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(承前)「第2の要素は有機体システムの歴史性によるものだ…この要素とは個体発生で順次あらわれてくる傾向が系統発生的に蓄積していくという問題だ。こうした意味の歴史的要素というものも、生きていないシステムでは珍しいものである。
 さて、第3の二者択一案から生ずる結論はつぎのようになる。胚発生を説明するには、無生物界に知られているゲシュタルト原理をただ適用してもだめである。むしろ…《生物に内在する特別なゲシュタルト原理》を予想せねばならない…この見方は生気論的なものではない。なぜならこの見地は、生命の世界に浸透している超越的な因子を考えるのではなく、逆にそんなものを排除しているからだ。この見方はむしろ有機体論的なものである。すなわち、生物システムに内在的である有機体制が特異的なものとみなされ、このゆえに生物体に独自の法則性があると主張するのだから」69頁

「ポテンシャルの概念は具体的な意味をもっていない点を、ここではっきりさせておかねばならない。この概念の底にあるのはアリストテレス流の静的二元論つまり形而上学だ。石塊の中にも<潜在的には>いろんな形像がひそんでいて、石工がそのうち一つを明るみにつれだすというのと同じ言いかたで、有機物質も《ポテンシャル》で充ち満ちているといえるだろう。まどろむ潜在力のうちには《ゆりおこされ》るものも《抑えられ》るものもある。だがこんな考え方を前提としてしまえば、天才職人にも擬すべきエンテレキーがこのゆりおこしをやったということ以上には、ほとんど一歩もでられない。…ポテンシャルという考えかたの性格は生物を本質的に活動のないものと見ている。この説は胚の基質の実体をも、単に死んだ物質とみなすものだから、当然物質を形どおりに仕上げる細工人として、外からのエンテレキーが入用になってくる」70頁→

(承前)「しかし実際の胚の発生は、やすみない動的現象である。各区域や細胞のいわゆる《ポテンシャル》は、次のように考えられる。反応速度調和の原理どおりに、どの区域や細胞の中でも、いろいろとちがった反応連鎖が並行してすすむ。いつでも欠けることのない主軸に沿った勾配は別とすれば、どの区域でも始めからはっきり優越性を獲ている反応連鎖などはない。…この状態ではシステムは、いま述べた軸方向の相違だけはあるにしても《等ポテンシャル》である。システムは等結果的仮平衡…といういちじるしい条件をもった状態にあるから、なにか攪乱が加えられてもすぐもとに戻る。…
 ある反応連鎖が決定的に優位を占めるようになると、もはや状況が変わってもこの連鎖を変えるわけにはゆかない。決定がおきたのである。各部分は一定の働きだけに縛られて、もう取消しはできない。…
 等ポテンシャルと早期の未決定状態、それにともなって分割・融合・移植を行なったときみられる調節力、漸進的な決定、多少とも特異的な刺激によって形成体が動きだすこと、自立的な部分発生系に分解すること——発生とおなじこれらの諸原理は再生作用にもあてはまる。…
…発生とは神秘めいた《潜在力》が醒めたり眠りこんだりすることではなくて、諸過程の動的な相互作用なのである。」71-3頁

「幸運にもメンデルが研究した形質の原基(遺伝子)は、[エンドウマメの7本の染色体のうちの]めいめい別々の染色体上に局在していた。同一染色体に乗っているために連れだって遺伝されるような形質を、彼が研究に用いていたら、メンデルは遺伝の過程がみつからず、したがっていまでは古典的となった遺伝法則の設定はできなかったろう」76頁

「完成した動物体はけっしてあれこれの形や色の眼・翅・剛毛がただ集まっただけのものではない。動物は一定の体制をもっている。その体制に対応するどんな排列[ママ]をも、遺伝子システムには見いだされない。したがって《遺伝子》ないし《遺伝原基》の概念にどんな意味があるのかということは、教科書では通常避けられていることであるけれども、根本的な疑問のたねになる。
 まったく、遺伝の分野でも有機体論の立場は欠くことのできぬものであって、遺伝学はこのところ有機体論の方向へと発展してきている。ここでもまた静的な解釈から動的な解釈へ移らねばならない。つまり、遺伝というのは遺伝原基と一定の形質とが機械的なやりかたで結びつているところの仕組みではなく、むしろ生理学的な現象であって、これに遺伝子が一定のやり方で干渉していると考える立場が必要なのである」😅 78-9頁

「形質の発現がさまざまな因子の影響を蒙るということも、遺伝現象の性格が動的である結果の一つの現われだ。…
…遺伝子として確認できるのは、ある色、ある形をした眼・翅・剛毛などの一定の形質や器官を自分の力だけでつくりだすような単位だの原基だのではなく、むしろ全体としては対応しあうゲノムの間での差異の表現である。染色体の一定の座にある巨大分子すなわち遺伝子の性質に応じて、度合はいろいろであるにもせよ、ゲノム<全体>が生物体<全体>をうみだすのである。…ゲノムは、めいめい別々に働く独立的原基の集合体とかはめこみ細工とかいうものではない。ゲノムは全体として完全な生物体をつくりだす一個体のシステムであり、このシステムの一定部分——いわゆる遺伝子たち——の性質が変わるにつれ、生物体のつくりも変わるということなのだろう」79-81頁

「すくなくともかなりな数の遺伝子の作用は《速度遺伝子》の影響をうけるが、速度遺伝子とは、一定反応連鎖の速度に影響する因子である[何だこれ😅]。…ある遺伝子が突然変異すると、その遺伝子に制御されていた反応の速度が変わり、またそれにつれて発生しつつある生物体に多少とも深刻な変化がおきる。これは《反応速度調和の原理》(ゴルトシュミット)…
 生長速度の相違が一定遺伝子の量的な相違に原因していて、この遺伝子の分量に比例するということは、しばしば証明されたり確実らしく思われたりしている。…
 遺伝子を調和した諸反応速度のシステムであると考えることは、系統発生的にも深い意義がある」81-4頁

