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「システムのうちには、その本性と定義そのものからして閉鎖システムではないシステムもある。生きた生命体はどれも本質的に開放システムである。生物体は成分の流入と流出、生成と分解の中で自己を維持しており、生きているかぎりけっして化学的、動力学的平衡の状態にはなく、それとは違ういわゆる定常状態にある。これこそ代謝と呼ばれるあの生命の根本現象、すなわち生きている細胞内での化学過程の本質である。この場合にはどうなるか? 明らかに物理学の伝統的なやり方は、開放システムでありかつ定常状態にあるものとしての生物体には原理的に適用できない」36頁

「等結果性(equifinality)の原理…閉鎖システムでは、最終状態はかならず初期条件によって一義的に決められてしまう。…これが開放システムだとそうならない。開放システムの場合にはいろいろ異なった初期条件と異なった方法からも同一の最終状態に達する。これがいわゆる等結果性であり、生物学的調節の現象にとって重要な意味を持っている。生物学史に親しい人ならば、ドイツの生物学者ドリーシュを生気論に導いたのがまさしく等結果性であったことを思いだされるだろう。生気論とは、生命現象は自然科学の言葉を用いては説明できないとする教義であった。ドリーシュの主張は胚の初期発生についての実験にもとづくものであった。完全な卵からでも、半分に割った卵のそれぞれからでも、完全な卵を二つくっつけたものからでも、同じ最終結果、すなわちウニの正常な個体が一つできるのである。同じことは人間を含む他の多くの種にもあてはまり、一卵性双生児というのは一つの卵が割れた結果生まれる。等結果性はドリーシュによれば、物理学の法則にそむくものであり、正常な生物体を作りあげるという目標をめざして過程を支配する霊魂まがいの生気要因がなければ不可能だという」37頁

「エンテレキー」ですな😅

「もう一つ無生物的自然と生物的自然との間で一見して対照をなすのは、ときにロード・ケルヴィンの崩壊(degradation)とダーウィンの進化(evolution)の間のまっこうからの矛盾と称せられたもの、つまり物理学における消尽の法則と生物学における進化の法則との矛盾である。…熱力学の第二法則…ところがこれと反対に生物の世界で見られることは、胚発生でも進化でも、より高い秩序と異質性とオーガニゼーションへと向かう推移である。しかし開放システムの理論をもとにすれば、エントロピーと進化のみかけの矛盾もなくなる。…閉鎖システム中のエントロピー変化はつねに正である。つまり秩序はたえず崩される。ところが開放システム中では、不可逆過程によるエントロピー生成ばかりでなく、負と称してもよいようなエントロピーのとりこみがある。自由エネルギーの高い複雑な分子をとりこんでいる生きた生物体中でおこっているのはこれである。つまり自らを定常状態に保っている生物システムは、エントロピー増加を避けることができるし、高度の秩序とオーガニゼーションの状態へ向かって進むことさえできる」37-8頁

「生物内自然において物理学法則が破られると考えられていた多くの例は実際には存在しない、というよりむしろ物理学理論の一般化とともに消えうせることがわかった…一般的にいえば、開放システムの概念は非物理学的なレベルに使うことができる」38頁

「工学でも生物界でもきわめて多種多様なシステムがフィードバックの図式に従っている。そうしてこういう現象を取扱うために、サイバネティクスと呼ばれる新しい学問が、ノバート・ウィーナーによって導入されたことはよく知られている。この理論は、人工機械でも生物体でも社会的システムにおいてフィードバックの性質をもった機構が目的論的あるいは目的指向的ふるまいの基礎になっていることを示そうとするものである」40頁→

承前「けれども心にとめておかなければならないのは、フィードバック図式はむしろ特殊な性質をもったものであるということだ。…生物体での多くの調節は本質的にフィードバック式のものとは異なった性質をもっている。すなわち過程どうしの動的な絡みあいによって秩序が産みだされるようなものである。…生物システムでの<一次的>な調節、つまり胚発生においても進化においてもいちばん基本的で根元的なものは、動的な相互作用を本質とすることを示すことができる。これは生物体が、自らを定常状態に保ち、もしくは定常状態に近づこうとする一つの開放システムであるという事実にもとづいている。このようなものの上に重ね合わされて、私たちが<二次的>と呼ぶ調節がある。この二次的調節が、特にフィードバック型の固定した配置によって制御されているのだ。このような事情は、前進的機械化と呼んでもよいオーガニゼーションの一般原理の産物である。最初にはシステムは——それが生物学的なものであれ、神経学的、心理学的、社会学的なものであれ——その成分の動的な相互作用によって支配される。それからのちに、固定した配置と束縛条件が確立してきて、これによりシステムとその部分はいっそう効率的にはなるが、しかしその反面、その等可能性はだんだんと減じ、最後にはなくなってしまう」41頁

「<因果性と合目的性>
…19世紀の古典物理学から生じた機械論と呼ばれる世界観では、仮借ない因果法則で支配される原子の無目的なふるまいが、無生物、生物、心的なものを問わず世界のあらゆる現象を生みだしていた。目的指向性、秩序、目的などの入りこむ余地はなかった。生物の世界もランダムな突然変異と淘汰(選択)の無意味な行為のつみかさねによる偶然の産物と考えられた。心の世界は物質的なできごとへの奇妙でなにやらわけのわからない付帯現象とされた。
 科学の唯一の目標は分析することのように思われた。いいかえれば実在を限りなく小さな単位に分け、因果連鎖の個々の環をばらばらにしてみせることであった。こうして物理学的実在は質点や原子に分割され、生物体は細胞に、行動は反射に、知覚は時々刻々の感覚作用に、と分割された。それと対応して、因果関係は本質的に一方向的であった。…古典科学の基本概念を要約しようと試みたカントの有名な範疇表を思いだしてみるとよい。相互作用とオーガニゼーションの概念は埋め草にすぎないか、あるいはぜんぜん現われさえしないことがその特徴である」41-2頁→

