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「分析的手法が適用できるには二つの条件がなくてはならない。第一は『部分』間の相互作用がまったく存在しないか、あるいは一定の研究目的にとって無視できるくらい十分に弱いことだ。この条件下でのみ、部分というものを実際的にも論理学的にも数学的にも『とりだして調べる』ことができ、それから『組みたてなおす』ことができる。第二の条件は、部分のふるまいを記述する関係が線形であることだ。そのときにのみ総和性の条件が満たされる。すなわち全体のふるまいを記述する方程式が部分のふるまいを記述する方程式と同じ形になり、部分過程をかさね合わせて全体過程を得ることができる、等のことがいえる」16頁

「システムと呼ばれるようなもの、すなわち『たがいに相互作用をしている』部分からなるものではこれらの条件は満たされない。こうしたものの記述の原型は一組の連立微分方程式で…それは一般の場合には非線形である。システムもしくは『オーガナイズされた複雑性』…は『強い相互作用』(Rapoport, 1966)あるいは『無視できない』相互作用(Simon, 1965)、すなわち非線形の相互作用の存在によって区別される。システム理論の方法論的な問題は、それゆえ、古典科学の分析的ー加算的な問題とくらべてずっと一般的な性質をもっている」16頁

「<サイバネティクス> これは制御システムの理論であって、システムと環境の間あるいはシステム内部での通信(情報の運搬)、また環境と関連してのシステムの働きの制御(フィードバック)に基礎をおいている。このモデルは広い応用範囲があるが『システム理論』全般と同一視すべきではなくて……生物学その他の基礎科学で、サイバネティック・モデルは制御機構の形式的構造を、たとえばブロック図と流れ図によって記述しようとする。このようにすると制御構造は、たとえその実際の機構が未知であり記述されておらず、システムが入力と出力のみで定義されているような『暗箱(black box)』であるときでも、認知することができる」19頁

「サイバネティクスは、技術ばかりでなく基礎科学にも衝撃をおよぼし、具体的な現象に対するモデルを与えるとともに目的論的現象——以前はタブーであったもの——を科学によって認めてもらえる問題の領域にもちこんだ。しかしそれはいっさいを包括するような説明もしくは大きな『世界観』を生みだすことはなく、機械論的見解と機械の理論にとってかわるのではなしに、それの拡張であった」20頁

けっこう批判的😅

「平衡、ホメオスタシス、適合、等々の概念とモデルはシステムの維持に対しては適当でも、変化、分化、進化、負エントロピー、生じにくい状態の出現、創造性、緊張の作りだし、自己認識、創発、等々の現象に対しては不充分であった。じっさいキャノンもホメオスタシスとは別に、後者の性質の現象を含んだ『ヘテロスタシス』というものを認めたとき、このことに気づいていたのだ」21頁

「日常言語によるモデルもシステム理論の中ではしかるべき位置を占める。システム的な考えはたとえ数学的に定式化されなくても価値を失わず、数学的説明としてでなくむしろ『その後の手引きとなる考え』として残るものである。たとえば私たちは社会学において満足できるシステム概念をもっていないかもしれない。しかし社会的実体が社会的原子の総和ではなくシステムであるとか、あるいは歴史というものは文明と称せられるシステム…からなりたっていてシステムに一般的な諸原理に従うものであるだとかの見通しだけでも、これらの分野の方向転換を意味することになる」22頁

「『システム・アプローチ』といわれるものの中にも機械論的な傾向やモデルもあれば有機体論的傾向やモデルもあって『分析』、『線形(循環を含む)因果性』、『オートマトン』によるか、あるいは『全体性』、『相互作用』、『動力学』によるかのどちらか(あるいは両者のちがいを明確にする他のどんな言葉を使ってもよいのだが)によってシステムを攻略しようとしているのだ。これらのモデルはたがいに他を排除するものではなく、同一の現象に対し異なったモデルによるアプローチをすることさえありうるのだが(たとえば『サイバネティクス的な』概念と『反応速度論的な』概念…)、その場合どちらの見方がより一班的また基本的であるかを問うことはできる」22頁