「遺伝子とは何か?…遺伝子が線形に排列[ママ]されたものとしての染色体は《無周期性結晶》…と呼んでよい。…
…遺伝子とは大局では一致している核型のなかの小さな違いを表現したものである。遺伝子はけっして個々の器官形成のための原基ではない。…
…ゴルトシュミットによると、近年の遺伝学研究は、次のような急進的な問さえ必要になるほどの点にむかって発展している。その問とはすなわち、遺伝子を別々に存在する遺伝単位として考える立場が、まだ許されてもいいものかどうかというのである。…《遺伝子》の概念を借りて遺伝学の事実を記述はできる。しかし生長を制御するほんとうの遺伝単位は、染色体と生殖質なのである」85-8頁

「《種の起原》は進化最大の問題ではなく問題の一つにすぎぬのであるが、ダーウィンの主著の標題ではこの点がいささかぼやけてしまっている。進化についてはざっと4つの主要な問題があげられる。第1に、品種とか種とか属とかいう、ある定まった体制設計、また構造設計の内部における多様性の起源。第2に、この構造設計自体、すなわち高次な体制単位の起源。第3に、一定環境に対する生態学的適応の起源。第4に、生体内部における全体としての形態学・生理学的な協同作業の起源であるが、これらの問の間にきっぱりと境界線を引くわけにはゆかない。問題の1と2は生物形態の多様性に、3と4はともに生物の《合目的性》の起源に関係している。…近代淘汰説が問題1と3や、したがってまた小進化を説明することはほとんど議論の余地がない。今日ではもう一組の問題、2と4、つまり大進化がむしろ議論されている」90-1頁

「突然変異・淘汰・隔離という機構は実験的に確かめられている。けれども倍数性による2、3のばあいを別にすれば、私たちの経験するかぎり《大進化》はさておき、<新種>ができた例はまずない。つまり淘汰説は一つの外挿法なのであるが、基礎概念が印象的なので、このような大胆なやり方も行われるのである。…私たちは実験遺伝学をいまから50年とさかのぼらぬ間、しかも数ダースの対象についてやってきたにすぎず、それらの対象の突然変異は、種の境界を踏みこえはしなかったのだから、《アメーバから人間までの》進化のいく十億年にも同じことしか起きなかったとの結論は、あまりに大胆すぎる。そこでこの種類の議論をするにあたっては、経験事実による判断だけではなく、思考上の可能性がやはり問題となる」91-2頁→

(承前)「生体には、なんの役にも立っていないようにみえる形質が無数にある。かなりの範囲で、分類学者が決定的だと考えるような形質は、実は機能的にはどうでもよければこそ、恒常的な特徴を保っているのだ。…分類学の骨組みをなすこれら形態学上の特殊性は、すべてそれ自体では別に有用というわけでもないが、さまざまな生命の状態に適応しうる《型》をたしかに示しているようである。…《自然の芸術品》で、その幻想的で多様な形態には、はっきりした有用さはなにもない。淘汰論者は、こういう点にもすこしも困難はないと考える。淘汰の圧力が小さい、均一な媒質中のばあい、無意義な構造でも、そのままつづいてゆくことができる。そうしたものはシーウォル・ライトの原理[浮動]にしたがって、小個体間に分割された種の中で機会的に生ずることもある。またそれ自身は無益な性質であっても、淘汰に属する性質——おそらくは単に生活力の違いかもしれないが——とむすびつくことによって、続いてきた場合もあったろう」92-3頁→

(承前)「次の基本命題は、生物界に広くゆきわたっているようにみえる。すなわち、《複雑でもよいのなら、ではなぜ単純なのか?》および《ああでもいいのに、こうもなる》といった類の現象が多い。ずっと簡単にしかも危険を冒しもせずに、ゆきつくことのできる目的に対して、驚くほどな回り道がしばしばとられている。…同じ生存競争をもちこたえるためにも——と淘汰論者は答える——いろんな手段があり、これらの形態が生き残っているのは、それが有用ななによりの証拠ではないか。
…ルトヴィッヒは…有害な性質に対して淘汰主義は14ないし20ばかりも説明を与えうると主張した。…14ないし20という説明には、次のようなものがある。一、今日では無意味か有害な形質も以前は役に立つことかできたのだろう。一、無意味な形質はたぶん多表現ということによって、淘汰価値あるものと結びついていたのであろう…一、無用な形質は性的淘汰によってはぐくまれる。一、種間的には安全に生存している種に、種内的淘汰がおきた結果として、ついに種自身にとってさえ危険な無用有害の発達がもたらされた、等々である」93-5頁

「小進化と大進化、つまりある《型》の内部における形態の多様さの起源とこの型自体の起源が原理的に同じ性質だということも、上述の論争と同じ強情さで拒否されたり弁護されたりしている。…大進化論者のいう《型》の起源は、小さな変化がしだいに積み重なってきたことによって生じたのではない。発生初期の段階に、広範な《作り変え》を左右する《大突然変異》がおきた結果だ。このことは、進化に2つの相が認められるという古生物学上の見解によって支持される。まず、新しい型が突然にできて、でると[ママ]すぐ爆発的に主要な形態の多様性へと分散する。次に、既製の形態の枠内でゆっくりと前進的に種が形成され、いろんな生命領域への適応がおきる。この問題にも淘汰論者は答があって、《型》とよばるべきものは一義的に確定できないから、《大進化》と《小進化》の境界線は引けないという。…いろんな《型》の中間段階が稀であったり、ほとんど欠けていることも簡単に説明できる。新しい型は先祖へと根を張ることが浅いので、それに応じて保存される化石もごくわずかなのだ。…かくして、小進化と大進化の間に原理的な差別があるとか、遺伝資質の変化の法則は過去ではいまとちがっていた、という仮定にはなんら科学的根拠はないのだという」96頁→