(承前)「私たちは現代科学の特徴として、ばらばらな単位が一方むきの因果関係のもとに作用するというこの図式では不十分であることがわかったことをあげることができよう。つまり科学のあらゆる分野に、全体性、全体論、有機体的、ゲシュタルトなどの概念が現われてきたのであって、これらすべては、結局たがいに作用しあう要素からなるシステムという目でものを見なければならないことを意味している。
 同様に合目的性や目的指向性の概念も科学の枠外のものとされ、ふしぎな、超自然的な、あるいは擬人的ななにものかの活躍舞台となってきた。さもなければこうした概念は、科学とは本質的に無縁のにせの問題であり、無目的な法則によって支配される自然の上に、観察者の心をまちがって投射したものにすぎないとされた。しかしながらこうした側面はたしかに存在するものであり、適応性、合目的性、目標指向性その他類似の言葉でさまざまに、かなりいいかげんに呼ばれるものを考えにいれずには、行動や人間社会はいうまでもなく、生きた生物体を考えることも、できるものではない」42頁

「強調したいのは、特徴的な最終状態や目標に向かう目的論的な行動が自然科学の立入禁止区域ではないことだ。また、それ自体としては方向性をもたず偶然であるような過程をまちがって擬人的にとらえているものでもないことである。逆にむしろそれは科学的な言葉で十分定義できるし、その必要条件や可能な機構も示すことのできる行動の一形式なのだ」43頁

「オーガニゼーションも機械論の世界にとって異質のものであった。…現代物理学ではたしかに話がちがってきている。ホワイトヘッドがまちがいなく強調したように、原子も結晶も分子もオーガニゼーションなのだ。生物学では、生物体(organism, 有機体)は、定義からして、オーガナイズされたものである。…
 生きた生物体であれ社会であれ、オーガニゼーションの特性は全体性、生長、分化、階層的秩序、優位性、制御、競争、等々の概念である。このような概念は伝統物理学には現われてこない。システム理論はこうしたことがらをうまく扱える。このような概念はシステムの数学的モデルの範囲内で規定できるのだ」43-4頁

「これまで科学の統一といえば、あらゆる科学を物理学に還元すること、あらゆる現象を物理学的なものに最終的に分解することとみられてきた。私たちの見地からは、科学の統一はもっと現実味を帯びた視点を得ることができる。世界の統一的な理解の基礎は、あらゆるレベルの実在を物理学のレベルに最終的に還元するというおそらくむだであり明らかに行きすぎた望みにではなく、むしろいろいろな異なる分野での法則の同形性に求められるだろう。『形式的(formal)』とよばれてきたいい方でいえば、つまり、科学のもつ概念構造に眼をつけるならば、これは私たちが適用している図式の構造的な一様性ということを意味する。『物質的(material)』な言葉でいえば、それは、世界すなわち観察しうる事象の総体が構造的統一性を示し、異なったレベルあるいは領域で同形的な秩序の痕跡が現われていることを意味する」45頁→

(承前)「こうして私たちは還元主義と対照的な一つの概念、すなわち遠近法主義(perspectivism)とでも呼ぶべきものに達する。生物的、行動的、社会的レベルのものを最低次のレベルである物理学の構成と法則のレベルに還元することはできない。けれども個々のレベル内での構成と可能な法則を見いだすことはできる。世界はオルダス・ハクスリーがかつて指摘したように、ナポリ風アイスクリーム[三色アイス]のようなもので、チョコレート、イチゴ、バニラの層がそれぞれ、物理的、生物的、社会的および精神的レベルを現わしている。イチゴはチョコレートに還元できない——私たちがせいぜい言えることは、せんじつめていくとたぶんすべてはバニラであること、すべては心あるいは精神であるということだろう[😅]。統一原理は、私たちがすべてのレベルにオーガニゼーションを見いだすことである。…世界を大きなオーガニゼーションとみるモデルは、おそらく、最近数十年の血なまぐさい人類史のなかでほとんど見失われてしまった生命への尊敬の気持を回復するのに役立つことだろう」😅 45-6頁

「ある要素の総和的特性とは、複合体の内にあっても外にあっても同じであるような特性であるともいうことができる。したがってそれらはばらばらにしたとき知られる個々の要素の特性とふるまいを全部たし合わせることによって得られる。構成的特性とは、複合体内部での特定の関係に依存するようなものである。したがってそういう特性を理解するためには、部分だけでなく関係も知らなければならない」50頁

「いくぶん神秘的な表現で『全体は部分の総和以上のものだ』などというがその意味は要するに、構成的特性は、それゆえ、要素のそれと比べると『新しい』ものもしくは『創発的な』もののようにみえる。…総和というものは次第次第に作られていくものと考えることができるけれども、相互関係を有する部分の総体としてのシステムはいちどきに作られるものとしてみなければならないのだと。
 物理学などでは、こんなことをいってもはじまらないと思われるかもしれないが、生物学や心理学や社会学ではこれが問題となりうるし、概念の混乱をひきおこしてもいるのだ。それというのもまさしく機械論的な考え方、すなわち現象を独立の要素と因果連鎖に分解して相互関係は省みない傾向のもつ誤まりのゆえである」51頁

