが、それはつぎのような単一な法則に支配されている。『現在は何ものも過去以上には含まず、また結果に見出されるものはすでに原因のなかにあったものだ。』しかし有機体はごく皮相な観察からもそういえるように不断の成長と変形とがその区別の標徴であったとするならば、有機体がはじめは<1箇>でのちに<複数>になっても驚くにあたるまい。…個体性はけっして完全ではなく、どれが個体でありどれがないかを述べることはしばしば困難であり、ときには不可能でもある。それでもやはり生命は個体性の追求を歴然とあらわしており、そこには自然的に孤立し自然的に閉じた系を構成しようとする努力がある」36-7頁

「生きた有機体は持続する。その全過程はそっくりのびて現在のなかに入りこみ、そこに現にあってはたらきつづける。…生物学には、どんな生物にもそのまま自動的にあてはまるような普遍的法則はない。あるのは、生命がそれぞれの種一般を投げる<諸方向>ばかりである。…<およそ何かが生きているところには、自分の名を書きこむための帳簿がひとつどこかをあけて置いてある>」37-8頁

こういうフレーズは、ポエムとしては美しいんでしょうけどね😅

「有機的<創造>というもの、生命をもともと生命たらしめているゆえんの進化現象というものは、どうしたらそれが数学的処理にひきこめるかを私たちは垣間みることすらできない。…生体の現瞬間の存在原因は直前の瞬間のなかには見いだされない。直前の瞬間にさらにその有機体の全過程を、遺伝を、要するにその悠久な歴史の総体をつけ加えねばならない」42-3頁

「進化である以上、そこでは過去がありのままに現在に引きつがれ、持続という<連結符>がこめられていなければならぬ。別言するならば、生物ないしは<自然的>な系の認識は持続の区間そのものにかかわるのに、<人工的>ないし数学的な系の認識はその末端のみにかかわるものなのである。
 このように見てくると、変化の連続性、過去が現在に保存されること、本物の持続、生きものはどうもそうした属性を意識と共有するらしい」45頁

「私は、進化論の独断的主張が科学にたいして力をもつように、進化論の用語はいまや哲学全体にたいして力をもつものと買っているわけである。
 しかしそうなると、生命を<生命一般>として何か抽象物のように、あるいはあらゆる生物をその下に書きこむための単なる見出しのように語ることはもはや許されないだろう。むしろ、さる瞬間に、空間内のしかじかの点で、はっきりそれとわかるひとつの流れが源を発した。そしてこの生命の流れが、物体をつぎつぎに有機組織化しつつそれを通りぬけ、世代から世代へとうつり力を少しでも失うどころかすすむにつれてかえって強まりながら、種に分れ個体に散らばってきた、とでもいおうか」49頁

「<生命とは胚子からおとなの有機体を介してまた胚子へとすすむひとつの流れのように見える>。有機体そのものは旧い胚子が新しい胚子となって生きつづけようと努力しながら突起させる瘤か芽にすぎぬかのような、一切の経過のしかたなのである。本質的なのは、はてしなくとげられる連続的な進歩である。この見えぬ進歩の背におのおの馬乗りになって、見える有機体はゆるされたしばしの時を生きる」50頁

ドーキンズの「遺伝子の川」的な響き

「有機体の進化は意識の進化に近いものである。意識では過去は現在におし迫り、在来のものの尺度では測れない新しい形態をそこから湧きださせる。…生命についてもまた意識のばあいと同様に、それは刻々に何ものかを創造しているということができよう」50-1頁

「生物とよばれる自然な系はなまの物質のなかに科学が切りとる人工的な系になぞらえてよいものか、それとも宇宙の全体が作るあの自然的な系にくらべる方がむしろよいのではないか…生命が一種の機械仕掛であることは私もその通りだとおもう。けれども、それは宇宙のなかで人工的に孤立させうる部分のもつ機械性なのか、それとも全事象界のか。…有機的創造の過程を分析して発見される物理化学的現象の数はいよいよ増すにちがいない。ここにこそ化学者や物理学者の本領もあるわけであろう。しかしそれだからといって、化学や物理学が生命の鍵をいつかは私たちに授けてくれることにはならない」54頁

「『生命』はどの点をとってみても物理や化学の力に切して[ママ]いる。しかしそれらの点は結局は精神からみた眺めにすぎず、そのさい精神は曲線の描き手である運動をこの瞬間あの瞬間に想像の上でとめて見ているのである。真相は、曲線が直線の合成ではないのと同じことで、生命は物理化学的な要素からできてはいない」55頁

「図形の生成に運動をもちこんだ頃に近世数学が起こったということはやはり正しい。私の信ずるところをいうと、数学がその対象にせまる近さまで生物学もいつかは自分の対象にせまりえたならば、近世の数学と古代幾何のあいだに見られる関係が、そのまま生物学と有機体の物理化学とのあいだになりたつことであろう。…そのような科学は<変形の力学>というものであろう。…固有な生命活動に含まれる物理化学的要素を積分しても、生命活動はおそらく部分的にきまるだけで、一部は不定なままに残るであろう」55-6頁

「科学がいままでに構成したのは生命活動の老廃物にとどまっている。本来の意味で活動的・可塑的な物体は依然として合成を受けつけない。現代もっとも著名な一博物学者はかねてから主張して、生きた組織内で確認される現象は対立するふたつの筋合にわかれ、ひとつは<上向発生>で他は<下向発生>であるという。上向発生のエネルギの役割は、無機物質を同化して下等なエネルギを自分に固有の水準まで高めることにある。それは組織を形成する。これに反し、生命機能のいとなみそのものは(ただし同化、成長、生殖はのぞくとして)下向発生の筋合にぞくし、エネルギは下降してもはや上昇しない。物理化学に手が出せるとすれば、それはもっぱら下向発生の側の現象であり、すなわち要するに死物であって、生きものではない。…組織学的現象の研究が深まるにつれて、一切を物理学や化学で説明する傾向が鼓舞されるどころかかえって失望させられるばあいの如何にも多いという実状…組織学者E. B. ウィルソンは細胞の発達にささげられたお世辞でなくすばらしい書物のなかでそうした結論を出している。『細胞の研究は生命の形態、それも最下等なものを無機の世界から大きくへだてる溝を狭めるよりはむしろ拡げたようにみえる』」58-9頁

「生物の機能活動だけに没頭するひとは、生物学的過程をとく鍵は物理学や化学から与えられると信ずるようになりがちである。事実このひとびとは生物の体内で、ちょうどレトルト内でのように絶えず<くりかえす>現象を好んであつかう。生理学の機械論的な傾向はここからいくらかは説明がつく。これに反し、生きた組織の微妙な構造に、その発生や進化に注意を集中するひとにとっては、すなわちかたや組織学者と胎生学者にとりかたや博物学者にとっては、もはやレトルトの内容ばかりでなくレトルトそのものが相手である。そこではこのレトルトは<独自な>一連の行動が作りあげる本物の歴史をたどりながら、自己固有の形態を創造することがわかる。組織学者、胎生学者、あるいは博物学者といったひとびとは、生きた行動の物理化学的性格を生理学者のように気がるに信ずる気持にはなかなかなれない」60頁

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