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「《種の起原》は進化最大の問題ではなく問題の一つにすぎぬのであるが、ダーウィンの主著の標題ではこの点がいささかぼやけてしまっている。進化についてはざっと4つの主要な問題があげられる。第1に、品種とか種とか属とかいう、ある定まった体制設計、また構造設計の内部における多様性の起源。第2に、この構造設計自体、すなわち高次な体制単位の起源。第3に、一定環境に対する生態学的適応の起源。第4に、生体内部における全体としての形態学・生理学的な協同作業の起源であるが、これらの問の間にきっぱりと境界線を引くわけにはゆかない。問題の1と2は生物形態の多様性に、3と4はともに生物の《合目的性》の起源に関係している。…近代淘汰説が問題1と3や、したがってまた小進化を説明することはほとんど議論の余地がない。今日ではもう一組の問題、2と4、つまり大進化がむしろ議論されている」90-1頁

「突然変異・淘汰・隔離という機構は実験的に確かめられている。けれども倍数性による2、3のばあいを別にすれば、私たちの経験するかぎり《大進化》はさておき、<新種>ができた例はまずない。つまり淘汰説は一つの外挿法なのであるが、基礎概念が印象的なので、このような大胆なやり方も行われるのである。…私たちは実験遺伝学をいまから50年とさかのぼらぬ間、しかも数ダースの対象についてやってきたにすぎず、それらの対象の突然変異は、種の境界を踏みこえはしなかったのだから、《アメーバから人間までの》進化のいく十億年にも同じことしか起きなかったとの結論は、あまりに大胆すぎる。そこでこの種類の議論をするにあたっては、経験事実による判断だけではなく、思考上の可能性がやはり問題となる」91-2頁→

(承前)「生体には、なんの役にも立っていないようにみえる形質が無数にある。かなりの範囲で、分類学者が決定的だと考えるような形質は、実は機能的にはどうでもよければこそ、恒常的な特徴を保っているのだ。…分類学の骨組みをなすこれら形態学上の特殊性は、すべてそれ自体では別に有用というわけでもないが、さまざまな生命の状態に適応しうる《型》をたしかに示しているようである。…《自然の芸術品》で、その幻想的で多様な形態には、はっきりした有用さはなにもない。淘汰論者は、こういう点にもすこしも困難はないと考える。淘汰の圧力が小さい、均一な媒質中のばあい、無意義な構造でも、そのままつづいてゆくことができる。そうしたものはシーウォル・ライトの原理[浮動]にしたがって、小個体間に分割された種の中で機会的に生ずることもある。またそれ自身は無益な性質であっても、淘汰に属する性質——おそらくは単に生活力の違いかもしれないが——とむすびつくことによって、続いてきた場合もあったろう」92-3頁→

(承前)「次の基本命題は、生物界に広くゆきわたっているようにみえる。すなわち、《複雑でもよいのなら、ではなぜ単純なのか?》および《ああでもいいのに、こうもなる》といった類の現象が多い。ずっと簡単にしかも危険を冒しもせずに、ゆきつくことのできる目的に対して、驚くほどな回り道がしばしばとられている。…同じ生存競争をもちこたえるためにも——と淘汰論者は答える——いろんな手段があり、これらの形態が生き残っているのは、それが有用ななによりの証拠ではないか。
…ルトヴィッヒは…有害な性質に対して淘汰主義は14ないし20ばかりも説明を与えうると主張した。…14ないし20という説明には、次のようなものがある。一、今日では無意味か有害な形質も以前は役に立つことかできたのだろう。一、無意味な形質はたぶん多表現ということによって、淘汰価値あるものと結びついていたのであろう…一、無用な形質は性的淘汰によってはぐくまれる。一、種間的には安全に生存している種に、種内的淘汰がおきた結果として、ついに種自身にとってさえ危険な無用有害の発達がもたらされた、等々である」93-5頁

「小進化と大進化、つまりある《型》の内部における形態の多様さの起源とこの型自体の起源が原理的に同じ性質だということも、上述の論争と同じ強情さで拒否されたり弁護されたりしている。…大進化論者のいう《型》の起源は、小さな変化がしだいに積み重なってきたことによって生じたのではない。発生初期の段階に、広範な《作り変え》を左右する《大突然変異》がおきた結果だ。このことは、進化に2つの相が認められるという古生物学上の見解によって支持される。まず、新しい型が突然にできて、でると[ママ]すぐ爆発的に主要な形態の多様性へと分散する。次に、既製の形態の枠内でゆっくりと前進的に種が形成され、いろんな生命領域への適応がおきる。この問題にも淘汰論者は答があって、《型》とよばるべきものは一義的に確定できないから、《大進化》と《小進化》の境界線は引けないという。…いろんな《型》の中間段階が稀であったり、ほとんど欠けていることも簡単に説明できる。新しい型は先祖へと根を張ることが浅いので、それに応じて保存される化石もごくわずかなのだ。…かくして、小進化と大進化の間に原理的な差別があるとか、遺伝資質の変化の法則は過去ではいまとちがっていた、という仮定にはなんら科学的根拠はないのだという」96頁→