「システムとは相互に作用する要素の複合体と規定できる。相互作用とは要素pが関係Rにおいて存在すること、したがってRの中での一つの要素pのふるまいが別の関係R’の中でのそのふるまいと異なることを意味する。もしRとR’の中でのふるまいにちがいがなければ相互作用はなく、その要素は関係RおよびR’に関して独立にふるまう」51頁

「ヴォルテラの方程式で興味ある結果は、同一資源をめぐる二種の生物の競争のほうが、ある意味では捕食者ー被食者関係(食う食われるの関係)——つまり他方の種による一方の種の部分的滅亡——よりもずっと致命的である点だ。競争は最終的には、生長能力が小さいほうの種の絶滅をもたらす。食う食われるの関係ならば、ただ関係する種の個体数が平均値を中心として周期的に振動するだけである。こうした関係は生物共同体のシステムについて述べたものだけれども、社会学的な意味も充分持つといえるのではなかろうか」60-1頁

「『システム』といえば『全体』とか『統一体』を意味する。そうすると、全体に関してその部分間の競争というような概念を導入することは矛盾するように思われる。けれども実際には、この明らかに相反する命題はともにシステムの本質に根ざしている。あらゆる全体はその要素の競争を基礎としてその上になりたっており、『部分間の競争』(Roux)を前提としている。部分間の競争ということは、単純な物理ー化学システムにも生物や社会的単位にも見られるオーガニゼーションの一般原理であり、結局それは実在が示す<反対物の一致>の一表現なのである」61頁

「総和性を定義すれば最初ばらばらな要素を次々につけ加えることによって複合体を作り上げることができるようなもの、といえよう。逆に、この複合体の特性はばらばらの要素のそれへと完全に分析できるようなものだといって定義できよう。…しかしドイツ語で『ゲシュタルト』と呼ばれるようなシステムには当てはまらない」62頁

「ラッセル卿の本…には『有機体の概念』の拒否を示すやや驚くべき言明を見いだす。…『どんな場合にでも作業仮説としては機械論的見解を採用するのが賢明であって、それに明らかに反するような証拠があるときにのみそれを棄てるのがよい。生物学的な現象についていえば、そのような証拠は、これまでのところまったくない』…
…だがまさしく基本的で第一義的な生物現象に関しては、ラッセルのいっていることは根底から誤っている。胚の発生、代謝、生長、神経系の働き、生物共同体など、どの生物現象の領域でもよいからとりあげてみれば、つねに見いだされるのは、システムの中にあるときと切り離されたときでは要素のふるまいが異なっていることだ。全体のふるまいをばらばらの部分からたし合わせて作ることはできないし、部分のふるまいを理解するにはいろいろな下位システムと上位にあるシステムの関係を考慮に入れなければならない。分析と人為的隔離は生物学的実験と推論の方法として有用である。しかしけっして十分ではない」62-3頁

「物理学的システムではあまりないことだが生物学的、心理学的、社会学的システムでは普通でかつ基本的なもののようにみえる場合がある。それは要素間の相互作用が時間とともに減少していく場合である。…
 この場合にはシステムが全体性をもった状態から各要素が相互に独立の状態へ移ってゆく。最初の状態は統一的なシステムのそれだがこれが次第にたがいに独立な因果連鎖に分裂してゆく。<前進的分離>と呼んでよいであろう。
 原則として、原子とか分子とか結晶とかの物理学的全体のオーガニゼーションは、以前から存在した要素の結合の結果としてできあがる。これに対して生物学的全体のオーガニゼーションは、もとの全体の分化によって作りあげられ、全体が部分に分裂していく。…
 生物界で分離化が優位を占めている理由は、下位の部分システムの分裂化がシステムの複雑性を増すことになるからであるようにみえる。そのようないっそう高度の秩序への移行にはエネルギーの供給が前提となり、エネルキーがシステムへとたえず渡されるのはそれが開放システムであってエネルギーを環境からとりこむときに限る」63-4頁

「全体性を保った状態にあるときには、システムが攪乱をうけると新しい平衡状態が作られることになる。けれども、もしシステムが個々の因果連鎖に分割されていると、それらは他と独立に動いていくだろう。機械化の増加が意味するところは、要素が次第に自分自身にだけ依存して働くようになることで、その結果、全体としてのシステムでならば相互関係の存在にもとづいてひきつづき存在していたはずの調節能力が失なわれていく。相互作用係数が小さくなるほど、各Qi項が無視できるようになり、システムはより『機械に似た』もの——つまり相互に独立な部分の総和に似たものになる。
 この事実は『前進的機械化』と名づけてもよいと思うが、生物学で重要な役割を演ずる。最初のものは、システム内部の相互作用から生じるふるまいであろう。第二に、各要素はそれらのみに依存する作用に限定されてきて、全体としてのふるまいから総和的ふるまいへの移行がおこる」64頁

「けれども機械化は生物学的領域ではけっして完全なところまでは進まない。生物体は部分的には機械化されていても、それはまだやはり統一的な単位体としてのシステムなのだ。これが調節の基礎であり、環境の変化する要求と相互作用しあうことの基礎である。同様なことは社会的構造についてもいえる。原始社会ではどの構成員もめいめい、全体との関連で期待されることをほとんどなんでもやることができる。ところが高度に分化した社会になると、それぞれの構成員は特定の仕事もしくは仕事群をするように定められている。極端なのはある種の昆虫の社会の場合で、そこでの個体は、いわば特定の仕事のために決定された機械に変わりはてている」64頁