(承前)「進化的発達は《有用性》によっては理解できないとしばしば説かれる。高次の体制が淘汰価値を示すなら、高等生物は下等のものを駆逐してしまったはずだ。しかし任意の自然の断面ではすべて、単細胞から脊椎動物におよぶすべての生物のいろんな体制段階のものが、どれもみな生きながらえている。いや生きているどころか、生物共同体の成立にとって必要でさえある。…
…外挿や、《有用性》のゆえに進化的変化ができてきたという主張に対しては、実証したり論駁したりする可能性がない。ある形態が生きのびてさらに発展したならば、その時は変化は有用だったか、有用なものに結びついていたか、害にはならなかったか、そのいずれかに違いない。でなかったらその形態は死に絶えたはずだ。それにしても、いつでも<事後の予見>〔場合によれば牽強付会〕(vaticinatio post eventum)であって、チベットの折り臼とおなじく進化論も、あくことを知らずくり返し念仏を唱えている——《万事有用》と。だが実際なにがおこったか、本当はどの道が採られたのか、進化論はそれについてはなにも言わない。進化は《偶然》の産物で、《法則》にしたがうものではないからだ。けれども、それではたしていいだろうか?」97-8頁

グールドを先取りしたようなことを言ってる

「進化は外部要因によってだけ方向をきめられるところの無法則的現象だろうか。つまり偶然な突然変異と偶然な外作用とが、さまざまな生命条件や条件から生ずる生存競争とかの形において生みだした偶然の産物なのであり、これに、やはり偶然な隔離と、それに続く種形成の影響がつけ加わるだけのことだろうか。あるいは進化とは生物自身の内にある合目的性によって決定されたり、助けられたりするのだろうか。…
 数学的解析の示すとおり、淘汰の圧力は突然変異の圧力よりもはるかに強く、優勢なものである。…
 いま述べたことと、突然変異の《無方向性》とから、淘汰主義は次の結論をひきだした。進化現象の方向は外部要因によってだけ、きめられると。しかしこの結論は前提からでてきたのではない。淘汰が一般に進化の<必要>条件を示すとしても、だからそれが<十分>条件をも与えるということにはならない。
…この説は淘汰圧がない例外の場合は別にすれば、あらゆる進化過程においては、関与する生物体に対する《利益》が増大するという限定条件を定めている。だが個々の場合になにかがおこるかどうか、またなにがおこるかは、淘汰原理からは訊きだせない。…淘汰原理ですべてがいいあらわせるという生物学上の主張は、いまでは時代遅れの《エネルギー主義》とでも比ぶべきもの」99-100頁

「進化説は莫大な事実を材料にして、動植物の世界が地質学的時間の経過につれて単純で原始的なものから複雑で高度に体制化したものへ発展してきたことを立証した。…けれども、実際は現存生物や化石生物の世界の内に継続する移行過程は見いだせず、見いだされるのは別個にはっきり区別できる<種>だけである。<種>の内部に多少豊富な突然変異や品種があるにしても、連続的な移行過程がもしあるとすれば出会うはずの、種から種への中間段階がみつからないという事実に変わりはない。生きた生物の世界も化石のそれも、一つの連続体ではなく不連続体である。
 たぶん個々の遺伝子だけでなく核型にも安定条件があてはまることが、種の不連続の理由なのだろう。…《種》とは、その中に安定した《遺伝子平衡》ができている状態であると。つまり種の中では、発生が調和して発展できるように、遺伝子が相互につりあっている。…ある種から他種へと移りかけている形態は、はなはだ不安定であって、とくに淘汰の攻撃にさらされやすい。それだからこそ、淘汰は速くすぎ去ってしまわぬわけにはゆかないのである[😅]。つまり一つの形態がもしも中間期間に死にたえないでいれば、やがて新しい遺伝子平衡に達し、形態はふたたび長い間安定していられるのだが、それまでは静止的になることは少ないのである」102

「小さな突然変異や淘汰によって連続的な作りかえをおこすには、地質学的時間で足りることを証拠だてるのがそれまで常套の方法だったが、このやり方は当をえていないとシンデヴォルフが強調しているのは、おそらく正しい。人は進化の出発点と終点だけに目をむけて、その中間の時間を、等分された小さな変形で埋めてしまう。しかしほんとうは、形態はにわかに多様性を現わす。種の系列のなかでは、ある種が現われてから、次の種を世にだすために、たえず作りかえをやっているのではない。何十万年かの間そのままでいて、それから、急に次の種を世に送る。型の内部では、すでにはじめから大きな綱は存在している。…こういう現象こそが、シンデヴォルフの先発生説(プロテロゲネシス)を根拠づけるものの一つだった。この説では個体発生初期の飛躍的な造りかえが、そのまま新しい型の起源になるというのである。…動植物界の基本型がかなり少ないことを考えると、進化の大きな一またぎに相応するのは比較的稀に現われる遺伝変異であることがわかる」103-4頁

断続平衡説ですなあ😅

「ある状態から他の新状態へ移行する時にも、種や型が維持されてゆくばあいにも、安定条件がどんなものかという問題とともに、いわゆる進化の《静力学》を考えてみる必要が生ずる。…静力学に対立するのが《進化の動力学》、すなわち進化的な変遷によって支配される法則性の問題である」104頁

「生物体が進化の中で経過する変化がまったく任意で偶然だなどということはあるまい。変化はむしろいちじるしくかぎられている——第1に遺伝子での変異の可能性により、第2には発生において、つまり遺伝子システムが実際に作用を営んでゆくさいの変異の可能性により、第3には体制の一般的法則性によって。
 この結果、進化はしばしば一種の《直進現象》の印象、すなわち一定方向への前進という印象を与えるようになる。…方向づけられた変化が淘汰にさからって進化の経過を定めるという意味での直進現象は稀であるか、または一般にそんな現象は存在しない。しかし進化が、生活状態とかそれに原因する生存競争とかいう外部的偶然事だけではなく、内部要因によっても定められるという意味ならば直進はありうる。《進化の袋小路》つまり好ましくない方向への進化系列は淘汰が弛んだ時、すなわちある形態群が揺がぬ支配権をかちえたときに、おこっているもののようにみえる。…そうした時期の条件は、飼育下の条件に似たところがあって、人間に護られている種はしばしば奇怪な多種多様の形態を示す」109-10頁