「生物学でも、機械論的なとらえ方では、生命現象を原子論的な実体と部分過程に分解してしまうのが目標であった。生きた生命体は細胞へと分解され、生物体の活動は生理学的な過程へ、さらに最終的には物理化学的な過程へと分解され、また生物の行動は無条件反射と条件反射へ、さらに遺伝の基礎は個別の粒子である遺伝子へ分解されるというふうであった。しかしこれと反対に現代生物学では有機体論的な考えが基礎となっている。部分や過程をばらばらに研究するだけでなく、それらを統一するオーガニゼーションと秩序のうちに見いだされる決定的諸問題を解くことも必要である。そうしたオーガニゼーションや秩序は、部分間の動的な相互作用の結果であり、部分を切り離して研究するときと全体の中に置いてみるときとで、それらのふるまいを異なるものにしている。…社会科学でも、社会を社会学的原子である個体の総和とみなす考え方、たとえば『経済人』のモデルが、社会や経済や国家をその部分の上に立つ全体と考える傾向に変わってきた。このことは計画経済や国家の神格化といった大きな問題をも意味するが、また新しい考え方を反映するものでもある」28-9頁

「現代科学にはもう一つ重要な問題がある。最近まで、自然法則の集成としての精密科学というと、ほとんどそれは理論物理学に等しかった。物理学以外の分野で精密な法則を記述しようとする少数の試みはほとんど認められなかった。けれども生物科学、行動科学および社会科学からの衝撃とそれらにおける進歩は、私たちの概念図式を拡張して物理学の適用では十分でなかったり適用が不可能な分野で一連の法則をたてさせることを必要としているように見える。
…生きた生物体は本質的に開放システムである。つまり、環境とのあいだで物質を交換しあうシステムである。伝統的な物理学と物理化学は閉鎖システムを扱うもので、近年やっと理論が拡張されて不可逆過程と開放システムと非平衡の状態も含まれてきた。けれども、もし開放システムのモデルを、たとえば動物の生長現象に適用しようとすると、自動的に理論を一般化して物理学的単位にではなく生物学的単位に使えるようにしなければならない。いいかえれば、私たちは一般化されたシステムを扱うことになる。同じことが過去数年の間に関心を呼びおこしたサイバネティクスや情報理論の分野にも当てはまる」30頁

「一般的なシステム特性が存在することの当然の結果の一つは、異なった分野に構造上の類似や同形性のみられることである。本質的にひどくかけへだたったものについても、そのふるまいを支配する原理に対応がある。…こうした対応は、そこで問題にされるものがいくつかの点で『システム』とみなせる、すなわち、交互作用しあう要素の複合体とみなせる、という事実によっている。…『システム』に関係しているという事実があれば、問題とする現象において条件が対応しあっているときには、一般原則さらには特殊法則にさえも対応がみられることになるのだ」30-1頁

「こんにち基本的な問題となっているのはオーガナイズされている複雑性の問題だ。オーガニゼーション、全体性、目標指向性、目的論、分化などの概念は伝統的物理学とは異質のものである。けれども、これらの概念は生物科学、行動科学、社会科学のいたるところでちょいちょい顔をだし、じっさい、生物体や社会的集団を扱うのになくてはならないものである。つまり現代科学に課せられた根本問題の一つはオーガニゼーションに関する一般理論なのだ。一般システム理論は、原理的にいって、そのような概念に正確な規定を与えることのできるもの、また、うまい場合には、それらを定量的な解析にもちこむことのできるはずのものである」32頁

「システム理論の発展において問題となるのは、周知の数式を応用するというようなことではない。むしろ、新しくて部分的には解決にほど遠い問題が課されてくるのだ。…古典的な考え方は、大きな数だが有限数の要素間あるいは過程間の相互作用を扱う場合にはうまくいかない。ここに、全体性とかオーガニゼーションなどの概念によって大づかみに指示される新しい数学的思考法を要求する諸問題が生じてくる」32頁