この辺り、どうも論理が混濁しているように思われますが

「生物学的、心理学的および社会学的進化での悲劇的緊張はいずれも、全体性と総和性とのこの対照のなかにある。進歩はただ、未分化の全体性の状態から部分の分化へと移行することによってのみ可能である。けれどもこのことは、部分がある一定の作用に固定されることを意味する。したがって前進的分離はまた前進的機械化をも意味する。ところが前進的機械化とは調節能力を失うことを意味する。システムが単位的な全体である限りは、ちょっとした攪乱があってもシステム内の相互作用によってふたたび新たな定常状態に達するであろう。システムは自己調節的なのだ。けれども、もしシステムが独立な因果連鎖に分割されてしまうと、調節能力は消失する。各部分の過程はたがいに無関係に進むことになる。これがたとえば胚発生のうちに見いだされるふるまいであって、決定は調節能力の減少と伴いあって進んでいく」64-5頁

「進歩はただ、初め一つの全体的単位的であった作用をいくつかの特殊部分の作用に小さく分割することによってのみ可能である。けれどもこのことは同時に未決定状態でも力の弱まり、機能の喪失がありうることを意味する。より多数の部分が一定の仕方で特殊化されるほど、それらは交換不可能になって、部分の損耗がシステム全体の崩壊を導くことがある。アリストテレス流の言葉でいうと、あらゆる進化はいくつかの可能性を開くことによって他の多くの可能性の芽を摘みとってしまう。私たちはこのことを胚発生にも系統発生での特殊化にも科学や日常生活の専門化のなかでも見いだすことができよう。
 全体としてのふるまいと総和的なふるまい、全体的な考えと要素主義的な考えはふつう対立するものとみなされている。しかしそれらの間に対立がなく、全体としてのふるまいから総和的なふるまいへ次第に移行するようなことがしばしばある」65頁

「集中化の原理は生物学領域でとりわけ重要である。前進的分離はしばしば前進的集中化と結びついており、その現われが主導的部分の時間的進化…である。同時にまた前進的集中化の原理は前進的個体化の原理でもある。『個体(不可分体)』とは集中化されたシステムであると定義できる。厳密にいうならばこれは生物学領域では、個体発生的および系統発生的にそこに近づくことのみできる一つの極限の場合であって、生物体は前進的集中化を通じていっそう統一的で『いっそう分かちがたい』ものに生長していくのである。
…生物学的な観点からは、前進的機械化と集中化を強調したい。初めの状態はシステムのふるまいが等能的な部分の相互作用の結果として生ずるような状態である。それが次第に、優勢な部分の指導下におかれるようになってくる。たとえば発生学では、これらの優勢な部分をオーガナイザーと呼ぶ(Spemann)。中枢神経系でも各部分は最初は下等動物の散在神経系におけるのと同じようにだいたい等能的である。しかし後になると神経系の主導中心に従うようになってくる」66頁→

「このようにして、前進的機械化と同様に前進的集中化の原理が生物学の中に見いだされ、これを象徴するのは、主導部分が時間とともに形成されてゆくこと…である。この見方は、重要だが簡単には定義できない個体の概念に光を当てる。『個体(individual)』とは『分けられぬもの』の意味である。…進化の尺度を登っていくと集中化の増大が見られる。行動は同等な位階(ランク)にある部分的機構が合成されたものではなくなり、神経系の最高中心中枢によって統一支配される…
 こうしてみると厳密にいえば生物学的個体性などというものはなくて、ただ進化と発生における前進的個体化のみがあり、これは前進的集中化、すなわち一定の部分が主導的な役割を得て全体のふるまいを決定するということからくるものなのだ。かくして前進的集中化の原理は<前進的個体化>をも含んでいる。個体とは一つの集中システムとして定義されるべきものであり、これは実は発生と進化の中で生物体が次第に統一的な『不可分』なも[ママ]になっていく道程の一つの極限である。…同じことは社会学の領域にもあてはまる。ただの群衆の集まりには『個体性』がない。一つの社会構造が他と区別されるためには、一定の個体のまわりでのグループ形成が必要である」66-7頁

「前進的機械化と前進的集中化の原理を無視することからしばしばにせの問題がたてられてきた。それは、独立で総和的な要素という極限の場合か、さもなければ等価な要素の完全な相互作用しか認めず、生物学的に重要な中間の状態を無視してしまうからである。このことは『遺伝子』と『神経中枢』の問題と関連して重要である。古典遺伝学は(近代遺伝学はいざしらず)遺伝物質を個々の形質や器官を決定する微粒子単位の総和と考える傾向があった。巨大分子の総和では生物体の有機化された全体性を作りだせないという反対は当然である。正しい答は全体してのゲノムが全体としての生物体を作りだし、しかもなお一定の遺伝子が一定の形質の発達の方向を決定すること——いいかえれば『主導部分』として働くことである。このことは、どの一個の遺伝形質も多くの遺伝子、おそらくすべての遺伝子の協同の働きで決まる、そうしてどの一個の遺伝子も単一の形質ではなく多くの形質、おそらく生物体全体に影響を与えるという洞察の中に表現される(形質の多遺伝子性(polygeny)および遺伝子の多表現性(polypheny))」68頁

「生物学者はしばしば、こういう[目的論的な]公式を何かいかがわしいものとみなす。それは隠れた生気論を恐れるせいか、あるいはこういう目的論や目的指向性を生気論の『証拠』と考えるからであった。それというのも無生物的自然ではそうでもないが生物的自然に関しては、目的論的過程と、人間が目標を予見することを私たちは比較しがちなのだ」71頁

「生物的調節には[ホメオスタシスとは]もう一つ別の基礎がある。それは等結果性、すなわち異なった初期条件と異なった仕方から同一の最終状態に達しうるということだ。このことは開放システムならば定常状態に達するものであるかぎり、すべてに見られることである。生物的システムの根本的な調節可能性は等結果性にもとづくもののようである——つまり、あらかじめ決定された構造や機構にもとづくのてはなく、むしろ逆にそういう機構を排除するような、そしてそれがため生気論の論拠となったような調節はすべてそのようにみることができる」73頁

