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「純粋に形式的な『システム』の定義から、いろいろな科学分野でよく知られた法則に一部分表現されていたり、また一部分はこれまで擬人的だとか生気論的だとかされてきた概念に関する多くの性質が導きだされてくる。したがって、いろいろな分野での一般的概念の並行性やさらに特殊法則の並行性さえも、これらが『システム』に関連しているということと、ある種の一般原理はどんな性質のシステムにもその本性の如何にかかわらず適用できるということからくる当然の結果であることになる。かくして全体性と総和、機械化、階層的秩序、定常状態への接近、等結果性などの原理がまったく異なった分野に現われる場合がある。異なった領域に見いだされる同形性は、一般的なシステムの諸原理の存在、多少とも十分に発達した『一般システム理論』の存在にもとづくものである」77-8頁

「当面の考究の関心は論理的相同にある。私たちはこれを次のようにいい表わすことができよう。もし対象が一つのシステムであるならば、それは他の点ではどんなものであるにもせよその如何にかかわらず、一定の一般的なシステム特性はもたねばならない。論理的相同は科学における同形性を可能とするだけでなく、概念モデルとして現象の正しい考察と最終的な説明のための道具を与える力をもっている」78頁

「システム特性の相同は、ある領域を他の低次の領域へ還元することを意味するのではない。しかしそれはまた、単なる変形や類推でもない。むしろそれは、『システム』をなしていると見なしうるかぎり、どんな種類の実在の中にも見いだされる形式的な対応なのである」79頁

「一般的なシステム原理の解析によって、これまでしばしば擬人的、形而上学的、あるいは生気論的と考えられてきた多くの概念が厳密な定式化に耐えることが示される。それらはシステムの定義あるいはある種のシステム条件から導きだされてくる結果である」79頁

「私たちは、実在のいろいろに異なったレベルあるいは層に対して科学法則をうちたてることは、たしかにできる。そうしてここに私たちは、『形式的様態』(Carnap)でいうならば、科学の統一性ということがあるとしたときの、異なった分野における法則と概念図式との対応もしくは同形性を見るのである。『実体的な』」言語でいえば、これは世界(すなわち、観察することができる現象の総体)が構造の一様性を示していて、いろいろに異なるレベルや領域において秩序の同形的な痕跡によって自らを顕現している、ということを意味する。
 実在は、近来のとらえ方では、オーガナイズされた実体の巨大な階層的秩序とみられるのであって、その結果、物理学的および化学的システムから生物学的および社会学的システムにわたる複数のレベルが重なりあうことになる。『科学の統一性』が当然とされるのは、あらゆる科学が物理学および化学へとユートピア的に還元されることによるのではなく、実在の異なったレベルが構造の一様性をもつことによるのである」81頁

「とくに自然科学と社会科学、あるいはもっと表現にとんだドイツ語の術語を使えば『自然の学問と精神の学問』(Natur- und Geisteswissenschaften)のギャップは、後者が生物学的概念へ還元されるとの意味ではなしに、構造上の類似性の意味において非常に小さくなる。これが、対応しあう一般見解と考えが両分野どちらにも出現する理由であって、最終的には後者における法則の体系の確立につながっていくかもしれない」81頁

「物理学的現象を実在の唯一の標準と考える態度は、人間を機械化し、高次の諸価値を正当に評価しない結果を導いた。…機械論的見解を投げすてた後には、私たちは『生物学主義』にすべりこまないように、つまり心的、社会的、文化的現象をただ生物学的立場からのみ考えることのないように用心しなければならない。…有機体論の考え方は、生物学〔主義〕的考えの一方的な優位を意味するものではない。異なるいろいろのレベルに一般的な構造の同形性があると強調するとき、それは同時に、レベルごとに自律があり特異的な法則をもつことをも主張しているのだ。
 私たちは、一般システム理論の将来の展開が科学の一体化をめざす大きなステップとなると信じている。それは将来の科学において、アリストテレスの論理学が古代の科学で果たしたのと似た役割を果たすことになることもあろう。…現代の科学では、動的な交互作用が実在のあらゆる分野で中心課題になっているようにみえる。その一般原理は、システム理論によって定義されるべきはずのものである」82頁

「40年ほど前、私が科学者としての生活を始めたとき、生物学は機械論ー生気論論争のさなかにあった。…こういう状況の中で、私その他の人々はいわゆる有機体論の見方に導かれていった。一個の短い文章でいうならば、それは生物体はオーガナイズされたものであって、私たちは生物学者として、それがどんなことであるのか発見しなければならない、ということである。…この方向の一ステップがいわゆる開放システムと定常状態の理論で、これは本質的には在来の物理化学、反応速度論および熱力学の拡張である。けれども一度とった道を途中で止まることはできないように思われたので、私はさらに広い一般化まで導かれることになり、これを私は『一般システム理論』と呼んだ。この考えはかなり以前にさかのぼる。それを最初に提出したのは1937年、シカゴ大学で行なわれたチャールズ・モリスの哲学セミナーにおいてである。けれどもその当時、理論なるものの評判は生物学では悪かった。…それで私は草稿を引出しにしまいこみ、この問題に関する私の最初の出版はようやく戦後のことであった」88-9頁