(承前)「進化的発達は《有用性》によっては理解できないとしばしば説かれる。高次の体制が淘汰価値を示すなら、高等生物は下等のものを駆逐してしまったはずだ。しかし任意の自然の断面ではすべて、単細胞から脊椎動物におよぶすべての生物のいろんな体制段階のものが、どれもみな生きながらえている。いや生きているどころか、生物共同体の成立にとって必要でさえある。…
…外挿や、《有用性》のゆえに進化的変化ができてきたという主張に対しては、実証したり論駁したりする可能性がない。ある形態が生きのびてさらに発展したならば、その時は変化は有用だったか、有用なものに結びついていたか、害にはならなかったか、そのいずれかに違いない。でなかったらその形態は死に絶えたはずだ。それにしても、いつでも<事後の予見>〔場合によれば牽強付会〕(vaticinatio post eventum)であって、チベットの折り臼とおなじく進化論も、あくことを知らずくり返し念仏を唱えている——《万事有用》と。だが実際なにがおこったか、本当はどの道が採られたのか、進化論はそれについてはなにも言わない。進化は《偶然》の産物で、《法則》にしたがうものではないからだ。けれども、それではたしていいだろうか?」97-8頁

グールドを先取りしたようなことを言ってる

「進化は外部要因によってだけ方向をきめられるところの無法則的現象だろうか。つまり偶然な突然変異と偶然な外作用とが、さまざまな生命条件や条件から生ずる生存競争とかの形において生みだした偶然の産物なのであり、これに、やはり偶然な隔離と、それに続く種形成の影響がつけ加わるだけのことだろうか。あるいは進化とは生物自身の内にある合目的性によって決定されたり、助けられたりするのだろうか。…
 数学的解析の示すとおり、淘汰の圧力は突然変異の圧力よりもはるかに強く、優勢なものである。…
 いま述べたことと、突然変異の《無方向性》とから、淘汰主義は次の結論をひきだした。進化現象の方向は外部要因によってだけ、きめられると。しかしこの結論は前提からでてきたのではない。淘汰が一般に進化の<必要>条件を示すとしても、だからそれが<十分>条件をも与えるということにはならない。
…この説は淘汰圧がない例外の場合は別にすれば、あらゆる進化過程においては、関与する生物体に対する《利益》が増大するという限定条件を定めている。だが個々の場合になにかがおこるかどうか、またなにがおこるかは、淘汰原理からは訊きだせない。…淘汰原理ですべてがいいあらわせるという生物学上の主張は、いまでは時代遅れの《エネルギー主義》とでも比ぶべきもの」99-100頁

「進化説は莫大な事実を材料にして、動植物の世界が地質学的時間の経過につれて単純で原始的なものから複雑で高度に体制化したものへ発展してきたことを立証した。…けれども、実際は現存生物や化石生物の世界の内に継続する移行過程は見いだせず、見いだされるのは別個にはっきり区別できる<種>だけである。<種>の内部に多少豊富な突然変異や品種があるにしても、連続的な移行過程がもしあるとすれば出会うはずの、種から種への中間段階がみつからないという事実に変わりはない。生きた生物の世界も化石のそれも、一つの連続体ではなく不連続体である。
 たぶん個々の遺伝子だけでなく核型にも安定条件があてはまることが、種の不連続の理由なのだろう。…《種》とは、その中に安定した《遺伝子平衡》ができている状態であると。つまり種の中では、発生が調和して発展できるように、遺伝子が相互につりあっている。…ある種から他種へと移りかけている形態は、はなはだ不安定であって、とくに淘汰の攻撃にさらされやすい。それだからこそ、淘汰は速くすぎ去ってしまわぬわけにはゆかないのである[😅]。つまり一つの形態がもしも中間期間に死にたえないでいれば、やがて新しい遺伝子平衡に達し、形態はふたたび長い間安定していられるのだが、それまでは静止的になることは少ないのである」102

「小さな突然変異や淘汰によって連続的な作りかえをおこすには、地質学的時間で足りることを証拠だてるのがそれまで常套の方法だったが、このやり方は当をえていないとシンデヴォルフが強調しているのは、おそらく正しい。人は進化の出発点と終点だけに目をむけて、その中間の時間を、等分された小さな変形で埋めてしまう。しかしほんとうは、形態はにわかに多様性を現わす。種の系列のなかでは、ある種が現われてから、次の種を世にだすために、たえず作りかえをやっているのではない。何十万年かの間そのままでいて、それから、急に次の種を世に送る。型の内部では、すでにはじめから大きな綱は存在している。…こういう現象こそが、シンデヴォルフの先発生説(プロテロゲネシス)を根拠づけるものの一つだった。この説では個体発生初期の飛躍的な造りかえが、そのまま新しい型の起源になるというのである。…動植物界の基本型がかなり少ないことを考えると、進化の大きな一またぎに相応するのは比較的稀に現われる遺伝変異であることがわかる」103-4頁

断続平衡説ですなあ😅

「ある状態から他の新状態へ移行する時にも、種や型が維持されてゆくばあいにも、安定条件がどんなものかという問題とともに、いわゆる進化の《静力学》を考えてみる必要が生ずる。…静力学に対立するのが《進化の動力学》、すなわち進化的な変遷によって支配される法則性の問題である」104頁