「生物的構造の適応…はおそらくランダムな突然変異と自然淘汰の因果的働きによって説明できよう。けれども、この説明はあのきわめて複雑な生物的機構とフィードバック・システム…の起源に関してはよほど疑わしい。生気論は要するに、生物の目標指向性…を到達点の予見の知恵…によって説明しようとの試みである。これは、方法論として自然科学の枠を越えたところにでてしまい、経験的にも正当化できないものだ。…等結果性やアナモルフォジスのように『生気論の証拠』とされた現象の重要な部分は、開放システムとしての生物体の特徴的な状態からくる当然の結果であって、したがって科学的な解釈と理論で扱えるはずのものである」73-4頁

「一般システム理論はさらに科学での重要な調整の道具となるべきものだ。異なる分野に同一の構造をもつ法則が在存[ママ]すれば、複雑な扱いがたい現象に対して、より簡単あるいはよりよくわかっているモデルを使うことが可能になる。したがって一般システム理論は、方法論的にいって、異なる分野間で原理の受け渡しを制御したり促したりするのに重要な手段となるべきものであって、これによってたがいに孤立した各分野で同一の原理の発見を二重にも三重にも繰りかえす必要がもはやなくなるであろう」74頁

「共通の起源から出発して独立に発展していく並行進化の現象の中には興味深い類似性があることを知る——ある場合にはそれは民族の言語の独立の進化であったり、ある場合には哺乳動物の一定の綱の中のグループの独立の進化であったりする」75頁
文化進化論の先駆みたいな…

「純粋に形式的な『システム』の定義から、いろいろな科学分野でよく知られた法則に一部分表現されていたり、また一部分はこれまで擬人的だとか生気論的だとかされてきた概念に関する多くの性質が導きだされてくる。したがって、いろいろな分野での一般的概念の並行性やさらに特殊法則の並行性さえも、これらが『システム』に関連しているということと、ある種の一般原理はどんな性質のシステムにもその本性の如何にかかわらず適用できるということからくる当然の結果であることになる。かくして全体性と総和、機械化、階層的秩序、定常状態への接近、等結果性などの原理がまったく異なった分野に現われる場合がある。異なった領域に見いだされる同形性は、一般的なシステムの諸原理の存在、多少とも十分に発達した『一般システム理論』の存在にもとづくものである」77-8頁

「当面の考究の関心は論理的相同にある。私たちはこれを次のようにいい表わすことができよう。もし対象が一つのシステムであるならば、それは他の点ではどんなものであるにもせよその如何にかかわらず、一定の一般的なシステム特性はもたねばならない。論理的相同は科学における同形性を可能とするだけでなく、概念モデルとして現象の正しい考察と最終的な説明のための道具を与える力をもっている」78頁

「システム特性の相同は、ある領域を他の低次の領域へ還元することを意味するのではない。しかしそれはまた、単なる変形や類推でもない。むしろそれは、『システム』をなしていると見なしうるかぎり、どんな種類の実在の中にも見いだされる形式的な対応なのである」79頁

「一般的なシステム原理の解析によって、これまでしばしば擬人的、形而上学的、あるいは生気論的と考えられてきた多くの概念が厳密な定式化に耐えることが示される。それらはシステムの定義あるいはある種のシステム条件から導きだされてくる結果である」79頁

「私たちは、実在のいろいろに異なったレベルあるいは層に対して科学法則をうちたてることは、たしかにできる。そうしてここに私たちは、『形式的様態』(Carnap)でいうならば、科学の統一性ということがあるとしたときの、異なった分野における法則と概念図式との対応もしくは同形性を見るのである。『実体的な』」言語でいえば、これは世界(すなわち、観察することができる現象の総体)が構造の一様性を示していて、いろいろに異なるレベルや領域において秩序の同形的な痕跡によって自らを顕現している、ということを意味する。
 実在は、近来のとらえ方では、オーガナイズされた実体の巨大な階層的秩序とみられるのであって、その結果、物理学的および化学的システムから生物学的および社会学的システムにわたる複数のレベルが重なりあうことになる。『科学の統一性』が当然とされるのは、あらゆる科学が物理学および化学へとユートピア的に還元されることによるのではなく、実在の異なったレベルが構造の一様性をもつことによるのである」81頁

「とくに自然科学と社会科学、あるいはもっと表現にとんだドイツ語の術語を使えば『自然の学問と精神の学問』(Natur- und Geisteswissenschaften)のギャップは、後者が生物学的概念へ還元されるとの意味ではなしに、構造上の類似性の意味において非常に小さくなる。これが、対応しあう一般見解と考えが両分野どちらにも出現する理由であって、最終的には後者における法則の体系の確立につながっていくかもしれない」81頁

「物理学的現象を実在の唯一の標準と考える態度は、人間を機械化し、高次の諸価値を正当に評価しない結果を導いた。…機械論的見解を投げすてた後には、私たちは『生物学主義』にすべりこまないように、つまり心的、社会的、文化的現象をただ生物学的立場からのみ考えることのないように用心しなければならない。…有機体論の考え方は、生物学〔主義〕的考えの一方的な優位を意味するものではない。異なるいろいろのレベルに一般的な構造の同形性があると強調するとき、それは同時に、レベルごとに自律があり特異的な法則をもつことをも主張しているのだ。
 私たちは、一般システム理論の将来の展開が科学の一体化をめざす大きなステップとなると信じている。それは将来の科学において、アリストテレスの論理学が古代の科学で果たしたのと似た役割を果たすことになることもあろう。…現代の科学では、動的な交互作用が実在のあらゆる分野で中心課題になっているようにみえる。その一般原理は、システム理論によって定義されるべきはずのものである」82頁