「狭い意味での一般システム理論(GST)、これは交互に作用する要素の複合体としての『システム』の一般的規定から、相互作用、総和、機械化、集中化、競争、等結果性など、オーガナイズされた全体物の特徴的であるような概念をひきだし、それらを具体的な現象に応用することを試みる。
 広い意味でのシステム理論は基礎科学の性格をもっている一方、応用科学にもその関連物をもっていて、それは時に『システム科学』という一般名の下に包括される」89頁

「物理学それ自体の発展によって、物理学主義的また還元主義的テーゼは問題をはらむようになり、形而上学的偏見のようにさえみえてきた。物理学が語る実体——原子だとか素粒子だとか——は以前に考えられてきたよりもはるかにはっきりしないものであることがわかった。…その一方、生物、行動、社会諸科学がひとりだちのものとなった。一面ではこれらの科学への関心の高まりと、また新しい技術からの要請によって、<科学的概念の一般化>とモデルが必要になり始め、その結果、物理学の伝統的な体系を越えた新しい分野が現われる結果となった」90-1頁

「生物を観察すれば、驚くべき秩序、オーガニゼーション、連続変化の中での維持、調節、また見かけ上の合目的性が認められる。同様に人間の行動の中にも目標指向性と合目的性を見すごすことはできないのであって、たとえ厳格に行動主義的な立場を受容するにしてもそういえるのだ。けれどもオーガニゼーションとか目標指向性とか合目的性とかの概念はまさしく古典科学の体系には現われないものなのだ。実際問題として、古典物理学に基礎をおいたいわゆる機械論的世界観の中では、それらは架空のものか形而上学的なものと考えられた。このことは、たとえば生物学者にとっては、生きた自然のまさに特徴をなす諸問題が科学の正当な分野を越えたところにあるように思われることを意味する。多変量間の相互作用、オーガニゼーション、自己維持、目標指向性等々の側面を表現できるモデル——概念的な、またある場合には物質的でさえあるモデル——の出現は、科学的思考と研究の中へ<新しいカテゴリーを導入すること>を暗に意味する。…
…現代物理学と生物学では、<オーガナイズされた複雑性の問題>、すなわち多数ではあるが無限数ではない変数間の相互作用がいたるところに顔をだし、新しい概念道具を要求している」91-2頁

「科学を拡張して、物理学の中では置きざりにされ、生物、行動ならびに社会科学的現象の特徴的な性質には関係しているような側面を扱うことが必要とされていると思われる。これが、導入されるべき<新しい概念モデル>にほかならない。
…これらの拡張され一般化された理論的な構造あるいはモデルは、学際的なものである——すなわち科学の在来の区分を越えたものであり、いろいろちがう分野の現象に応用できるものである。その結果、いろいろの分野に現われるモデルと一般原理と、特殊法則さえにも同形性が見られることになる。
 要約すると、生物、行動および社会の諸科学と現代工学との内容は、科学における基本概念の一般化を必須のものとしている。これは伝統的物理学でのカテゴリーと対比しての新しい科学思想のカテゴリーを意味している。またそのような目的で導入されたモデルは、学際的な性質を帯びている。
…『全体性』と『オーガニゼーション』の一個の理論へと向かう現在のさまざまなアプローチは統合され統一されることになるかもしれない。じっさい、たとえば不可逆熱力学と情報理論のあいだでのいっそうの総合化というようなことは、ゆっくりと発展しはじめているのだ」92-3頁

「要するに私たちの見解は『ホメオスタシス原理を越えて』とでも定義できよう。
 (1) S-R図式は遊びとか探検活動とか創造性、自己認識、等々の領域を見のがす。
 (2) 経済的な図式はまさに人間特有の達成——漠然と『人間的文化』といわれるものの大部分——を見のがす。
 (3) 平衡原理は、心理的および行動的な活動は緊張の緩和以上のものであるという事実を見のがす。緊張の緩和は最適状態どころか、たとえば知覚をうばう実験の場合などは精神病に近い攪乱を招くこともあるのだ。
 S-R モデルや精神分析モデルは人間の本性の実際と非常にかけ離れた像であり、したがって、かなり危険なもののように思われる。私たちが人類特有の達成と考えるまさしくそのようなものは、功用主義[ママ]、ホメオスタシス、また刺激ー反応の図式のもとには、ほとんどもちきたすことができないものなのだ。…もしホメオスタシス的維持の原理が行動の黄金律だとしたら、最終的な目標はいわゆるうまく順応した個人、つまり最適な生物学的、心理学的、社会学的ホメオスタシスに自らを維持するよく油のきいたロボットということになろう」106頁

「私たちは多くの生物学的、人間的行動は効用とかホメオスタシスとか刺激ー反応とか原理を越えたものであること、そしてそれが実に人間の文化活動に特徴的なものであるという考えにいたるわけである。…
…行動とは単に生物学的衝動を満たし、心理的、社会的平衡を維持することではなく、何かそれ以上のものを含んでいる…心身的な生物体の自発活動性と曖昧に呼んでいる原理は実存主義者がしばしば空虚な言葉を使って言いたいと欲していることを、より現実的に定式化したものである」107頁