「生物体が進化の中で経過する変化がまったく任意で偶然だなどということはあるまい。変化はむしろいちじるしくかぎられている——第1に遺伝子での変異の可能性により、第2には発生において、つまり遺伝子システムが実際に作用を営んでゆくさいの変異の可能性により、第3には体制の一般的法則性によって。
 この結果、進化はしばしば一種の《直進現象》の印象、すなわち一定方向への前進という印象を与えるようになる。…方向づけられた変化が淘汰にさからって進化の経過を定めるという意味での直進現象は稀であるか、または一般にそんな現象は存在しない。しかし進化が、生活状態とかそれに原因する生存競争とかいう外部的偶然事だけではなく、内部要因によっても定められるという意味ならば直進はありうる。《進化の袋小路》つまり好ましくない方向への進化系列は淘汰が弛んだ時、すなわちある形態群が揺がぬ支配権をかちえたときに、おこっているもののようにみえる。…そうした時期の条件は、飼育下の条件に似たところがあって、人間に護られている種はしばしば奇怪な多種多様の形態を示す」109-10頁

「私たちは近代淘汰説を充分に評価するものではあるが、本質的にちがう進化の形像に到達してしまう。進化とは、地球の歴史の中での環境の移り変わり、そこから生じた生存競争、またその結果、突然変異の混沌とした素材をふるい分けて淘汰が行われたというような、歴史に伴う偶然事だけできまるものではない。もちろんまた、完成への衝動とか合目的性と適応への傾向とかいう神秘な要因のしわざによるのでもない。進化とはまさに本質的には生物の諸法則の共同作業によって決定される」111頁

「生物の《合目的性》を偶然によって説明した最初のダーウィン主義者はよく知られているように、前ソクラテス時代のエムペドクレスだった。…ダーウィン説は国民経済の観点を有機体生命の上に適用したものであることも、同様に有名である。生きものは彼らの食料の分量が増すよりも急速に殖えつづけるというマルサスの報告が、ダーウィンの重要な出発点であった。あらゆる現象を《利害》と《競争》の概念でかたづけようとするのは、マンチェスター学派の国民経済学に一致する。…
 生物学のどの分野にもあるあの2つの案が進化論にも通用する。一方では機械論がある。これによると生命も、それ自体としては無意味な無機的現象であるが、真に科学的な理論の唯一の基礎のように思えるからである。他方、この見方に対する反動[生気論]があったが、この唯一の代案は、みうけたところ自然科学には統制できない要因や、神秘主義への道を開くにすぎない。ここでもまた、総合は有機体論の法則である」112-3頁

「[社会と同様に]生命の進化もまた、利益で方向づけられた偶然の産物以上のものと思われるのだ。それは<創造的進化>(evolution créatrice)という打ちでの小槌、緊張と動力学との悲劇的な錯綜にみちたドラマともみえる。生命は苦心惨憺し、たえずもっと高い段階によじ登ろうとする——一歩一歩にそれだけの支払いをしながらも。…
 だがしかし科学の立場から見ればそのばあいには生命の歴史は偶然の堆積ではなく、偉大な諸法則にしたがうことがわかる。擬人的に適応・合目的性ないしは高まりゆく完全化を目ざす指導要因ではなく、今日ようやく知られ始めこれから先にもさらに知られる望みのある諸原理が、生命を支配するのである。自然は創造する芸術家だ。しかし芸術とは偶然でも恣意でもなく、偉大な法則をとり行うことなのだ」115-6頁

「生命の歴史的性格
 有機体は体制・過程の動的な流れ、歴史の3つの要素で特性づけられる。《生命》は電気・重力・熱その他と違って任意の自然物に現われたり、分かち与えられるわけにゆかない。むしろ生命は、独自の体制をもったシステムとむすびついている。このシステムの中では、過程の連続した流れとパターンも、同様に独自である。最後に生命という存在はすべて、同じ生命に起源をもつ生命の個々の存在(生物個体)の経歴のみならず、個体が由来してきた世代の歴史の特徴をもになっている。…生物体をその根本特徴にしたがって《定常状態にあるシステムの階層構造》として定義しようと思う。…
…経歴は物理的過程の中では、いわば消えうせる。これに対して生物は歴史的存在と考えられる。…生物の行為のなかにも同様に歴史的な要素がはいりこんでいる。動物や人間の反応は、その生物がそれより以前にうけた刺激や以前に行なった諸反応と関係がある。これがヘリングに《有機物質一般の機能としての記憶》を仮定させたり、ゼモン、ブロイラー、リニャーノたちによる記憶的生命理論をして、個体の記憶と進化とは対比できるものだといわせたりしたのである」116-7頁

「生命のまさに根底に横たわる歴史的特殊性は…数式には含まれていない。歴史的特殊性とはつまり、系統発生の途上で原基が集積し、これが個体発生のさいに、ヘッケルの生物発生の基本法則にしたがって、展開してくることである。ヘッケル説は細部では改訂されるべきだが、原理としては正しいのである。…原基が系統発生的に集積し、個体発生的にこれが展開されるというこの二重過程は一枚のレコードと比べていいのかもしれない。このレコードは、その時々の旋律の跡をとりいれ——つまり《吹きこん》で——これをまた音に再生するのである。しかしレコード盤である《ゲノム》の本体について、遺伝学はなにも言明していない」118頁→