「私たちは近代淘汰説を充分に評価するものではあるが、本質的にちがう進化の形像に到達してしまう。進化とは、地球の歴史の中での環境の移り変わり、そこから生じた生存競争、またその結果、突然変異の混沌とした素材をふるい分けて淘汰が行われたというような、歴史に伴う偶然事だけできまるものではない。もちろんまた、完成への衝動とか合目的性と適応への傾向とかいう神秘な要因のしわざによるのでもない。進化とはまさに本質的には生物の諸法則の共同作業によって決定される」111頁

「生物の《合目的性》を偶然によって説明した最初のダーウィン主義者はよく知られているように、前ソクラテス時代のエムペドクレスだった。…ダーウィン説は国民経済の観点を有機体生命の上に適用したものであることも、同様に有名である。生きものは彼らの食料の分量が増すよりも急速に殖えつづけるというマルサスの報告が、ダーウィンの重要な出発点であった。あらゆる現象を《利害》と《競争》の概念でかたづけようとするのは、マンチェスター学派の国民経済学に一致する。…
 生物学のどの分野にもあるあの2つの案が進化論にも通用する。一方では機械論がある。これによると生命も、それ自体としては無意味な無機的現象であるが、真に科学的な理論の唯一の基礎のように思えるからである。他方、この見方に対する反動[生気論]があったが、この唯一の代案は、みうけたところ自然科学には統制できない要因や、神秘主義への道を開くにすぎない。ここでもまた、総合は有機体論の法則である」112-3頁

「[社会と同様に]生命の進化もまた、利益で方向づけられた偶然の産物以上のものと思われるのだ。それは<創造的進化>(evolution créatrice)という打ちでの小槌、緊張と動力学との悲劇的な錯綜にみちたドラマともみえる。生命は苦心惨憺し、たえずもっと高い段階によじ登ろうとする——一歩一歩にそれだけの支払いをしながらも。…
 だがしかし科学の立場から見ればそのばあいには生命の歴史は偶然の堆積ではなく、偉大な諸法則にしたがうことがわかる。擬人的に適応・合目的性ないしは高まりゆく完全化を目ざす指導要因ではなく、今日ようやく知られ始めこれから先にもさらに知られる望みのある諸原理が、生命を支配するのである。自然は創造する芸術家だ。しかし芸術とは偶然でも恣意でもなく、偉大な法則をとり行うことなのだ」115-6頁

「生命の歴史的性格
 有機体は体制・過程の動的な流れ、歴史の3つの要素で特性づけられる。《生命》は電気・重力・熱その他と違って任意の自然物に現われたり、分かち与えられるわけにゆかない。むしろ生命は、独自の体制をもったシステムとむすびついている。このシステムの中では、過程の連続した流れとパターンも、同様に独自である。最後に生命という存在はすべて、同じ生命に起源をもつ生命の個々の存在(生物個体)の経歴のみならず、個体が由来してきた世代の歴史の特徴をもになっている。…生物体をその根本特徴にしたがって《定常状態にあるシステムの階層構造》として定義しようと思う。…
…経歴は物理的過程の中では、いわば消えうせる。これに対して生物は歴史的存在と考えられる。…生物の行為のなかにも同様に歴史的な要素がはいりこんでいる。動物や人間の反応は、その生物がそれより以前にうけた刺激や以前に行なった諸反応と関係がある。これがヘリングに《有機物質一般の機能としての記憶》を仮定させたり、ゼモン、ブロイラー、リニャーノたちによる記憶的生命理論をして、個体の記憶と進化とは対比できるものだといわせたりしたのである」116-7頁

「生命のまさに根底に横たわる歴史的特殊性は…数式には含まれていない。歴史的特殊性とはつまり、系統発生の途上で原基が集積し、これが個体発生のさいに、ヘッケルの生物発生の基本法則にしたがって、展開してくることである。ヘッケル説は細部では改訂されるべきだが、原理としては正しいのである。…原基が系統発生的に集積し、個体発生的にこれが展開されるというこの二重過程は一枚のレコードと比べていいのかもしれない。このレコードは、その時々の旋律の跡をとりいれ——つまり《吹きこん》で——これをまた音に再生するのである。しかしレコード盤である《ゲノム》の本体について、遺伝学はなにも言明していない」118頁→

(承前)「遺伝学と実験的な進化研究は、もっぱらすでに存在する遺伝子の突然変異的変化に没頭してきた。だが明らかに進化は現存遺伝子の変化にとどまらず遺伝子の新生を含んでいる。そうでなければ、私たちはふたたび不合理な前成説におちいるのであって、原アメーバにすでに人間と同様な遺伝子構成があったと仮定することになる。遺伝子の新生に関しては生物学は無知も同然で…ここから広範な結論を引きだすことはまず望めない。…進化の基礎についての統一的概念によるなら、系統発生上の変化を新遺伝子の導入としてではなく、むしろ全核型が新しい状態に移行することと解釈できるかもしれない。ちょうど心理学的な記憶を、特定神経繊維の中に個別的な痕跡が残ることとしてではなく《脳領域》全体の変化として理解することと似ている」118-9頁→

(承前)「これと関連して、さらに一つ問題なのは、《巨視的》物理現象の方向は、第2法則にしたがって秩序の解消へとむかっているが…これに対して生物では、《アメーバから人間まで》の発展の中で、秩序の高まる方向がむしろ現われているように思えることで…ヴォルテレックはこれを《アナモルフォーぜ》と名づけた。…生物学領域では、淘汰の理論によれば、偶然が分化と複雑化を高める方向に働いている。
…もし生物にも組織化の力、高い次元の《結晶化力》があるならば、生物のアナモルフォーぜはエントロピー原理と調和する。…おそらく生物学上のアナモルフォーぜも、結局は量子物理学の観点から見るべきものだろう。現に突然変異に対しては、これがおそらく正しいだろう。…近年ようやく発見された要素で、根本的意味をもつものがある。閉鎖系と違って開放系では、エントロピーの減少・高度な異質化と複雑化とがおこりうるのだ」119-20頁→