「現代のシステム理論の光に照らせば、総体論的か分子論的か、法則定立的か個別記載的かというアプローチの二者択一に厳密な意味を与えることができる。集団〔群衆〕の動きに対してはシステム法則をあてはめることができて、それはもし数学化されうるならば…リチャードソンの用いたような微分方程式の形をとるだろう…これに対して個人の自由選択は、ゲームの理論や決定の理論の定式によって記述できるものであろう」113頁

「『合理性の原理』は大部分の人間的行為よりもむしろ動物の『合理性のない』行動にこそ当てはまる。動物や一般に生物体は『擬合理的(ratiomorphic)』に機能して、維持、満足、生存、等々のような価値を最大にする。一般に彼らは、自分にとって生物学的に良いものを選び、有用さ(たとえば食物)の少ないほうより多いほうをとる。
 これに対して人間の行動は、合理性の原理からだけではとても説明しきれない。人間において合理的行動の占める範囲がいかに小さいかを示すには、フロイトを引くまでもない。…すべての可能性と帰結をひとわたり調べるという合理的選択などしていない。…私たちの社会では、選択を不合理に<させる>のが、有力な一群の専門家たち——宣伝屋、動機研究家、等々——の仕事になっているが…これは本質的には、生物学的諸因子——条件反射、無意識衝動——をシンボル的な価値と結びつけることによってなされるのである」114頁

「文明が『有機体』でないことは生物学者がいちばんよく知っているだろう。生物学でいう有機体(生物体)は、時間と空間のうちにある一つの物質的実体であり統一体であって、別々に分かれた個体から構成されている社会的グループとはちがうものであり、幾世代もの人間と物質的生産物と制度と思想と価値などとから構成されている文明とはなおさら異なるものである」115頁

「製造会社、都市化、労働の分化などのような社会的なものに単純な生長法則が当てはまるという事実は、これらの点では『生物アナロジー』が正しいことを示している。歴史学者たちの抵抗があるにもかかわらず、理論的モデル、特に動力学的な開放および適応システムのモデルを歴史的過程に当てはめることは…たしかに意味のあることである。これは『生物学主義』、つまり社会学的なものを生物学的概念に還元することを意味するのではなく、両方の分野にシステム原理が適用できることを示すものである」116頁

「全体としての生物体を考えてみると、それは平衡状態にあるシステムと似た特徴を示す…
 けれども、生物体の中には平衡状態のシステムがあるようにみえても、生物体自体は平衡システムと考えることのできないものであることは、すぐわかることである。
 生物体は閉鎖システムでなく、開放システムである。システムに物質が全然出入りしないときそれを『閉じている(閉鎖)』と呼び、物質の出入りがあれば『開いている(開放)』と呼ぶ。
 それゆえ化学平衡と代謝を行なっている生物体との間には根本的な対立がある。生物体は、外に対して閉じていて常に一定の成分を含むような静的なシステムではない。それは(準)定常状態にある開放システムであり、成分物質とエネルギーがたえず変化する中でも質量関係が一定に保たれつつ、その中で物質がたえず外の環境から入ったり、また外の環境へ出ていったりしている」118-9頁→

(承前)「定常状態(あるいはむしろ準定常状態)にあるシステムとしての生物体の特性は、そのいちばん大事な区別点の一つである。一般的な仕方で、基本的な生命現象をこのことの諸結果として考えることができる。比較的短い時間範囲で生物について考えてみると、それは成分の交換によって定常状態に保たれている形状(cofigulation)のようにみえる。これは一般生理学の第一の主要分野に対応する——すなわち、化学的、エネルギー論的側面を扱う代謝の生理学である。定常状態の上により小さな過程の波がかさねあわされていて、これは基本的に二種類のものからなる。まず第一にシステム自身の中から由来する、したがって自動的な周期過程がある…第二に、生物体は環境の一時的変化、『刺激』に対して、その定常状態の可逆的なゆらぎをもって反応する。これは外部条件の変化によってひきおこされ、したがって他律的な一群の過程であり、興奮の生理学に含められる。それらは、定常状態が一時的に攪乱されて、そこからまた生物体が『平衡』へ、すなわち定常状態の等しい流れへと復することであると考えられる」119頁

「最後に、生物体の状態を定常状態として規定することは第一近似としてのみ正しいものであり、たとえば代謝の研究のさいに私たちがやるように、『成体』の生物体で短時間のあいだ適用するかぎりでなりたつことを注意しておこう。全生活環をとればその過程は定常でなく、せいぜい準定常であるにすぎず、一定の研究目的のためにそこから抽象してこられる程度のゆるやかな変化はこうむっているものであり、これが胚発生、生長、老化(加齢)、死などというものをなしているわけである。これらの現象は、くまなくというわけではないが形態形成という言葉に包括され、一般生理学の第三の大きな問題群を代表するものである」119頁

「そういう[開放化学]システムは生物学者にとっては大きな重要性をもっている。というのは開放化学システムはじっさい自然の中で、生物体という形で実現していて、自分の成分をたえず交換していく中で自分自身を維持しているからである。『生命は多相システムにおける動的平衡である』(Hopkins)」120頁