(承前)「遺伝学と実験的な進化研究は、もっぱらすでに存在する遺伝子の突然変異的変化に没頭してきた。だが明らかに進化は現存遺伝子の変化にとどまらず遺伝子の新生を含んでいる。そうでなければ、私たちはふたたび不合理な前成説におちいるのであって、原アメーバにすでに人間と同様な遺伝子構成があったと仮定することになる。遺伝子の新生に関しては生物学は無知も同然で…ここから広範な結論を引きだすことはまず望めない。…進化の基礎についての統一的概念によるなら、系統発生上の変化を新遺伝子の導入としてではなく、むしろ全核型が新しい状態に移行することと解釈できるかもしれない。ちょうど心理学的な記憶を、特定神経繊維の中に個別的な痕跡が残ることとしてではなく《脳領域》全体の変化として理解することと似ている」118-9頁→

(承前)「これと関連して、さらに一つ問題なのは、《巨視的》物理現象の方向は、第2法則にしたがって秩序の解消へとむかっているが…これに対して生物では、《アメーバから人間まで》の発展の中で、秩序の高まる方向がむしろ現われているように思えることで…ヴォルテレックはこれを《アナモルフォーぜ》と名づけた。…生物学領域では、淘汰の理論によれば、偶然が分化と複雑化を高める方向に働いている。
…もし生物にも組織化の力、高い次元の《結晶化力》があるならば、生物のアナモルフォーぜはエントロピー原理と調和する。…おそらく生物学上のアナモルフォーぜも、結局は量子物理学の観点から見るべきものだろう。現に突然変異に対しては、これがおそらく正しいだろう。…近年ようやく発見された要素で、根本的意味をもつものがある。閉鎖系と違って開放系では、エントロピーの減少・高度な異質化と複雑化とがおこりうるのだ」119-20頁→

(承前)「生物体は、部分構造・部分過程の交換関係を示す空間的全体物である。空間的システム全体(単なる因果の連鎖ではなく)が現象を規定するのであって、これと同じく、現象はまた時間関係の総体によって(単に目下の条件だけによるのではなく)きめられる。生命の空間的全体性と履歴性は結局、同一の空間=時間的全体の別の側面なのだろう。…空間的にも時間的にも、生きたシステムの中のことがらは一因的(生物体は現在条件により決定される因果関係の集積であるという意味で)にきまるとは思えない。むしろそれを決定するのは全空間=時間的なパターンである。…かりに私たちが生命現象を一つの式で片づけるならば、その式は空間的全体性と時間的全体性を同時に表明しているような微積分方程式となろう。理論物理学と一般システム理論…を関連づけて扱わねばならぬ深い問題がここにある」120-1頁

「中枢神経系の中の過程と生物の行動とは、生物学的にも臨床的にもひとしく重要な領域である。この分野においては、新しい発展がおきて有機体論の立場の興隆が、とくにはっきりと示されている」121頁

「等質的環境(外部の刺激のないこと)のもとでも、多くの生物の正常な状態は静止ではなくて急速な運動である。この活性は本能行動の中にもみられる。それは、一定の生理的状態においては外からの刺激がなくても一定の運動を行おうとする《衝動》として現われる。
…生物体がはじめから能動的システムであれば、私たちは次のように結論せねばなるまい——刺激(外的条件の変化)は現象を、自身としては静止的なシステムの中でひきおこすのではない。ただ現象を、もともと能動的なシステムの中で修飾変更するにとどまると。この命題から導かれる重大な帰結は、結局生物体の反応には外部の働きかけ、つまり刺激よりもむしろ内部状態、正規状態からの離れかた、心理学でいうところの《要求(欠乏感)》が決定的だということである。実際そのとおりなので、生物はまず刺激によってではなく要求によって、食物・異性等を探し求めるようになる。この《衝動運動》は、ふたたび正常状態が回復するまでずっとつづく。…ブリューゲル(1877)は古典的な命題をだした——《要求の理由は、要求充足の理由である》と。彼はこの言葉によって、生物に特有な霊魂的な目的追求の性質を表現しようとしたのだったが、この命題の中に生気論的なものや霊魂めいたもののことが言われているということにはならない126-7

「刺激現象と行動の領域では…有機体論の観点が必要であることがとりわけはっきりした。過程がシステム全体に依存することは、分析=加算的な見地に相反する。最初には動的秩序があって機械化がしだいにおこることは、静的構造的=機械理論的な立場と対立する。生命現象において能動性が根本であることは、反応性が第一義的だという観点と矛盾する。
…フォン・ホルストによると、反射は行動の根本をなす基本要素ではなく、根本である自律性を変化する末梢の条件に合わせるための適応なのだ」128-9頁