「現代科学のいろいろな分野で同じような一般的概念と観点が進化してきた。かつての科学では、観察される現象を、たがいに独立に調べることのできる要素的単位の相互作用に還元して説明しようとした。ところがこんにちの科学には、多少漠然と『全体性』と名づけられるようなものに関する諸概念が現われている。つまりそれはオーガニゼーションの問題、局部的な事象に分解できない現象、各部分を個々に離したときと高次の構造(configuration)をもたせたときとで部分の行動に差があることに明示される動的な相互作用等々であり、要するに、ばらばらに各部分を研究したのでは理解できないさまざまな秩序をもつ『システム』の概念である。研究対象が無生物か生物か社会現象かにかかわらず、科学のあらゆる分野にこのような性質をもつ概念と問題が現われてきた。それら個々の科学の発達はたがいに無関係で、たがいのことをほとんど知らず、かつ異なった事実と、抵触しあう考え方のもとになされたのだから、この一致はなおさら驚くべきである。これらの発展は科学研究での態度と考えとに一般的な変化が生じたことを示している」34頁

「いろいろの異なる分野に形式的に同一の、つまり同形(isomorphic)の法則が見いだされる。多くの場合、『システム』の一定のクラス(類)あるいは部分クラスに対して、そこに関与する実体の性質が何であるかにかかわらず、同形の法則がなりたつ。一定の型のシステムであれば、システムの特殊な性質と関与する要素の如何にかかわらずあてはまる一般的なシステム法則が存在するようにみえるのだ。
 このような考察から一般システム理論と呼ぶ科学の新しい分科が要請されてくる。その主題は、成分要素とそれらの間の関係あるいは『力』の本性が何であってもそれにかかわらず、『システム』全般についてなりたつ原理を設定することである。
 それゆえ一般システム理論は、これまでは空疎でぼんやりとしてなかば形而上学的な概念と考えられてきた『全体性』に関する一般的科学である。仕上がったあかつきの形は論理ー数学的な一個の学問となり、それ自体は純形式的なものだが個々の経験科学に応用できるものとなるだろう。このものが『オーガナイズされた全体』を扱う科学に対してもつ意味は、確率論が『偶然事象』を扱う科学に対してもつ意味と同じものであるだろう」34-5頁

「下記に一般システム理論のおもなねらいを示す。
 (1) 自然および社会諸科学に統合をめざす一般的な動きがある。
 (2) このような統合の中心はシステムの一般理論の中にあるように見える。
 (3) このような理論は非物理学分野の科学で精密な理論をめざすとき重要な手段になりそうだ。
 (4) 個々の科学の世界を『縦に』貫く統一原理を展開することにより、この理論は私たちを科学の統一の目標にさらに近づけてくれる。
 (5) これは科学教育できわめて必要とされる統合へと導く」35頁

「微分方程式は物理的科学、生物的科学、経済的科学、またおそらく行動科学においても、広い範囲を覆えるものなので、この事実は、微分方程式を、一般化されたシステムの研究へのよいアプローチの一手段としている」35-6頁

「システムのうちには、その本性と定義そのものからして閉鎖システムではないシステムもある。生きた生命体はどれも本質的に開放システムである。生物体は成分の流入と流出、生成と分解の中で自己を維持しており、生きているかぎりけっして化学的、動力学的平衡の状態にはなく、それとは違ういわゆる定常状態にある。これこそ代謝と呼ばれるあの生命の根本現象、すなわち生きている細胞内での化学過程の本質である。この場合にはどうなるか? 明らかに物理学の伝統的なやり方は、開放システムでありかつ定常状態にあるものとしての生物体には原理的に適用できない」36頁

「等結果性(equifinality)の原理…閉鎖システムでは、最終状態はかならず初期条件によって一義的に決められてしまう。…これが開放システムだとそうならない。開放システムの場合にはいろいろ異なった初期条件と異なった方法からも同一の最終状態に達する。これがいわゆる等結果性であり、生物学的調節の現象にとって重要な意味を持っている。生物学史に親しい人ならば、ドイツの生物学者ドリーシュを生気論に導いたのがまさしく等結果性であったことを思いだされるだろう。生気論とは、生命現象は自然科学の言葉を用いては説明できないとする教義であった。ドリーシュの主張は胚の初期発生についての実験にもとづくものであった。完全な卵からでも、半分に割った卵のそれぞれからでも、完全な卵を二つくっつけたものからでも、同じ最終結果、すなわちウニの正常な個体が一つできるのである。同じことは人間を含む他の多くの種にもあてはまり、一卵性双生児というのは一つの卵が割れた結果生まれる。等結果性はドリーシュによれば、物理学の法則にそむくものであり、正常な生物体を作りあげるという目標をめざして過程を支配する霊魂まがいの生気要因がなければ不可能だという」37頁