出た、動的平衡😅😅😅

「物質とエネルギーのたえまない流れと交換の中でシステムを維持していくことや、このことを許すような仕方でなされている細胞内あるいは生物体内での無数の物理化学反応のもつ秩序や、いろいろにちがう条件下でも攪乱の後でもちがう大きさのときでもつねに成分の比が一定に保たれていることは、生体代謝の中心問題である。同化と異化における生物システムの表裏二面的な変化…一定状態の維持に向かう傾向、変質(退化)によって生ずる攪乱を補償するような更新(再生)をもたらす。…細胞内、生物体内の物理化学的過程について、私たちは非常に多くの知識を持ってはいる。しかし私たちは、『個々の過程の完全な説明がついた後でさえも、一個の細胞の代謝全体を十分に理解することからはほど遠いところにある』…ことを見すごしてはならない。…再三再四、問題が生気論的な結論…に持っていかれてしまったのも驚くべきことではないのである」121頁

「たえず連続的に仕事ができる能力は、できるだけすみやかに平衡に達してしまおうとする傾向のある閉鎖システムにおいてはありえず、開放システムにおいてだけありうる。生物体に見いだされるみかけ上の『平衡』は仕事のできない真の平衡ではない。それは真の平衡から一定の距離をつねに保っている動的準平衡である。それゆえに仕事をすることはできるが、他方、真の平衡から距離を保つためにエネルギーの流入をたえず必要とする。
 『動的平衡』の維持のためには、諸過程の速度が正確に調和がとれていることを必要とする。このようにしてはじめて、一定の成分が壊れて自由エネルギーを放出していく一方で、エネルギーの流入によりシステムが平衡に達するのを妨げることができる。速い反応は、生物体においても、化学平衡に導く…遅い反応は平衡に達せず定常状態に保たれる。したがって、ある化学システムが定常状態に存在するための条件は、反応速度がある程度遅いことである。…生物体で定常状態が維持されるのは、生物体が複雑な炭素化合物からできているという事実による」123頁

F岡S一の元ネタはこのあたりですかね😅

「生物体内システムの特徴として示された諸性質、すなわち『動的平衡』の維持、組成と成分絶対量との独立性、条件や栄養が変動しても組成が一定に維持されること、正常な異化あるいは刺激によって増大した異化の後に動的平衡が再び確立されること、諸過程の動的な秩序、等々は開放システムの性質から導かれる当然の結果である。『代謝の自己調整』は物理学的領原理の基礎にたって理解することができる」128頁

「<等結果性>
 生物学的なシステムの一つの重要な特性は『合目的性』、『目的性』、『目標指向性』、等々の言葉で表わされる。…
 生物体的過程の中での動的秩序にきわめて特徴的な一つの面は<等結果性>と名づけることができる。機械のような構造内で生ずる諸過程は一定の決まった経路をたどっていく。それゆえもし初期条件や過程の経路を変えれば最終状態も変わる。これに対して生物的な過程では初期条件が異なっても途中のみちが異なっても同じ最終状態、同じ『目標』に達する」129頁

「まず第一にそれ[等結果性の一般的な定式化]は、一見形而上学的あるいは生気論的な合目的性の概念に、物理的な定式化を与えうることがわかる。よく知られているとおり、等結果性の現象はドリーシュの生気論のいわゆる『証明』の基礎となっている。第二に、生物の根本的な特性の一つ、すなわち生物が熱力学的平衡状態にある閉じた系でなく(準)定常状態にある開放システムという事実と、もう一つの特性である等結果性とが、密接な関係にあることがわかる。…
…しばしば生気論的あるいは神秘的に考えられてきた生物のシステムの多くの特性が、システム概念といくつかのかなり一般的なシステム方程式から熱力学的、統計力学的考察と結びついた形で導かれる…
…個々の生物学的現象の理論は私たちの一般方程式の特殊例であることがわかるであろう」130-1頁

「<生命機械とその限界>
…正常と病気と死んだ生物体の違いは何か? 物理学や化学の立場からいえば、いわゆる機械論にもとづいては違いを規定できないという答にならざるをえない。…
 ところが生きた生物体と死んだ生物体の間には根本的な差違[ママ]があって、生きている生物体と死んだ生物体を区別するには通常何の困難もない。生きものでは無数の化学的および物理学的な過程が、その生きているシステムの存続、生長、発育、生殖などを許すような形で『秩序づけられ』ている」135頁

「成功にもかかわらず、生物体の機械モデルにはそれなりの困難と限界がある。
 まず第一に<機械の起原>の問題がある。かつてのデカルトにはこの問題はなかった。というのは彼の動物機械は聖なる時計作りの創作であったから。しかし方向性のない物理化学的事象の世界では、どのようにして機械というものが現われたのだろうか。…私たちはもちろんダーウィン流の説明を知っている。しかし、とりわけ物理学的な心で思いめぐらしてみると疑問は残る。進化について書かれた教科書にはふつう書かれてないか答えていないかする疑問が残る」136頁→

(承前)「第二に<調節>の問題がある。たしかに現代のオートマトン(自動機械)の理論からして自己修復機械というものは考えられる。勝手な攪乱を与えたのちの調節や修復を考えると問題がでてくる。…攪乱がどこで機械あるいは自動機械としての生物体から去ってくれるのだろうか。よく知られるとおりこうした種類の生物的調節は、生命機械がいわゆるエンテレキーと呼ばれる超物理学的な作用によって制御され修復されている証拠として、生気論者が利用したものである。
 以上の二つよりずっと重要なのは第三の疑問である。生きている生物体はたえず成分の交換を続けながら一定に維持されている。代謝は生きているシステムの基本特徴である。いわば、たえず自らを消費しながら自らを維持しつづける燃料からなる機械が、ここにある。そういう機械はこんにちの技術の中にはない。別の言葉でいえば、生物体が機械類似の構造をもつことは生命過程の秩序を究極的に説明する理由とはなりえない。なぜならその機械自身が、秩序づけられた過程の流れの中で維持されているのだから。したがって第一義的に重要な秩序は過程そのものの中にあるのでなければならない」136-7頁