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「<生命機械とその限界>
…正常と病気と死んだ生物体の違いは何か? 物理学や化学の立場からいえば、いわゆる機械論にもとづいては違いを規定できないという答にならざるをえない。…
 ところが生きた生物体と死んだ生物体の間には根本的な差違[ママ]があって、生きている生物体と死んだ生物体を区別するには通常何の困難もない。生きものでは無数の化学的および物理学的な過程が、その生きているシステムの存続、生長、発育、生殖などを許すような形で『秩序づけられ』ている」135頁

「成功にもかかわらず、生物体の機械モデルにはそれなりの困難と限界がある。
 まず第一に<機械の起原>の問題がある。かつてのデカルトにはこの問題はなかった。というのは彼の動物機械は聖なる時計作りの創作であったから。しかし方向性のない物理化学的事象の世界では、どのようにして機械というものが現われたのだろうか。…私たちはもちろんダーウィン流の説明を知っている。しかし、とりわけ物理学的な心で思いめぐらしてみると疑問は残る。進化について書かれた教科書にはふつう書かれてないか答えていないかする疑問が残る」136頁→

(承前)「第二に<調節>の問題がある。たしかに現代のオートマトン(自動機械)の理論からして自己修復機械というものは考えられる。勝手な攪乱を与えたのちの調節や修復を考えると問題がでてくる。…攪乱がどこで機械あるいは自動機械としての生物体から去ってくれるのだろうか。よく知られるとおりこうした種類の生物的調節は、生命機械がいわゆるエンテレキーと呼ばれる超物理学的な作用によって制御され修復されている証拠として、生気論者が利用したものである。
 以上の二つよりずっと重要なのは第三の疑問である。生きている生物体はたえず成分の交換を続けながら一定に維持されている。代謝は生きているシステムの基本特徴である。いわば、たえず自らを消費しながら自らを維持しつづける燃料からなる機械が、ここにある。そういう機械はこんにちの技術の中にはない。別の言葉でいえば、生物体が機械類似の構造をもつことは生命過程の秩序を究極的に説明する理由とはなりえない。なぜならその機械自身が、秩序づけられた過程の流れの中で維持されているのだから。したがって第一義的に重要な秩序は過程そのものの中にあるのでなければならない」136-7頁

「開放システムは環境とのあいだで物質の交換を行なっていて、入るものと出るものがあり、その物質成分を組みたてたり壊したりしているシステムである。…
 単純なものでさえ開放システムはいちじるしく注目すべき特徴を示す。一定の条件下では、開放システムは時間に依存しない状態、いわゆる定常状態(von Bertalanffy, 1942のいう<動的平衡>😅)に達する。定常状態は真の平衡からある距離のところで維持されるもので、したがって仕事をすることができる。生物システムの場合にも見られるとおり、それは平衡状態にあるシステムとは対照をなすものである。たえまなしに不可逆な過程、つまり出たり入ったり、組みたてたり壊されたりが生じているにもかかわらず、システムは構成が一定のままに保たれる。定常状態はいちじるしい調節の特徴を示し、それは等結果性ということにおいて特によく見てとられる。開放システムでは定常状態が達せられると、それは初期条件に依存せず、システムのパラメータ、つまり反応速度や輸送速度によってだけ決定される。これが多くの生物過程、たとえば生長の場合に…見いだされる<等結果性>と呼ばれるものである」137-8頁→

(承前)「それゆえ閉じた物理化学的システムと対照的に、異なった初期条件から出発したり過程に攪乱を与えたりしても、同一の最終状態が等結果的に達せられる。さらに、化学平衡の状態はその過程を促進する触媒に無関係だけれども、それと対照的に、定常状態は、存在する触媒とそれらの反応定数とに依存する。開放システムでは、<いきすぎ>(overshoot)や<出足の遅れ>(false start)の現象…がおこって、最初は逆の方向に進んでも、けっきょく最後には定常状態に導かれる。また、生理学でしばしばいきすぎと出足の遅れの現象が見られるということは、開放システムにおいての過程を扱っているのだということを示している。
 熱力学の見地からいうと、開放システムは自らを統計的に高度に不確実な状態、秩序とオーガニゼーションをもつ状態に維持することができる」138頁→

(承前)「熱力学の第二原理に従えば、物理学的な過程の一般傾向はエントロピーを増す方向、すなわち確率を増し秩序を減らす状態に向かう。生物システムは自らを高度の秩序と不確実性の状態に維持し、あるいは生物体の発育と進化の場合のようにオーガニゼーションを増す方向に進みさえする。そのへんのわけはプリゴジーヌの拡張されたエントロピー関数の中に与えられている。閉鎖システム中では、エントロピーはつねにクラジウスの方程式に従って増大する。
 dS≧0
…開放システムではそれと対照的に、エントロピーの全体の変化はプリゴジーヌに従えば次のように書かれる。
 dS=deS+diS
…deSは移入によるエントロピーの変化を意味し、diSはシステム内の不可逆過程、たとえば化学反応、拡散、熱輸送などによるエントロピー生成を意味する。diSの項は第二原理に従ってつねに正である。deSのエントロピー輸送のほうは、正でも負でもありうる。負になるのは、自由エネルギーの潜在的な担い手としての物質、すなわち『負のエントロピー』が入ってくることによる。これが生物体システムにおける負エントロピー傾向の基礎であり、『生物体は負のエントロピーを食べる』というシュレーディンガーの言葉の基礎でもある」138-40頁