「エンテレキー」ですな😅

「もう一つ無生物的自然と生物的自然との間で一見して対照をなすのは、ときにロード・ケルヴィンの崩壊(degradation)とダーウィンの進化(evolution)の間のまっこうからの矛盾と称せられたもの、つまり物理学における消尽の法則と生物学における進化の法則との矛盾である。…熱力学の第二法則…ところがこれと反対に生物の世界で見られることは、胚発生でも進化でも、より高い秩序と異質性とオーガニゼーションへと向かう推移である。しかし開放システムの理論をもとにすれば、エントロピーと進化のみかけの矛盾もなくなる。…閉鎖システム中のエントロピー変化はつねに正である。つまり秩序はたえず崩される。ところが開放システム中では、不可逆過程によるエントロピー生成ばかりでなく、負と称してもよいようなエントロピーのとりこみがある。自由エネルギーの高い複雑な分子をとりこんでいる生きた生物体中でおこっているのはこれである。つまり自らを定常状態に保っている生物システムは、エントロピー増加を避けることができるし、高度の秩序とオーガニゼーションの状態へ向かって進むことさえできる」37-8頁

「生物内自然において物理学法則が破られると考えられていた多くの例は実際には存在しない、というよりむしろ物理学理論の一般化とともに消えうせることがわかった…一般的にいえば、開放システムの概念は非物理学的なレベルに使うことができる」38頁

「工学でも生物界でもきわめて多種多様なシステムがフィードバックの図式に従っている。そうしてこういう現象を取扱うために、サイバネティクスと呼ばれる新しい学問が、ノバート・ウィーナーによって導入されたことはよく知られている。この理論は、人工機械でも生物体でも社会的システムにおいてフィードバックの性質をもった機構が目的論的あるいは目的指向的ふるまいの基礎になっていることを示そうとするものである」40頁→

承前「けれども心にとめておかなければならないのは、フィードバック図式はむしろ特殊な性質をもったものであるということだ。…生物体での多くの調節は本質的にフィードバック式のものとは異なった性質をもっている。すなわち過程どうしの動的な絡みあいによって秩序が産みだされるようなものである。…生物システムでの<一次的>な調節、つまり胚発生においても進化においてもいちばん基本的で根元的なものは、動的な相互作用を本質とすることを示すことができる。これは生物体が、自らを定常状態に保ち、もしくは定常状態に近づこうとする一つの開放システムであるという事実にもとづいている。このようなものの上に重ね合わされて、私たちが<二次的>と呼ぶ調節がある。この二次的調節が、特にフィードバック型の固定した配置によって制御されているのだ。このような事情は、前進的機械化と呼んでもよいオーガニゼーションの一般原理の産物である。最初にはシステムは——それが生物学的なものであれ、神経学的、心理学的、社会学的なものであれ——その成分の動的な相互作用によって支配される。それからのちに、固定した配置と束縛条件が確立してきて、これによりシステムとその部分はいっそう効率的にはなるが、しかしその反面、その等可能性はだんだんと減じ、最後にはなくなってしまう」41頁

「<因果性と合目的性>
…19世紀の古典物理学から生じた機械論と呼ばれる世界観では、仮借ない因果法則で支配される原子の無目的なふるまいが、無生物、生物、心的なものを問わず世界のあらゆる現象を生みだしていた。目的指向性、秩序、目的などの入りこむ余地はなかった。生物の世界もランダムな突然変異と淘汰(選択)の無意味な行為のつみかさねによる偶然の産物と考えられた。心の世界は物質的なできごとへの奇妙でなにやらわけのわからない付帯現象とされた。
 科学の唯一の目標は分析することのように思われた。いいかえれば実在を限りなく小さな単位に分け、因果連鎖の個々の環をばらばらにしてみせることであった。こうして物理学的実在は質点や原子に分割され、生物体は細胞に、行動は反射に、知覚は時々刻々の感覚作用に、と分割された。それと対応して、因果関係は本質的に一方向的であった。…古典科学の基本概念を要約しようと試みたカントの有名な範疇表を思いだしてみるとよい。相互作用とオーガニゼーションの概念は埋め草にすぎないか、あるいはぜんぜん現われさえしないことがその特徴である」41-2頁→