「開放システムは環境とのあいだで物質の交換を行なっていて、入るものと出るものがあり、その物質成分を組みたてたり壊したりしているシステムである。…
 単純なものでさえ開放システムはいちじるしく注目すべき特徴を示す。一定の条件下では、開放システムは時間に依存しない状態、いわゆる定常状態(von Bertalanffy, 1942のいう<動的平衡>😅)に達する。定常状態は真の平衡からある距離のところで維持されるもので、したがって仕事をすることができる。生物システムの場合にも見られるとおり、それは平衡状態にあるシステムとは対照をなすものである。たえまなしに不可逆な過程、つまり出たり入ったり、組みたてたり壊されたりが生じているにもかかわらず、システムは構成が一定のままに保たれる。定常状態はいちじるしい調節の特徴を示し、それは等結果性ということにおいて特によく見てとられる。開放システムでは定常状態が達せられると、それは初期条件に依存せず、システムのパラメータ、つまり反応速度や輸送速度によってだけ決定される。これが多くの生物過程、たとえば生長の場合に…見いだされる<等結果性>と呼ばれるものである」137-8頁→

(承前)「それゆえ閉じた物理化学的システムと対照的に、異なった初期条件から出発したり過程に攪乱を与えたりしても、同一の最終状態が等結果的に達せられる。さらに、化学平衡の状態はその過程を促進する触媒に無関係だけれども、それと対照的に、定常状態は、存在する触媒とそれらの反応定数とに依存する。開放システムでは、<いきすぎ>(overshoot)や<出足の遅れ>(false start)の現象…がおこって、最初は逆の方向に進んでも、けっきょく最後には定常状態に導かれる。また、生理学でしばしばいきすぎと出足の遅れの現象が見られるということは、開放システムにおいての過程を扱っているのだということを示している。
 熱力学の見地からいうと、開放システムは自らを統計的に高度に不確実な状態、秩序とオーガニゼーションをもつ状態に維持することができる」138頁→

(承前)「熱力学の第二原理に従えば、物理学的な過程の一般傾向はエントロピーを増す方向、すなわち確率を増し秩序を減らす状態に向かう。生物システムは自らを高度の秩序と不確実性の状態に維持し、あるいは生物体の発育と進化の場合のようにオーガニゼーションを増す方向に進みさえする。そのへんのわけはプリゴジーヌの拡張されたエントロピー関数の中に与えられている。閉鎖システム中では、エントロピーはつねにクラジウスの方程式に従って増大する。
 dS≧0
…開放システムではそれと対照的に、エントロピーの全体の変化はプリゴジーヌに従えば次のように書かれる。
 dS=deS+diS
…deSは移入によるエントロピーの変化を意味し、diSはシステム内の不可逆過程、たとえば化学反応、拡散、熱輸送などによるエントロピー生成を意味する。diSの項は第二原理に従ってつねに正である。deSのエントロピー輸送のほうは、正でも負でもありうる。負になるのは、自由エネルギーの潜在的な担い手としての物質、すなわち『負のエントロピー』が入ってくることによる。これが生物体システムにおける負エントロピー傾向の基礎であり、『生物体は負のエントロピーを食べる』というシュレーディンガーの言葉の基礎でもある」138-40頁

「開放システムは普通の閉鎖システムに対して通常の物理法則に矛盾するようにみえる特徴を示す。こうした特徴はしばしば、生命の生気論的特徴、すなわち物理法則に従わず、生命事象に生気の類とかエンテレキー的要因をもちこんではじめて説明できると考えられた。生物的な調節の等結果性などはたしかにそうであって、たとえば、同一の『目標』である正常な生物体が、正常な卵からも分割された卵からも、二つくっつけ合わせた卵からも作られるというようなことがある。じっさいにこれはドリーシュによれば、もっとも重要な『生気論の根拠』であった。同じように、物理的自然においてエントロピーと無秩序が増加していく傾向と、発生や進化での負エントロピー傾向のみかけ上の矛盾は、しばしば生気論の論証として用いられた。そうしたみかけ上の矛盾は、物理学理論を開放システムへ拡張、一般化するとともに消えてしまうものである」140頁

「何年か前に、生命の基本特徴となる、代謝、生長、発生、自己調節、刺激に対する反応、自発的な活動、等々は結局は生物体が一つの開放システムであるという事実の結果からくると考えられることを指摘した。それゆえ、このようなシステムの理論はいろいろな面の異質の現象を同じ一般概念のもとに結びつけ、定量的な法則をひきだすべき統一原理となるであろう。私はこの予言がほぼ正しいことがすでに証明されて数多くの研究によって検証されていると信じている[😅]。
…開放システムの理論は<一般システム理論>の一部分である。この分野は、要素の性質やそれらを支配する力のいかんにかかわらずひろく一般のシステムに適用できる原理を論ずるものである。一般システム理論はもはや物理的、化学的な実体がどうであるということは論じない[😅]。完全に一般的な性質をもつ全体というものについて議論をするレベルに達する。だが開放システムのある種の原理は、種間の競争と平衡を扱う生態学から、人間の経済学その他の社会的分野まで、広い範囲に依然としてなりたち、成功裏に適用できるものである」144-5頁