(承前)「生物体は、部分構造・部分過程の交換関係を示す空間的全体物である。空間的システム全体(単なる因果の連鎖ではなく)が現象を規定するのであって、これと同じく、現象はまた時間関係の総体によって(単に目下の条件だけによるのではなく)きめられる。生命の空間的全体性と履歴性は結局、同一の空間=時間的全体の別の側面なのだろう。…空間的にも時間的にも、生きたシステムの中のことがらは一因的(生物体は現在条件により決定される因果関係の集積であるという意味で)にきまるとは思えない。むしろそれを決定するのは全空間=時間的なパターンである。…かりに私たちが生命現象を一つの式で片づけるならば、その式は空間的全体性と時間的全体性を同時に表明しているような微積分方程式となろう。理論物理学と一般システム理論…を関連づけて扱わねばならぬ深い問題がここにある」120-1頁

「中枢神経系の中の過程と生物の行動とは、生物学的にも臨床的にもひとしく重要な領域である。この分野においては、新しい発展がおきて有機体論の立場の興隆が、とくにはっきりと示されている」121頁

「等質的環境(外部の刺激のないこと)のもとでも、多くの生物の正常な状態は静止ではなくて急速な運動である。この活性は本能行動の中にもみられる。それは、一定の生理的状態においては外からの刺激がなくても一定の運動を行おうとする《衝動》として現われる。
…生物体がはじめから能動的システムであれば、私たちは次のように結論せねばなるまい——刺激(外的条件の変化)は現象を、自身としては静止的なシステムの中でひきおこすのではない。ただ現象を、もともと能動的なシステムの中で修飾変更するにとどまると。この命題から導かれる重大な帰結は、結局生物体の反応には外部の働きかけ、つまり刺激よりもむしろ内部状態、正規状態からの離れかた、心理学でいうところの《要求(欠乏感)》が決定的だということである。実際そのとおりなので、生物はまず刺激によってではなく要求によって、食物・異性等を探し求めるようになる。この《衝動運動》は、ふたたび正常状態が回復するまでずっとつづく。…ブリューゲル(1877)は古典的な命題をだした——《要求の理由は、要求充足の理由である》と。彼はこの言葉によって、生物に特有な霊魂的な目的追求の性質を表現しようとしたのだったが、この命題の中に生気論的なものや霊魂めいたもののことが言われているということにはならない126-7

「刺激現象と行動の領域では…有機体論の観点が必要であることがとりわけはっきりした。過程がシステム全体に依存することは、分析=加算的な見地に相反する。最初には動的秩序があって機械化がしだいにおこることは、静的構造的=機械理論的な立場と対立する。生命現象において能動性が根本であることは、反応性が第一義的だという観点と矛盾する。
…フォン・ホルストによると、反射は行動の根本をなす基本要素ではなく、根本である自律性を変化する末梢の条件に合わせるための適応なのだ」128-9頁

「生命の流れ
 《同じ流れに二度とはもどれぬ。水は流れて常に新しいからである》。同時代人が晦冥の人と呼んだヘラクレイトスのこの章句は、古代のほの明るい暁の空から響き出る。ギリシア人にとって、ヘラクレイトスが異端の者と思われたのも無理からぬことであった。ギリシアの世界は動かぬ静謐とよぶアポロ的理念の中に息づいていたのである。…だがヘラクレイトスは永続する力のディオニソス的思考者であり、力学を実在の核心と考えた。かくして彼を彼の同時代人から疎外させたところのものが、彼をかえって私たちには近づける。…ギリシア人にとって、原子とは石工の眼をもって見ることのできる、しっかりした小粒子だった。ところが西方の地の物理学は、原子を力の演出、波動力学の結節点へと溶かしこんでしまった。
 たえず代りあって休みない流れを、ヘラクレイトスはこの世になぞらえた。だが汝をとりまく世界だけでなく——と、ヘラクレイトスもこう言いたかっただろうが——汝それ自身とて瞬時たりとも同じではない。このヘラクレイトス的思考によって、私たちは生命の核心に近づく」130-1頁→

(承前)「無生のものと生きた自然物の姿を比べると、本質的な違いが発見される。結晶はいつでも同じ構成部分からできていて、おそらくは百万年をも、結晶はそのままとどこおって動かない。ところが生きものの形態は見かけが止っているだけだ。実は生物は絶えることない現象の流れを示している。生物体は定常的に物質交代しているため、その構成部分は一瞬の間もそのままではない。生物の形態は<ある>(sein)というよりもむしろ<なる>(werden)のだ。生物の形態は、生物体にはいりこみこれを作りあげる物質とエネルギーの、ひき続く流れを現わしている。…
 この恒常的な交代は、生物学的体制のあらゆる段階でみいだされる。…どの有機体も一定の見方から眺めると、不変であり定常的であるが、ある段階では不変とみえることも、すぐ下のシステムがたえず交代し、できあがり、生長し、年とり、死んでゆくことによって支えられている。…
 生物をこうして動的に把握することは、近代生物の最重要な原理に数えられ、この原理から生命の根本的な問題が生まれ、この問題を解明することができる」131-2頁→
福岡伸一的なだけでなく、小林武彦的でもあるなあ…😅

(承前)「<物理学的>な立脚点からは、この関係は次のように定義される。生きている生物体は外にむかって閉じられたシステムではなく、<開放系>なのであって、構成素材をたえず外部に与え、また外からうけとる。システムはこのようにたえず交代しつつも、ある<定常状態(すなわち流動平衡)>を保ち、またこの状態へ移行してゆく。
 物理科学はこれまで、もっぱら閉鎖系でおきる過程を扱っていて、反応動力学(分子反応論)、すなわち反応過程の学説に終始した。…生物は全体としては、けっして真の平衡にはない。わりに緩慢な物質交代の過程は、ある定常状態に達するが、定常状態は、流入と流出の状態がたえず一定の差をもつことによって保たれてゆく」132頁