「生命の流れ
 《同じ流れに二度とはもどれぬ。水は流れて常に新しいからである》。同時代人が晦冥の人と呼んだヘラクレイトスのこの章句は、古代のほの明るい暁の空から響き出る。ギリシア人にとって、ヘラクレイトスが異端の者と思われたのも無理からぬことであった。ギリシアの世界は動かぬ静謐とよぶアポロ的理念の中に息づいていたのである。…だがヘラクレイトスは永続する力のディオニソス的思考者であり、力学を実在の核心と考えた。かくして彼を彼の同時代人から疎外させたところのものが、彼をかえって私たちには近づける。…ギリシア人にとって、原子とは石工の眼をもって見ることのできる、しっかりした小粒子だった。ところが西方の地の物理学は、原子を力の演出、波動力学の結節点へと溶かしこんでしまった。
 たえず代りあって休みない流れを、ヘラクレイトスはこの世になぞらえた。だが汝をとりまく世界だけでなく——と、ヘラクレイトスもこう言いたかっただろうが——汝それ自身とて瞬時たりとも同じではない。このヘラクレイトス的思考によって、私たちは生命の核心に近づく」130-1頁→

(承前)「無生のものと生きた自然物の姿を比べると、本質的な違いが発見される。結晶はいつでも同じ構成部分からできていて、おそらくは百万年をも、結晶はそのままとどこおって動かない。ところが生きものの形態は見かけが止っているだけだ。実は生物は絶えることない現象の流れを示している。生物体は定常的に物質交代しているため、その構成部分は一瞬の間もそのままではない。生物の形態は<ある>(sein)というよりもむしろ<なる>(werden)のだ。生物の形態は、生物体にはいりこみこれを作りあげる物質とエネルギーの、ひき続く流れを現わしている。…
 この恒常的な交代は、生物学的体制のあらゆる段階でみいだされる。…どの有機体も一定の見方から眺めると、不変であり定常的であるが、ある段階では不変とみえることも、すぐ下のシステムがたえず交代し、できあがり、生長し、年とり、死んでゆくことによって支えられている。…
 生物をこうして動的に把握することは、近代生物の最重要な原理に数えられ、この原理から生命の根本的な問題が生まれ、この問題を解明することができる」131-2頁→
福岡伸一的なだけでなく、小林武彦的でもあるなあ…😅

(承前)「<物理学的>な立脚点からは、この関係は次のように定義される。生きている生物体は外にむかって閉じられたシステムではなく、<開放系>なのであって、構成素材をたえず外部に与え、また外からうけとる。システムはこのようにたえず交代しつつも、ある<定常状態(すなわち流動平衡)>を保ち、またこの状態へ移行してゆく。
 物理科学はこれまで、もっぱら閉鎖系でおきる過程を扱っていて、反応動力学(分子反応論)、すなわち反応過程の学説に終始した。…生物は全体としては、けっして真の平衡にはない。わりに緩慢な物質交代の過程は、ある定常状態に達するが、定常状態は、流入と流出の状態がたえず一定の差をもつことによって保たれてゆく」132頁

「開放系理論と開放系中に現われる定常状態の理論が、閉鎖系の反応速度論や平衡に関して物理化学が提供してくれる理論を補わなくてはならない。…
 開放系の理論は<物理学のまったく新しい領域>を開拓した。《第2法則は定義により閉鎖系に対してだけあてはまるが、定常状態を定義するものではない》。…プリコジヌ…『<平衡状態と非平衡状態をともに包括する一般的な理論を設定するため、努力せねばならぬ>』…
…閉鎖系の現象はエントロピー増大によって規定されるが、開放系中の不可逆過程をエントロピーその他の熱力学ポテンシャルで特性づけることはできない。システムのむかう定常状態はむしろエントロピーの最小生産ということによって定義づけられる。ここから革命的な見解がでてくる。開放系が定常状態に移行するさいにはエントロピーが減少し、異質性と複雑さとかより高い状態に自発的に移ってゆけるというのである。生物の胚発生や進化…に見られる多様性の高まりを解釈するには、おそらく右[上]の要素が本質的な重要さをもっていよう」133-4頁

「開放系の説は物理学同様、生物学にも新しい一章を画する。長いこと、生物体は《動的平衡》にあるシステムだといわれてきた。これは、生物が構成部分をたえず交代させ続けていることを表現している。…
 生物システムは定常状態システムで、しかもこの系の反応成分数は莫大なもので、はなはだ複雑である。生物体が開放系だというこの特性こそ、生命現象の前提である。…
 体制の段階構造、開放系としての性質、この両者は生きたものの基本原理である」135頁

へーバー(1926)「生物体の中で私たちがまのあたりにみる化学システムは、長いこと、動いている平衡、力学的平衡とみなされてきた。今日では生物体の動的平衡の問題は、もはや根なし草ではない。大胆な高層建築の要石であり、冠りであると思われている」135-6頁

「生物体の定義
…生きている生物体とは、開放系の階層構造を示し、そのシステムの条件にもとづいて構成部分の交代を行うところのものである…
…結晶は、物理学的単位要素(素粒子)にはじまり、原子・分子・さらに結晶格子にいたる階層的体制を示す。だが、構成部分を交代しなから自身を保ってゆくということが、結晶には欠けている。反対に、定常的な水流・炎・定常電流など、生きていないものの定常状態は、交代しながら維持するという要請をたしかに満たしている。だがそこには階層構造が欠けている。…システム自身の中の条件にもとづいて、交代しながら維持されてゆくということは、なんら生気論的なことではない。無生物の中にもこの種のシステムはある」136-8頁