「<開放システムとサイバネティクス>…
 開放システム・モデルの基礎はその要素の動的な相互作用にある。サイバネティクス・モデルの基礎はフィードバック・サイクル…にあり、このサイクルは情報のフィードバックによって、望む値(目標値)を維持したり、標的に到達したりする。開放システムの理論は一般化された反応速度論と熱力学である。サイバネティクスの理論はフィードバックと情報に基礎をおく。…
 反応速度論的および熱力学的形成の開放システム・モデルは情報については語らない、[ママ]他方、フィードバック・システムは熱力学的および反応速度論的には閉じている。それは代謝をもたない。
 開放システムでは秩序の増加とエントロピーの減少が熱力学的に可能である。その大きさである『情報』は、負のエントロピーと形式的に同じ式で定義される。けれども閉鎖的なフィードバック機構の中では情報は減少する一方であり、けっして増加しない。すなわち情報は『ノイズ』に変換されうるが、その逆はない」145頁→

(承前)「開放システムは『能動的に』より高度のオーガニゼーションの状態へ向かってゆくことがある。すなわち、システムの条件に従って秩序の低い状態から高い状態に移ってゆくことがある。フィードバック機構は『学習』によって、すなわちシステムに供給された情報に『反応』して、より高いオーガニゼーションの状態に達することができる。
 要するに、フィードバック・モデルはもっぱら『二次的』な制御、すなわち、言葉の広い意味での構造配置に基礎をおく制御に適用されるものである。けれども生物体の構造は、代謝と成分の交換との中で維持されているのであるから、『一次的』制御は開放システムの動力学から由来するものでなければならない。生物体は発生の過程でだんだんと『機械化』される。そのため後期になっての調節は、特にフィードバック機構に対応したものとなる(ホメオスタシス、合目的的行動その他)」145-6頁

「ここで私たちがとりあげている根本問題は、私の信ずるには、こんにちの生物学の信条が『じゅうたんの下に敷きこんで隠してしまった』たぐいの問題である。…
 これに対しては、淘汰(選択)とか競争とか『最適者の生存』とかはすでに自己維持システムの存在を<前提>していることを指摘しなければならない。それゆえ自己維持システムは淘汰の<結果>ではありえない。…最大の子孫を生みだす遺伝子型の選択というようなことは、ほとんど助けにならない。増殖力の差によるのならば、いったい進化が増殖率ではかなうもののないウサギ、ニシン、それどころか細菌を越えてなぜ進んだか理解することはむずかしい[😅]。局所的に高度の秩序(および低確率性)をもつ状態を作ることが物理学的に可能なのは、ある種の『オーガニゼーションの力』が場面に登場しているときに限る。…けれどもそういうオーガニゼーションの力は、ゲノムを『タイプの打ちまちがい』の蓄積と考えるときには、あからさまに否定されているのだ」147-8頁

「遺伝的調節に関するある種の実験は、遺伝の基礎にそのようなオーガニゼーションが存在することを示している。そうした効果は進化の巨視的な法則においても研究されるべきものであろう…私はそれゆえ現在一般に受けいれられている『進化の総合理論』はせいぜい部分的な真理であって、完全な理論ではないと信じている。さらに生物学的研究を積み重ねること以外に、開放システムの理論やそれの現在の境界線上の問題の中で、物理学的考察がとりいれられなければならない」148頁

フォロー

「一般システム理論はその源泉を有機体論の考えにもっている。ヨーロッパ大陸で、この考え方は著者…によって1920年代に展開されたが、これと並行したものがアングロサクソンの国々にも(Whitehead, Woodger, Coghillその他)、また心理学でのゲシュタルト理論(W. Köhler)にもあった」203頁

「重力や電気のような物理学的な力と違って、生命現象は有機体と呼ばれる個体的のものの中にしか見いだされない。すべて有機体は一つのシステムである。すなわち相互に作用を及ぼしあう部分と過程との動的な秩序である」203頁

「生きた生物体は開放システムの定常状態と呼ばれる非平衡状態を保ち、これで自発的な活動とか解発刺激に対する反応とかのさい、既存のポテンシャルないしは『緊張』を消費していくことができるのである。生物体はますます高次の秩序とオーガニゼーションに向かって前進することもある」204頁

「一般に次のようなものにはホメオスタシスの図式はあてはまらない。(1)力動的制御——つまり固定された機構にもとづくのでなく、全体として機能するシステムの中で動く制御…(2)自発活動。(3)目標が緊張の緩和でなく増大となるような過程。(4)生長、発育、創造といったような過程。ホメオスタシスは非効用的な——いいかえれば自己保存とか生存のような一次要求にも、また多くの文化事象のようなそこからの二次派生物にも役立たない——人間活動に対しては説明原理として不十分であるということもできよう。…
…彼[キャノン]は、ホメオスタシスを越えた、『このうえもなく貴重だが不可欠ではないもの(priceless unessentials)』のこともはっきり強調しているのである」206頁