「開放系理論と開放系中に現われる定常状態の理論が、閉鎖系の反応速度論や平衡に関して物理化学が提供してくれる理論を補わなくてはならない。…
 開放系の理論は<物理学のまったく新しい領域>を開拓した。《第2法則は定義により閉鎖系に対してだけあてはまるが、定常状態を定義するものではない》。…プリコジヌ…『<平衡状態と非平衡状態をともに包括する一般的な理論を設定するため、努力せねばならぬ>』…
…閉鎖系の現象はエントロピー増大によって規定されるが、開放系中の不可逆過程をエントロピーその他の熱力学ポテンシャルで特性づけることはできない。システムのむかう定常状態はむしろエントロピーの最小生産ということによって定義づけられる。ここから革命的な見解がでてくる。開放系が定常状態に移行するさいにはエントロピーが減少し、異質性と複雑さとかより高い状態に自発的に移ってゆけるというのである。生物の胚発生や進化…に見られる多様性の高まりを解釈するには、おそらく右[上]の要素が本質的な重要さをもっていよう」133-4頁

「開放系の説は物理学同様、生物学にも新しい一章を画する。長いこと、生物体は《動的平衡》にあるシステムだといわれてきた。これは、生物が構成部分をたえず交代させ続けていることを表現している。…
 生物システムは定常状態システムで、しかもこの系の反応成分数は莫大なもので、はなはだ複雑である。生物体が開放系だというこの特性こそ、生命現象の前提である。…
 体制の段階構造、開放系としての性質、この両者は生きたものの基本原理である」135頁

へーバー(1926)「生物体の中で私たちがまのあたりにみる化学システムは、長いこと、動いている平衡、力学的平衡とみなされてきた。今日では生物体の動的平衡の問題は、もはや根なし草ではない。大胆な高層建築の要石であり、冠りであると思われている」135-6頁

「生物体の定義
…生きている生物体とは、開放系の階層構造を示し、そのシステムの条件にもとづいて構成部分の交代を行うところのものである…
…結晶は、物理学的単位要素(素粒子)にはじまり、原子・分子・さらに結晶格子にいたる階層的体制を示す。だが、構成部分を交代しなから自身を保ってゆくということが、結晶には欠けている。反対に、定常的な水流・炎・定常電流など、生きていないものの定常状態は、交代しながら維持するという要請をたしかに満たしている。だがそこには階層構造が欠けている。…システム自身の中の条件にもとづいて、交代しながら維持されてゆくということは、なんら生気論的なことではない。無生物の中にもこの種のシステムはある」136-8頁

「刺激を与えることは状態を定常状態から<ずらす>ことを意味しており、生物は平衡状態にもどろうとする。…生物の定常状態はゆっくりと確立しては、ゆるやかに変化していくのである」139-40頁

「システムとしての生物体——精密生物学の基盤
…開放系の説は、将来の<生体エネルギー論>の基盤にならねばならぬ。…生物を作りあげている化合物のふくむ化学エネルギーも、もし化合物たちが化学平衡にあれば、転用できない。けれども生物体は定常状態にあるシステムであって、その中では真の平衡にむかってたえず反応が進みつつある。…
…生物体が定常状態にあるシステムとすると、真の平衡との間隔を保ってゆくために、たえずエネルギーを補給する必要が生ずる。したがって生物体は筋や腺・運動その他の多様な活動をするためばかりでなく、定常状態を維持するためにも、エネルギーが必要ということになる。細胞や生物体が行なっているこの<仕事維持>の問題は、生物エネルギー論にとって基本的問題である。開放系の理論は、この問題に必要な原理を与えてくれる…
 生物の代謝の基本問題はその<自己調節>である。生きている生物体では全反応が、結果としてシステムを維持するようにおこっている。これが、生きている生物体と崩れゆく屍体との根本的な区別だ。…自己調節の主要特徴は開放系の一般特性から生ずる結果なのである」140-1頁

フォロー

「古典物理学が仮定したのとはちがって、現象は連続的なものではなく、飛躍的性格を有しているという判断も基本的な要素であり、この認識を物理学的に表現したものが量子論である。…生物学の面ではこの認識は突然変異説として表現されており、この説にしたがうと種は滑らかに移りかわるのではなく、不連続な飛躍の結果、移行がおきる。量子論と、これに密接な関係をもつ突然変異説…が、同じ1900年にその基礎を与えられたことは、たしかに偶然ではない」187頁

ほんまかいな😅

「遺伝子もまたとくに体制化して高度の安定性をもった巨大分子で、照射の作用によって、量子が命中するとか、自発的突然変異のばあいのように熱振動によるとかいう比較的まれなときにだけ、新安定状態に移りその状態に束縛される。物理学的な量子論と生物学の突然変異説の関係はこの点にあるのであって、遺伝子分子が新安定状態へ飛躍的に移行するのはエネルギーの受渡しが任意の少量では行われず、量子化されているからだ。そして生物学的にみれば、ある品種から他の品種への移りかわりが滑らかでなく、やはり飛躍的だということも…このような事情によって説明される」😅😅😅 189-90頁

「生物学的思想は数十年このかた私たちが《有機体論的》と名づけた考えへ向かって動いてきた。…
 物理学での機械論が、生物学にどんな影響を与えてきたかはすでにみたが、生物学も一般の傾向にならって、生命現象を個々の部分、個々の過程に解消してきた。生体を細胞活動の和として表わそうとする立場などもこれで、物理現象が偶然の法則に支配されると思われたのと同様に、体制と機能をもつ生物も、無方向な変異と選択が生みだしたものと解されてきた。この見方はまた経済[学]の潮流や理論ともおおいに関係があり、じっさい…マルサス理論を、ダーウィンは生物界全体におしひろげた。その理論にもとづいて、生物界では生存競争がおし立てられたが、これは工業化開始のころ国民経済学のマンチェスター学派がもてはやした自由競争理論を生物学に応用したものである。生命現象すべてを有用性の観点で判断しようというのは、時代の思潮にかなうものなのであって、無生物の世界をその手に収めて勝ち誇ったこの時代は、生命をも機械としてとり扱った。生命の機械説はそうした時代を表現している」191頁→