「刺激を与えることは状態を定常状態から<ずらす>ことを意味しており、生物は平衡状態にもどろうとする。…生物の定常状態はゆっくりと確立しては、ゆるやかに変化していくのである」139-40頁

「システムとしての生物体——精密生物学の基盤
…開放系の説は、将来の<生体エネルギー論>の基盤にならねばならぬ。…生物を作りあげている化合物のふくむ化学エネルギーも、もし化合物たちが化学平衡にあれば、転用できない。けれども生物体は定常状態にあるシステムであって、その中では真の平衡にむかってたえず反応が進みつつある。…
…生物体が定常状態にあるシステムとすると、真の平衡との間隔を保ってゆくために、たえずエネルギーを補給する必要が生ずる。したがって生物体は筋や腺・運動その他の多様な活動をするためばかりでなく、定常状態を維持するためにも、エネルギーが必要ということになる。細胞や生物体が行なっているこの<仕事維持>の問題は、生物エネルギー論にとって基本的問題である。開放系の理論は、この問題に必要な原理を与えてくれる…
 生物の代謝の基本問題はその<自己調節>である。生きている生物体では全反応が、結果としてシステムを維持するようにおこっている。これが、生きている生物体と崩れゆく屍体との根本的な区別だ。…自己調節の主要特徴は開放系の一般特性から生ずる結果なのである」140-1頁

「長いこと、生物学は2つの大分野に分かれてきた。一つは生物の形態・構造の理論である。…いま一つは代謝・行動・形態形成の中において生命の特性的過程を研究する生理学。この2分野への分裂は、技術的方法論にも思考上の方法論にも関係があり、必然的なものだった。だが形態学と生理学はそれ自体としては単一な対象を研究するための違った、そして補足しあう二道なのである。
 <構造>と<機能>、<形態学>と<生理学>を対置することは、生物を静止的に把握するところからくる。…しかし生きている生物に対して既製の構造と、この結果としておこる過程とを分離するのは間違っている。生物はたえずつづく過程の表現であり、この過程はその基礎をなす構造や組織化された形態によって支えられている。形態学が、形態ならびに構造として確認するものは、実は時空的な現象の流れの一横断面なのだ。
 構造とは、私たち人間の尺度で測って長期にわたる緩慢な過程の波である。機能とは、これに対して短く急激な過程の波である。…
 生物体の姿は秩序ある現象の流れの中で維持されている。このばあい、いつでもすぐ下のシステムが交代する中で、より高次のシステムは固定しているように見える」142-3頁

「生物体の構造は静止的ではありえず、むしろ動的だと判断されねばならない。…
 生物体の巨視的構造に対しても、原理的には同じことである。巨視的構造のうちで最後までのこるのは、静止している構造ではなく、定常的過程の法則のほうだ。
 生物体を現象の流れの現われとして見ることから生まれる結論は、まことに深いものがある。それは《動的形態学》(フォン・ベルタランフィ)に導く。動的形態学とは、定常的法則によって支配される力の働きから、生物の形態を導きだそうというもので、このゆきかたによれば、代謝・生長および形態形成の領域を連合させうる。
 生物の根本の謎の一つは生長であり、生長できるという能力の中にこそ、人は生命の中心的な秘密をみてきた。…開放系として生物体を扱うというやりかたを使えば、正確な<生物生長の理論>を発展できるし、この理論は、生物の生長という基本現象に、説明と法則性を与えてくれる」144-5頁

「ドリーシュが生気論の証明とみなしたあの実験にもう一度たち帰れば、彼のウニの実験の注目すべき結果は、等結果性(Äquifinalität)の概念で説明される。エクウス(aequus)は等しいこと、フィニス(finis)は結果である。等結果的な現象とは違った初期条件・道すじを通って同じ最終目標に到着することである。ある種の例外を別とすれば、物理現象には等結果性はみられない。…等結果性は、生きているものの中でおこる現象の重要な基本特徴をなす。…
 開放系の行動を解析すると…閉鎖系は等結果的にふるまえないことがわかる。なぜ等結果性が無機の世界一般にみいだせないかの理由はここにある。これに対し、周囲と物質交代をする開放系では、システムが定常状態に達しているかぎり、この状態は初期条件と無関係、つまり等結果的である。等結果性は、定常状態に向いている開放系においては、現象の必然的、合法則的な帰結である。開放系の中では、止まることのない流入と流出、構成と崩壊がおきている。…最終の状態は初めの条件によるのではなく、いまいった関係を支配するシステムの条件によるだけなのである」150-1頁