「生物体は機械とは違うものであるが、ある程度までは機械となる。機械へと凝固することができる。けれども完全にではない。というのは徹頭徹尾機械化されてしまった有機体は、たえまなく変化する外界の条件に反応できないだろうから…<前進的機械化の原理>というのは未分化の全体からより高度の機能への変換を述べたものであるが。これは特殊化という『分業』によって可能となる。この原理はまた、成分要素における潜在能力と全体の調節性が失われることをも意味している。
 機械化の結果としてしばしば、<指導部分>、すなわちシステムのふるまいを統率する成分要素ができてくる。そのような中心は『因果連鎖の引き金』となることができる。すなわち『原因は結果と等価である(causaa equat effectum)』という原理とは対照的に、指導部分の小さな変化が<増幅機構>によってシステム全体に大きな変化をもたらす。こうして、部分と過程の<階層秩序>ができあがる」208頁

「いかなるシステムもそれ自体として研究可能であるためには、空間的にせよ時間的にせよ、境界をもたねばならない。厳密なことをいうと、空間的な境界というのは素朴な観察においてのみ存在するだけであり、すべての境界は究極的には動的に変化するものである」210頁

「生物的要求の直接的な満足を除くと、人間は事物のではなしにシンボルの世界に住んでいる…またこうも言えるのであろう。物質的であるか否かを問わず人間の文化を動物の社会と区別するいろいろなシンボルの世界は、人間の行動システムの部分、それもおそらくもっとも重要な部分である。人間が理性的動物であるかどうかはたしかに疑うにたりるが、人間が徹底してシンボルを創造し、シンボルに支配された存在であることは確かである。
…人間行動を特徴づけるのに使われるおそらくすべての概念がシンボル活動の結果あるいは異なった側面である…こうしたものはすべて創造的なシンボルの世界という根から由来するもので、それゆえに生物学的衝動と精神分析的本能とか満足の強化その他の生物学的要因には還元できない。<生物学的価値>と<人間特有の価値>との違いは前者が個体の維持と種の存続とに関係するのに対し、後者はつねにシンボルの世界に関係していることである」211頁

「物質と精神、外の客体と内なる自我、脳と意識、等々の<デカルト流二元論>は直接の現象論的経験に照らしても、またいろいろな分野の最近の研究からみても誤りだということである。これは元来17世紀の物理学から発する概念化であって、現在の論争の中でも相変わらず広く見られるけれども…すでに時代遅れのものである。現代の見方からすると科学は、唯物論的なものであれ観念論的なものであれ、あるいは実証主義的に感覚資料を至上とするものであれ、形而上学的な言明はしないものとなっている。それは経験の限られた側面をその形質構造の中に再現するための概念構築である。行動と心理の諸理論はその形式構造においても似たもの、つまり同形となるべきであろう。システムの概念はおそらくそのような『共通の言語』の最初のものであろう…遠い将来にはこの方向の発展は『一元的統一理論』を生みだして…物質と精神、意識と無意識といった二側面がそこから最終的に導きだせるようになるかもしれない」215-6頁

「現代進化学者はランダムな突然変異と淘汰(選択)の理論によって導かれていて、生物体が明らかに偶然によって混ぜ合わされた形質あるいは遺伝子の組みかさね以上のものである事実を見ようとしない」231頁

「一般的にいえば、解析型の人はいわゆる『分子論的』解釈、すなわち現象を基本的な要素にまで分解し還元することに興味をもち、一方、全体論型の人は『団塊(モル)的』解釈、すなわち現象を全体として支配している法則に興味をもつ。この両者を対抗させることは科学に多大な損失を与えてきたのであって、自明かつ最重要な特性が要素主義的なアプローチでしばしば無視あるいは否定され、反面、全体論的なアプローチでは解析の根本的な重要性と必要性が否定されたりしてきた」231-2頁

自らの全体論(システム論)を「型」として相対化してしまっているような…😅

「直接経験に関するかぎり、その生物種の生物生理的オーガニゼーションによって決まる知覚のカテゴリーが、完全に『まちがいである』とか偶然あるいは任意のものだとかいうことはありえない。むしろそれらは、一定の仕方で一定程度までは、『実在』——これが形而上学的意味において何をいうにせよ——に対応しているのでなければならない。人間を含めてすべての生物は、単なる見物人ではない。すなわち世界の舞台をただ眺めているだけで、それゆえ神や生物進化や文化の『魂』や言語が気まぐれに彼の形而上学的鼻先にのせてくれためがねを、像がどんなに歪むしろものでも自由に掛けていい、というものでもない。むしろ彼はドラマの反応者であり能動者(役者)なのだ。生物は外界からやってくる刺激に対して、その生まれつきの心理物理的装置に従って、反応しなければならない。何が刺激、信号、そしてユクスキュルのいう意味での特徴として取上げられるかについては一定の許容範囲はある。けれども、その知覚は動物がその世界の中でうまく生きていくことを許さなければならない。このことはもし空間、時間、物質、因果性といった経験の諸カテゴリーがまったく偽りのものであったなら不可能であろう」233頁→