「開放システムは普通の閉鎖システムに対して通常の物理法則に矛盾するようにみえる特徴を示す。こうした特徴はしばしば、生命の生気論的特徴、すなわち物理法則に従わず、生命事象に生気の類とかエンテレキー的要因をもちこんではじめて説明できると考えられた。生物的な調節の等結果性などはたしかにそうであって、たとえば、同一の『目標』である正常な生物体が、正常な卵からも分割された卵からも、二つくっつけ合わせた卵からも作られるというようなことがある。じっさいにこれはドリーシュによれば、もっとも重要な『生気論の根拠』であった。同じように、物理的自然においてエントロピーと無秩序が増加していく傾向と、発生や進化での負エントロピー傾向のみかけ上の矛盾は、しばしば生気論の論証として用いられた。そうしたみかけ上の矛盾は、物理学理論を開放システムへ拡張、一般化するとともに消えてしまうものである」140頁

「何年か前に、生命の基本特徴となる、代謝、生長、発生、自己調節、刺激に対する反応、自発的な活動、等々は結局は生物体が一つの開放システムであるという事実の結果からくると考えられることを指摘した。それゆえ、このようなシステムの理論はいろいろな面の異質の現象を同じ一般概念のもとに結びつけ、定量的な法則をひきだすべき統一原理となるであろう。私はこの予言がほぼ正しいことがすでに証明されて数多くの研究によって検証されていると信じている[😅]。
…開放システムの理論は<一般システム理論>の一部分である。この分野は、要素の性質やそれらを支配する力のいかんにかかわらずひろく一般のシステムに適用できる原理を論ずるものである。一般システム理論はもはや物理的、化学的な実体がどうであるということは論じない[😅]。完全に一般的な性質をもつ全体というものについて議論をするレベルに達する。だが開放システムのある種の原理は、種間の競争と平衡を扱う生態学から、人間の経済学その他の社会的分野まで、広い範囲に依然としてなりたち、成功裏に適用できるものである」144-5頁

「<開放システムとサイバネティクス>…
 開放システム・モデルの基礎はその要素の動的な相互作用にある。サイバネティクス・モデルの基礎はフィードバック・サイクル…にあり、このサイクルは情報のフィードバックによって、望む値(目標値)を維持したり、標的に到達したりする。開放システムの理論は一般化された反応速度論と熱力学である。サイバネティクスの理論はフィードバックと情報に基礎をおく。…
 反応速度論的および熱力学的形成の開放システム・モデルは情報については語らない、[ママ]他方、フィードバック・システムは熱力学的および反応速度論的には閉じている。それは代謝をもたない。
 開放システムでは秩序の増加とエントロピーの減少が熱力学的に可能である。その大きさである『情報』は、負のエントロピーと形式的に同じ式で定義される。けれども閉鎖的なフィードバック機構の中では情報は減少する一方であり、けっして増加しない。すなわち情報は『ノイズ』に変換されうるが、その逆はない」145頁→

(承前)「開放システムは『能動的に』より高度のオーガニゼーションの状態へ向かってゆくことがある。すなわち、システムの条件に従って秩序の低い状態から高い状態に移ってゆくことがある。フィードバック機構は『学習』によって、すなわちシステムに供給された情報に『反応』して、より高いオーガニゼーションの状態に達することができる。
 要するに、フィードバック・モデルはもっぱら『二次的』な制御、すなわち、言葉の広い意味での構造配置に基礎をおく制御に適用されるものである。けれども生物体の構造は、代謝と成分の交換との中で維持されているのであるから、『一次的』制御は開放システムの動力学から由来するものでなければならない。生物体は発生の過程でだんだんと『機械化』される。そのため後期になっての調節は、特にフィードバック機構に対応したものとなる(ホメオスタシス、合目的的行動その他)」145-6頁

「ここで私たちがとりあげている根本問題は、私の信ずるには、こんにちの生物学の信条が『じゅうたんの下に敷きこんで隠してしまった』たぐいの問題である。…
 これに対しては、淘汰(選択)とか競争とか『最適者の生存』とかはすでに自己維持システムの存在を<前提>していることを指摘しなければならない。それゆえ自己維持システムは淘汰の<結果>ではありえない。…最大の子孫を生みだす遺伝子型の選択というようなことは、ほとんど助けにならない。増殖力の差によるのならば、いったい進化が増殖率ではかなうもののないウサギ、ニシン、それどころか細菌を越えてなぜ進んだか理解することはむずかしい[😅]。局所的に高度の秩序(および低確率性)をもつ状態を作ることが物理学的に可能なのは、ある種の『オーガニゼーションの力』が場面に登場しているときに限る。…けれどもそういうオーガニゼーションの力は、ゲノムを『タイプの打ちまちがい』の蓄積と考えるときには、あからさまに否定されているのだ」147-8頁

「遺伝的調節に関するある種の実験は、遺伝の基礎にそのようなオーガニゼーションが存在することを示している。そうした効果は進化の巨視的な法則においても研究されるべきものであろう…私はそれゆえ現在一般に受けいれられている『進化の総合理論』はせいぜい部分的な真理であって、完全な理論ではないと信じている。さらに生物学的研究を積み重ねること以外に、開放システムの理論やそれの現在の境界線上の問題の中で、物理学的考察がとりいれられなければならない」148頁