「目的指向性は生命のきわだった特徴で、その本質は生気論的にしか説明できないと思われていたが、これも生物の特有なシステム状態からでてきた必然的な結果だ…つまり、開放系としての特性が生んだ結果なのである。
…見かけ上物理的法則性に反するため《生気論の論拠》とされてきた要素も、開放系の理論の中では、あざやかにでてくることが、ことに注目すべき点である。ドリーシュの《生気論の第1の論拠》であった等結果性は、開放系の現象として当然の結果なのである。代謝の自己調整や、無数の反応の相互作用で細胞が維持されたえず更新されることは、エンテレキー因子の導きだとばかり思いこまされてきた…のであったが…原理的には開放系の原理から了解できる。…シュレディンガーのいうごとく、生物体は、無秩序の原理から統計的に生ずるところの熱力学的法則性できまるシステムではありえない。…けれどシュレディンガーは、生物が《仕組み》だとか《時計仕掛け》だとか考えるだけでは不十分だということを、じつはよく感づいて[ママ]いた…ので、《原子の運動を監督する》『私』というものを持出すほかなかったのである」152頁

「エントロピー命題によると、現象は秩序の度合が下がるほうへと向かってゆくのであるが、生きているものの中では、より高度の秩序へと移行が行なわれている。そこでヴォルテレックは《非空間的な内的生命》の《指導衝動》をもちだす。これに対して開放系は、まったく新しい観点を提唱する。この種のシステムではエントロピーも無秩序性もともに極大になる必要はおこらず、熱力学的平衡によって過程が停止する必要もまたない。自発的な秩序、さらに秩序の高まりさえ、現われてよいのである。もう一つの要素としては、遺伝子や染色体が分割しながらも《そっくりもとのまま》でいるという、同型複写が問題となる。ドリーシュはこれが《第2の生気論の論拠》だと考えた。だがこの現象も、定常状態にあるシステムとしての生体の特性からみれば、もっともなことにすぎない。しまいに、ドリーシュの《第3の生気論の論拠》は《行動》と《反応の歴史的な基礎》にもとづいている。これも、神経系の活動を動的に解釈する…ことと結びつくところの、記憶のシステム理論…をもってすれば説明できそうである」153-4頁

「《全体は部分の総和以上である》、全体は部分に対して《新しい》特性と関係とを示すとの命題。存在の高次の段階は低次のものへ《還元され》うるかという問。これが《全体性的(synholistisch)》理論すべての核心をなす」155頁

「高次段階の特性と作用は、<分離して得た>成分の特性と作用をいくら寄せ集めても、説明できない。だが別々の成分の<総体>を知り、<成分の間になりたつ関係>を知れば、高次段階はその成分から導きだせる。
…個々の部分の条件をきめ、全システムの境界条件を規定すれば、全システム中の分配が《部分から》導きだせるのである。
…システムを知るには《部分》同様、部分の間になりたつ《関係》をも知らねばならぬことや、どのシステムも一つの《全体》であり《ゲシュタルト》…を表わしていることは、わかりきっている。このようなことが生物学分野で問題にもなり、必要な議論の緒にもなるのは、生物学がいわゆる機械論の仮定を誤って適用し、一方的に《部分》ばかりを気にして《部分の間の関係》をなおざりにしたからなのである。…
 いわゆる力学的世界像が物理学と生物学で基礎概念としていたのは、一度つくった一組の法則から自然現象がのこらず導きだせる、ということであった。ラプラスの理念がこれであった。…
…実在論の意味では、つぎのようにいえるのではなかろうか。どのシステムも<潜在的には>より高次の力を潜めているが、システムがもっと高次の構成にはいりこむときまったとき、はじめてこれが作用をおこす」156-8頁

「生物学での《メカニズム》…メカニズムの意味のうちで、はっきりしているのは《非生気論》ということだけだ。つまり自然科学の研究が近づきがたい、擬人的な感情移入でしか説明できない要因を、排除することであるが、この意味てのメカニズムは自然科学と同義だから、自然科学的生物学はどれも《メカニズム的》である。しかし、もっと精密な定義ということになると、考えかたがまちまちである。…
 私たちは正確な理論的定量的生物学の闘士をもって自ら任じていればこそ、《精密》科学の中で《法則》だとされているものが、世界のほんの一かけらにすぎないことを力説したい。…
 この意味で、生物学はけっして物理学に《解消》しない。生物学が《自律的科学》として、物理学と相対する地歩を占めることはいうまでもあるまい。この確言は《生物学的メカニズム》の問題の外側にあることで、メカニズム的考え方〔自体の可否〕を判断することはまったく別である。メカニズムの問題を判断することは、私たちがそれを《法則》の形で言明しうるところの、生きたものの分野における一般的な秩序の特徴に関係するのである」159-62頁→

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「私たちの理論を演繹して得られる哲学的にだいじな結果としては…等結果性の問題が解決されたことや、形而上学的・生気論的と考えられていた目的指向性の概念に物理学的な基礎が与えられたことが数えられる。
 有機体論のもっとも広範囲な発展は、一般<システム理論>…を作りだした点であるが、精密で数学的な実体論(存在論)の基礎となり、またそれぞれ性格の異なった諸科学においても普遍的な概念は論理的に相同であるとする主張に、基礎を与えたものがこの理論だ」201頁