(承前)「経験のカテゴリーは生物進化の中で生じ、生存競争の中でたえず自らを正当化しつづけてきたものである。もしこれらが、何らかの仕方で実在に対応しているのでなければ、正しい反応は不可能であり、したがってそのような生物は淘汰によりすみやかに消滅してしまったであろう」233頁

ここでフォン・ベルタランフィーは突如としてウォーフ&ユクスキュルの相対主義を脱して、珍しく自然淘汰説に正しく帰依しておる😅

「人間は生物学的理由により本質的に、彼が投げ入れられた世界における実践者、行為する存在(ens agens)でなければならない。それなのに人間を一次的には傍観者として思索する存在(ens cogitans)と見ることは、プラトンからデカルトおよびカントにいたる古典西欧哲学のいちばん重大な欠点であるように思われる」233-4頁

「ローレンツ…は、経験の『先験的な』形は動物が仲間や異性や子や親や餌や捕食者その他の外界の状況に反応するときに従う本能行動の先天的図式と本質的に同じ性質をもつことを、説得力をもって示した。…直観とカテゴリーの『先験的な』形は、何百万年もの進化の中で適応的に進化してきた感覚器官と神経系の身体構造、さらには機械類似の構造でさえあるものに基盤をおくような、生物体の機能である。それらは馬のひずめがステップ地帯に適応し、魚のひれが水に適応しているのとまさしく同じように、そして同じ理由で『実在の』世界に適応している。人間のもつ経験の形だけが唯一可能なもので、すべての合理的存在に対して有効だと仮定するのはさかだちした擬人観である。これに対し、経験の諸形態がいく百万年にわたる生存競争の中で試されてきた一つの適応装置だとする考えは、『外見』と『実在』との間に十分な対応のあることを保証するものである。どんな刺激でもそのままの形で経験されるのではなくい生物がその刺激に反応した形のものとして経験されるのであり、この意味で世界像は心理物理学的なオーガニゼーションにより決定される」234頁

最終盤で適応主義者に豹変するフォン・ベルタランフィー😅

「ピラトの『何が真理か』という疑問には次のように答えるべきである、動物や人間が現在存在しているという事実がすでに、彼らの経験の形がある程度実在に対応していることを証明しているのだと。
…経験のカテゴリーが完全に実在の世界に対応する必要はないし、ましてそれを完全に表現する必要はない。刺激から選びとられたむしろ小さな一部分が、導きの信号として使われれば十分なのである——そうしてこれがユクスキュルの主張であった。これらの刺激の結びつきぐあい、すなわち経験のカテゴリーに関していえば、実際の出来事の網目をこれがそのまま鏡のように映す必要はないが、一定の許容度の範囲内でそれと同形でなければならない。…生物学的理由により、経験が完全に『まちがって』おり、任意のものであるということはありえない。しかし一方、経験が生物にその存在を続けさせるような形で導きを与えうるためには経験世界と『実在』世界との間に一定程度の同形性が存在することで十分である。…
…知覚と経験のカテゴリーは『現実』世界をそっくりそのまま映す必要はない。ただしかし、自らの位置を正しく定め生きのびることができる程度にはそれと同形でなければならない」234-5頁

「空間、時間、物質、因果関係といった直観とカテゴリーの周知の形は、人間という動物が生物学的に適応している『中くらいの大きさ』の世界で十分その役割を果たしている。…
 さて科学の世界に入ってくると、物理学的世界を数えきれないほどの生物学的外界の一つにすぎないとするユクスキュルの考え方は、まちがっているか少なくとも不完全なものとなる。ここでは漸進的な科学の脱擬人化ともいうべききわめて顕著な傾向が生じている。…
 科学が次第に脱擬人化する、すなわち、人間特有の経験に負うような性格のものを次第になくしてゆくことは、科学のもつ本質的特性である。…
…観測可能なものを拡げていくのが科学の一つの機能である。機械論的見方と反対に、私たちはこの拡張につれて別の形而上学的な領域に踏み込んでいくわけではないことも強調しなければならない。…
…いずれこうしたことは、人間特有の心理物理学的オーガニゼーションによって課せられている経験の限界をとり去り、またこの意味で、世界像の脱擬人化に行きつくことになる」236頁

限界突破😅

「要素論的な性質に対する全体論的なもの——後者も前者に劣らず『実在の』ものなのだが——を取り入れることができるためには最大限の努力を払わねばならない」239頁

「私たちは遠近法主義(perspectivism)とでもいうべき見解に到達する…『還元主義者』の主張では、ありとあらゆる科学と実在のすべての側面とが最後に還元されていくべき唯一のものは物理学的理論であるとするが、それに代わって、私たちはもっとつつましい見解を採る。…私たちがどんなシンボリズムを採るか、したがってまた実在のどんな側面を表現しようとするかは生物的、文化的因子に依存する。物理学の体系については、特異なものやとりわけ聖なるものはない。私たち自身の科学の内部では、他のいろいろのシンボリズムたとえば分類学のそれ、遺伝学のそれ、芸術史のそれのようなものが、精密さが同じとはとてもいえる滋養体にはないが、どれも等しく適法なはずである。そして人間の他の文化や、人間と異なる知性の世界では、実在の他の側面を私たちのいわゆる科学的世界像と同程度あるいはそれ以上にさえ反映する、根本的に異なった種類の『科学』が可能かもしれない」240頁

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