(承前)「機械論の解釈にも底がみえてくると、こんどはその見通しから、まず生気論が導きだされた。部分の和と機械的構造とを指導要因が支配するという仮定が生気論である。どちらの見方でも足りないことがわかってきて、ついに有機体論が生まれて、全体性の見方に科学的な意味を与えるのであるが、こういう道筋は生物学・医学および心理学に共通していて、いずれにも認められるものである。
 近代生物学に現われた基本の諸原理や、個々の領域でこれらがどのように働くかということは、いままで逐一論じてきた。その一つは、全体性の考え方であって、部分部分の過程だけでなく、幾重にもなった交代関係やその法則性を認めることが必要なのだ。この関係や法則性は、攪乱のさいの調節にも、またもちろん、正常の生命現象にもあらゆる分野で見られている。さらにまた体制の原理がある。…もう一つは力学的(動的)な考え方で、生物構造は存在するのではなく生ずるのであり、生体を維持し形成するエネルギーの不断の流れを現わしたものこそが構造であるという。こうした動的な見方はいろいろな領域で精密な生物学法則へのいとぐちを提供し、等結果性のように、自然科学では解けぬ生命の神秘とされていた現象も、これによって理解の基盤を与えられる」😅 191-2頁

「生物学のあらゆる理論的な考えは、体制の問題をめぐる。生物学でみられるようなことがらは、そのシステムの体制ということによって説明すればよいとホールデンは思ったのであったが、フォン・ベルタランフィやウッジャーの有機体論の立場では、逆に体制を作っている基礎を研究すべき必然性が生じてくる。体制は説明になるどころか、生物学におけるもっとも魅力的、もっとも困難な問題なのであって、この問題は生気論をもっとしては片づけようがない。…物理学者シュレディンガー(1946)は…独立に、有機体論とまったく一致する立場にたどりついた。『生きた物質が、いままでにうち立てられた物理的諸法則をのがれるものでないことは、確かめられている。しかしおそらくは、今まで知られなかった別の物理法則をも匿しているだろう。そして一たび知られた暁にはこの新法則も、もとからの物理法則とおなじく、この科学の不可欠な部分となることだろう』」193-4頁

「生体内の生命現象の秩序という本質的な問題…いままで部分的に知られているミゼルの秩序の法則性のすぐ先に、まだわかっていない法則性をもったずっと動的で柔軟な秩序、すなわち原形質や細胞の《生きた》体制性とよぶところの秩序が、おそらくつづくのである。もちろん、その生きた体制は《柔軟》であるほかに《動的で》もなければならぬだろう。ここにおいて、《体制》の問題は《定常状態》の問題と合流する…
…高い体制の水準においては、<構造>と<機能>の対立は動的な見方によって克服される。…生体とは、さまざまな速度をもった過程を伴う階層構造であると考えるわけだ」194-5頁

「[H.]ウェーバーは(1938)は、生物学が一般に環境概念をどう摑むかということを、有機体論によって説いた。フォン・ユクスキュルは生体と環境の関係のあまりに一方だけを強調しすぎた。つまり感覚的刺激への反応ということで、したがって彼の環境概念は刺激生理学的であり、擬心理学的なものである。だがウェーバーのいうとおり、環境の概念はもっと広く考えねばならないものであって、体制に働き影響するシステム全体という意味にとるべきである。これは、生体の特別な体制によって決められると同時に生体の存続を可能にするシステムを意味している。したがって生体の刺激となりうる事物だけでなく、生体の存在条件に関する複合体全部が環境に属するのだ。他方人間の活動の場合に、環境条件はその限界に行きつく。動物の環境はその物質的体制に依存しているのだが、科学の進展につれて、次第に脱人間化(Entanthropomorphisierung)の進行が見られる。すなわち人間特有の感覚生活に源を発する要素がどんどん消去される点で、そういえる。[アーノルト]ゲーレンは、ユクスキュルの環境概念を人間に適用することを批判したが、右[上]の結論もこれと同種のものである。彼もまた人類の文化活動にはこの概念は適用できないと述べている」195-6頁

「ドッターヴァイヒ(1940)は《生物学的平衡》について統一的な研究を行なったが、彼はもちろんこの概念を非常に広範に考えたので、当然区別されるべき現象も一緒に包括してしまい、したがってこの考えかたはしばしば形式的なものにとどまってしまった。彼はそれまでの《生物学的平衡》を3つに区別している。(1) 形態学上の《器官の平衡》(ジョフロワ・サンチレール、ゲーテ)。(2) 生物群衆的平衡(エッシェリッヒ、フリーデリクス、ヴォルテレック等、その他)。(3) 生体を生理学的に、動的平衡あるいは定常状態にあるものとしてみること(フォン・べルタランフィ)。…形態形成における競争・調節・優性・決定の定量的理論は、一般化された開放系動力学(だいたい私たちの《システム理論》の意味での)と勾配原理とにもとづいている。この原理を発展させたのはスピージェルマンであった(1945)。
 <動的形態学>(フォン・ベルタランフィ、1941)は生体を開放系としてとりあつかうことにはじまる。すなわち生物の形態を、現象の流れが法則により秩序づけられたものとみる。このような見地にたてば、形態学的研究法と生理学的研究法とが統合されるようになり、また<代謝>・<生長>および<形態形成>の法則を正確につかむことができる」197頁