「心理学の発展はことに意義が深い。なぜならこの分野の中で、全体性がはじめて科学的な見方としてうち建てられたからだ」201頁

「生体中の過程が生体自身の必要にしたがって秩序づけられ、一つの全体となって流れるという事実の中に、生命現象のもっとも注目すべき特徴が現われている。個々の反応をすべて物理=化学的に知ってみても、この問題が解決したことにはならない。機械論者はこの秩序が機械様の構造によって保証されるのだ[ママ]信じたけれども、これでは調節現象を説明するわけにはいかない。生気論者は超自然力をもちだすが、ドリーシュのウニの例のように部分は全体にしたがうからといって、それはなにも生気論的なことではなく、むしろゲシュタルト一般の特性である。…機械論は、現象の秩序づけのもとを既製の仕組みの中に尋ね、生気論のほうは、説明にあたって超自然力をわずらわす。だがそのほかに、第3の可能性が残っている。つまり統一的なシステム間の内部で動的秩序が保たれているということだ。だから物理学も生物学も心理学もおしなべて、内在する動的性格から秩序をつくりだすようなシステムを問題にするのである」204-5頁

「動的哲学の始祖はヘラクレイトスである。今日、物理学や生物学の認識がもつ透徹した平明さのもとで私たちが追求している世界像を、最初に意味深く神秘めかして表現したのが彼だ。それが彼の《万物は流れる》であり、《対立物の統一》だ。…クザヌスは一方でドイツの神秘家たちの一大系列の最後の人であり、他方近代科学の道をひらいた。…太古のヘラクレイトスの主題は対立物の統一という教義の中にふたたびとりこまれ、新時代へとうけわたされた。…
 ゲーテは作家だっただけでなく、有数の自然学者であって、生物の形に関する学問である形態学の基礎をきずいた。…ゲーテの理念的形態の背後にはヘラクレイトス流の動力学がかくれている。ゲーテのいう<死滅と生成>、<交代の中の永続>という言葉のうちに、この動力学は表現されている」207-8頁

「哲学の発展は心理学や生物学の発展に先行した。たとえば、ニコライ・ハルトマンはすでに1912年にシステムの考えの必要性を説いた。因果関係について、各因果連鎖が単に並行して走っていると考えるのは適当でない。本質的なものは相互作用である。一個のシステムの中で、各力は均衡を保ちあい、したがって各力の共存状態は比較的不変で攪乱に対して抵抗するような総体構造をとるようになる。この場合、有限な各システムはさらに高次なシステムの項であり、また一方もっと小さな諸システムをその中にふくんでいる。この相互封入は受動的な閉じ込めではなく、一個の交互依存的な関係である。低次のシステムにおける一定の作用は、同時に<より>高次なシステムの統合作用の中で働きをもち、逆にまた高次なシステムの一定の作用はただちに<より>低次なシステムをもあわせ規定する。生物はシステムのうちでもいちばんこみいった秩序システムをもっている。生物には相互作用が不可欠であって、それによって部分過程を全体へと統合し、システムの協同作用法則を通じてこれを支配する」209頁

「機械仕掛けのない機械という不条理な観念に対して、ドリーシュは、単に形而上学的な技師を考えることでこれを置き換えるという、適切を欠く定式化をやった。このために世紀の変りめ頃に生体概念の最初の出現がどんな挫折をうけたか…
 ドイツのドリーシュとおなじように、イギリスの生理学者J. B. S. ホールデンも生命の機械論を拒否した。彼は協調的な自己維持の中に生命の本質をみいだし、この自己維持を物理=化学的概念によって記述することは原理的に不可能と考えた。ドイツの《ゲシュタルト》概念とおなじように、イギリスでも《有機体》の概念が無生物界にまでひろがった。…
 数学者ホワイトヘッドの《有機的機械論》は、分子の盲目的な動きという仮定をも生気論をも越えたのである。真の実在はすべて《有機体》であって、その中では下位のシステムの特質が全体の骨ぐみによって影響をうける。この原理はまったく普遍的であって、生きものに特別というわけではない。…科学は、純粋に物理学的でもなければ純粋に生物学的でもないような、新しい局面に触れあうようになる。すなわち、科学はいまや有機体の研究の段階に達する。生物学は大きい有機体(生物体)の段階であり、物理学は小さいほうの段階といえよう」211頁

「一般システム理論と私たちがよぶ<新しい科学分野>…これは論理=数学的な分野であって、その課題とするところは、システム一般にあてはまる原理を定式化し導きだすにある。《システム》は相互に作用しあう要素の複合体と定義できる。システムの構成要素がなんであれ、また要素間になりたつ関係あるいは力がどんな種類のものであれ、どのシステムにも同様にあてはまる一般原理がある。…いろいろな領域の法則性は形式的に一致する。すなわち《論理的相同性》を示す。
…一般的なシステムの特性から生ずるのは論理的相同性である。この理由によって、異なった現象領域においても形式上の一致がみられ、その結果いろいろな科学の間に平行的な発展がおこる。
…一般システム理論は、ライプニッツが夢みたあの普遍学(mathesis universalis)——広大でいろいろな科学を包括するところの意味論的システム——への一歩と考えることができる。…動的な把握における《システム》理論が、現代科学に対して果たす役割は、古代科学の中でアリストテレスの理論が演じたのとおなじである」213-5頁

「生きているということの本性を一言にして摑もうとするなら、古くゲーテの好んだ句がそれであろう。かの含蓄の深い詩の中には《変化のなかの永続》とうたわれている」218頁

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