「これまで支配的であった自然の機械論的な概念は、物事を線形(一直線)の因果連鎖に分解すること、世界を機械的事象と物理学的またダーウィン的な『サイコロ遊び』(Einstein)の結果と考えること、生物学的過程を無生物的自然から知られた法則に還元することを強調してきた。これに対して開放システムの理論(および一般システム理論としてそれがさらに一般化されたもの)では、多変数相互作用の原理(たとえば不可逆熱力学における反応速度論や流束や力)が浮かびあがってくる。それは過程の動的なオーガニゼーションということであり、また生物学領域の考察のもとで物理学法則を拡張していく可能性があるということである。それゆえこうした展開は、新しい科学的な世界観定立の一部分をなすものである」😅 149頁

「<開放システムと定常状態>
 現代の代謝と生長に関する研究ならばどれも、生物体およびその成分がいわゆる開放システムであること、すなわち環境とたえず物質交換をする中でみずからを維持しているシステムであることを考えに入れなければならない…その本質的な点は開放システムが在来の物理化学の限界を、その二つの主分野である反応速度論と熱力学において越えていることにある。言いかえると在来の反応速度論と熱力学は生物体内の過程の多くのものには適用されない。生物物理学——生物体への物理学の応用——にとって、理論の拡張が必要である」151頁

「細胞と生物体はいわゆる定常状態(流動平衡Fliessgleichgewicht, von Bertalanffy)の中でほぼ一定に保たれる。これが生物システムの一つの根本的な神秘である[😅]。代謝、生長、発生、自己調節、増殖、刺激ー反応、自律的な活動などのような他のすべての特徴は結局のところこの基本的な事実からの結果である。生物体が開放システムであることは今や生物システムのもっとも基本的な規準の一つとして、すくなくともドイツの科学に関するかぎり、認められている…
…合衆国の生物物理学や生理学では同じようにいえないのは残念である。私は代表的なアメリカの教科書をのぞいてみたが、『開放システム』とか『定常状態』とか『不可逆熱力学』という言葉さえ見つからずむだであった。これはつまり、生物システムを普通の無機的なそれから根本的に区別するまさにその規準が一般に無視され、もしくはすり抜けられているということである」😅 152-3頁

「閉鎖システムが最後には時間に依存しない化学的、熱力学的平衡に<かならず>到達するのに対して、開放システムは一定条件下では、時間に依存しない定常状態と呼ばれる状態に到達する<ことがある>。20年ほど前に私が導入した言葉を使えば、流動平衡に到達することがある。定常状態では、たえず成分が交代していてもシステムの組成は一定のままである。定常状態あるいは流動平衡は等結果性をもつ…。開放システムを扱うためには拡張と一般化が必要であった。これが<不可逆熱力学>として知られているものである。その結論の一つとして、古い生気論の謎が解明される。…[熱力学の]第二原理に対し、あるいはこれと『激しく対立して』…生物体は自己を思いもよらないほどありえそうにもない(確率の低い)状態に維持し、たえまない不可逆過程にもかかわらずその秩序を保ち、あまつさえ胚発生や進化では、より高度の分化のほうへ進みさえする。この見かけ上の謎は、古典的な第二原理が定義により閉鎖システムにのみかかわると考えることによって消えうせる。高エネルギーに富んだ物質をとりこむ開放システムでは、高度の秩序の維持や高度の秩序への進展さえも、熱理学的に許される」153-4頁→

(承前)「生物システムはその要素の多少ともすみやかな交換、変質と再生、異化と同化の中で維持される。生物体は開放システムの階層的な秩序である。あるレベルでは持久的な構造のように見えるものも、実際には、すぐ下位のレベルの成分がたえまなく交換することによって維持されている。こうして、多細胞生物体は自らを維持するのに細胞の交換によっているし、細胞は細胞内構造の交換によっており、また細胞内構造はそれを形づくる化合物の交換によっている、等である。一般的な規則としては、かかわっている要素が小さいほど代謝回転速度が速い…これは生物体がその中で、またそれによって維持されているヘラクレイトスふうの流れ[😅]を示すよい実例である」154頁

「開放システムの時間的な変化を眺めてみても、いちじるしい特徴がみつかる。そういう変化が生じうるのは、生物システムが初め不安定な状態にあって、それから定常状態に向かうからである。生長や発生の現象は大ざっぱにいえばそうしたものである[😅]。あるいは別の場合としては、定常状態が外部の条件の変化、いわゆる刺激によって攪乱を受けることもある。そうしてこれが——今度も大ざっぱにいってのことだが——適応や、刺激ー反応ということの内容である。ここでもまた閉鎖システムに対して特徴的な違いが出ている。閉鎖システムは一般に漸近的な仕方で平衡状態に向かう。これと対照的に開放システムでは、出足の遅れとす行きすぎもおこる…換言すれば、もし行きすぎや出足の遅れを見たときには——多くの生理現象でよくあるように——これは一定の予測可能な数学的特徴をそなえた開放システム内での過程であろうと予期してもよいのである」154頁

「この国[米国]の生物学は、サイバネティクスの概念の影響を受けて、むしろ細胞や生物体の機械概念に戻ってしまい、したがって開放システムの理論が与える重要な諸原理を無視してきたのである」155頁

「フィードバック・システムと『ホメオスタシス』制御は重要ではあるけれども自己制御システムと適応現象のうちの特別な種類のものであるということを強調するのが、たいせつである。…
…典型的なフィードバック・システムあるいはホメオスタシス現象は、入ってくる情報にかんしては『開いて』いるが物質とエネルギーに関しては『閉じて』いる。ゆえに情報理論の諸概念は——特に情報と負のエントロピーが同等であることから——開放システムの不可逆熱力学よりもむしろ『閉じた』熱力学(熱静力学)に対応する。ところがもしシステムが(生物体のように)『自己組織的』…なものであれば、すなわち高度の分化に向かって進んでいくものであれば、不可逆熱力学が前提とならなければならない」157頁

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