「私たちの理論を演繹して得られる哲学的にだいじな結果としては…等結果性の問題が解決されたことや、形而上学的・生気論的と考えられていた目的指向性の概念に物理学的な基礎が与えられたことが数えられる。
 有機体論のもっとも広範囲な発展は、一般<システム理論>…を作りだした点であるが、精密で数学的な実体論(存在論)の基礎となり、またそれぞれ性格の異なった諸科学においても普遍的な概念は論理的に相同であるとする主張に、基礎を与えたものがこの理論だ」201頁

「心理学の発展はことに意義が深い。なぜならこの分野の中で、全体性がはじめて科学的な見方としてうち建てられたからだ」201頁

「生体中の過程が生体自身の必要にしたがって秩序づけられ、一つの全体となって流れるという事実の中に、生命現象のもっとも注目すべき特徴が現われている。個々の反応をすべて物理=化学的に知ってみても、この問題が解決したことにはならない。機械論者はこの秩序が機械様の構造によって保証されるのだ[ママ]信じたけれども、これでは調節現象を説明するわけにはいかない。生気論者は超自然力をもちだすが、ドリーシュのウニの例のように部分は全体にしたがうからといって、それはなにも生気論的なことではなく、むしろゲシュタルト一般の特性である。…機械論は、現象の秩序づけのもとを既製の仕組みの中に尋ね、生気論のほうは、説明にあたって超自然力をわずらわす。だがそのほかに、第3の可能性が残っている。つまり統一的なシステム間の内部で動的秩序が保たれているということだ。だから物理学も生物学も心理学もおしなべて、内在する動的性格から秩序をつくりだすようなシステムを問題にするのである」204-5頁

「動的哲学の始祖はヘラクレイトスである。今日、物理学や生物学の認識がもつ透徹した平明さのもとで私たちが追求している世界像を、最初に意味深く神秘めかして表現したのが彼だ。それが彼の《万物は流れる》であり、《対立物の統一》だ。…クザヌスは一方でドイツの神秘家たちの一大系列の最後の人であり、他方近代科学の道をひらいた。…太古のヘラクレイトスの主題は対立物の統一という教義の中にふたたびとりこまれ、新時代へとうけわたされた。…
 ゲーテは作家だっただけでなく、有数の自然学者であって、生物の形に関する学問である形態学の基礎をきずいた。…ゲーテの理念的形態の背後にはヘラクレイトス流の動力学がかくれている。ゲーテのいう<死滅と生成>、<交代の中の永続>という言葉のうちに、この動力学は表現されている」207-8頁

「哲学の発展は心理学や生物学の発展に先行した。たとえば、ニコライ・ハルトマンはすでに1912年にシステムの考えの必要性を説いた。因果関係について、各因果連鎖が単に並行して走っていると考えるのは適当でない。本質的なものは相互作用である。一個のシステムの中で、各力は均衡を保ちあい、したがって各力の共存状態は比較的不変で攪乱に対して抵抗するような総体構造をとるようになる。この場合、有限な各システムはさらに高次なシステムの項であり、また一方もっと小さな諸システムをその中にふくんでいる。この相互封入は受動的な閉じ込めではなく、一個の交互依存的な関係である。低次のシステムにおける一定の作用は、同時に<より>高次なシステムの統合作用の中で働きをもち、逆にまた高次なシステムの一定の作用はただちに<より>低次なシステムをもあわせ規定する。生物はシステムのうちでもいちばんこみいった秩序システムをもっている。生物には相互作用が不可欠であって、それによって部分過程を全体へと統合し、システムの協同作用法則を通じてこれを支配する」209頁

「機械仕掛けのない機械という不条理な観念に対して、ドリーシュは、単に形而上学的な技師を考えることでこれを置き換えるという、適切を欠く定式化をやった。このために世紀の変りめ頃に生体概念の最初の出現がどんな挫折をうけたか…
 ドイツのドリーシュとおなじように、イギリスの生理学者J. B. S. ホールデンも生命の機械論を拒否した。彼は協調的な自己維持の中に生命の本質をみいだし、この自己維持を物理=化学的概念によって記述することは原理的に不可能と考えた。ドイツの《ゲシュタルト》概念とおなじように、イギリスでも《有機体》の概念が無生物界にまでひろがった。…
 数学者ホワイトヘッドの《有機的機械論》は、分子の盲目的な動きという仮定をも生気論をも越えたのである。真の実在はすべて《有機体》であって、その中では下位のシステムの特質が全体の骨ぐみによって影響をうける。この原理はまったく普遍的であって、生きものに特別というわけではない。…科学は、純粋に物理学的でもなければ純粋に生物学的でもないような、新しい局面に触れあうようになる。すなわち、科学はいまや有機体の研究の段階に達する。生物学は大きい有機体(生物体)の段階であり、物理学は小さいほうの段階といえよう」211頁

「一般システム理論と私たちがよぶ<新しい科学分野>…これは論理=数学的な分野であって、その課題とするところは、システム一般にあてはまる原理を定式化し導きだすにある。《システム》は相互に作用しあう要素の複合体と定義できる。システムの構成要素がなんであれ、また要素間になりたつ関係あるいは力がどんな種類のものであれ、どのシステムにも同様にあてはまる一般原理がある。…いろいろな領域の法則性は形式的に一致する。すなわち《論理的相同性》を示す。
…一般的なシステムの特性から生ずるのは論理的相同性である。この理由によって、異なった現象領域においても形式上の一致がみられ、その結果いろいろな科学の間に平行的な発展がおこる。
…一般システム理論は、ライプニッツが夢みたあの普遍学(mathesis universalis)——広大でいろいろな科学を包括するところの意味論的システム——への一歩と考えることができる。…動的な把握における《システム》理論が、現代科学に対して果たす役割は、古代科学の中でアリストテレスの理論が演じたのとおなじである」213-5頁

「生きているということの本性を一言にして摑もうとするなら、古くゲーテの好んだ句がそれであろう。かの含蓄の深い詩の中には《変化のなかの永続》とうたわれている」218頁

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