(承前)「私たちは現代科学の特徴として、ばらばらな単位が一方むきの因果関係のもとに作用するというこの図式では不十分であることがわかったことをあげることができよう。つまり科学のあらゆる分野に、全体性、全体論、有機体的、ゲシュタルトなどの概念が現われてきたのであって、これらすべては、結局たがいに作用しあう要素からなるシステムという目でものを見なければならないことを意味している。
 同様に合目的性や目的指向性の概念も科学の枠外のものとされ、ふしぎな、超自然的な、あるいは擬人的ななにものかの活躍舞台となってきた。さもなければこうした概念は、科学とは本質的に無縁のにせの問題であり、無目的な法則によって支配される自然の上に、観察者の心をまちがって投射したものにすぎないとされた。しかしながらこうした側面はたしかに存在するものであり、適応性、合目的性、目標指向性その他類似の言葉でさまざまに、かなりいいかげんに呼ばれるものを考えにいれずには、行動や人間社会はいうまでもなく、生きた生物体を考えることも、できるものではない」42頁

「強調したいのは、特徴的な最終状態や目標に向かう目的論的な行動が自然科学の立入禁止区域ではないことだ。また、それ自体としては方向性をもたず偶然であるような過程をまちがって擬人的にとらえているものでもないことである。逆にむしろそれは科学的な言葉で十分定義できるし、その必要条件や可能な機構も示すことのできる行動の一形式なのだ」43頁

「オーガニゼーションも機械論の世界にとって異質のものであった。…現代物理学ではたしかに話がちがってきている。ホワイトヘッドがまちがいなく強調したように、原子も結晶も分子もオーガニゼーションなのだ。生物学では、生物体(organism, 有機体)は、定義からして、オーガナイズされたものである。…
 生きた生物体であれ社会であれ、オーガニゼーションの特性は全体性、生長、分化、階層的秩序、優位性、制御、競争、等々の概念である。このような概念は伝統物理学には現われてこない。システム理論はこうしたことがらをうまく扱える。このような概念はシステムの数学的モデルの範囲内で規定できるのだ」43-4頁

「これまで科学の統一といえば、あらゆる科学を物理学に還元すること、あらゆる現象を物理学的なものに最終的に分解することとみられてきた。私たちの見地からは、科学の統一はもっと現実味を帯びた視点を得ることができる。世界の統一的な理解の基礎は、あらゆるレベルの実在を物理学のレベルに最終的に還元するというおそらくむだであり明らかに行きすぎた望みにではなく、むしろいろいろな異なる分野での法則の同形性に求められるだろう。『形式的(formal)』とよばれてきたいい方でいえば、つまり、科学のもつ概念構造に眼をつけるならば、これは私たちが適用している図式の構造的な一様性ということを意味する。『物質的(material)』な言葉でいえば、それは、世界すなわち観察しうる事象の総体が構造的統一性を示し、異なったレベルあるいは領域で同形的な秩序の痕跡が現われていることを意味する」45頁→

(承前)「こうして私たちは還元主義と対照的な一つの概念、すなわち遠近法主義(perspectivism)とでも呼ぶべきものに達する。生物的、行動的、社会的レベルのものを最低次のレベルである物理学の構成と法則のレベルに還元することはできない。けれども個々のレベル内での構成と可能な法則を見いだすことはできる。世界はオルダス・ハクスリーがかつて指摘したように、ナポリ風アイスクリーム[三色アイス]のようなもので、チョコレート、イチゴ、バニラの層がそれぞれ、物理的、生物的、社会的および精神的レベルを現わしている。イチゴはチョコレートに還元できない——私たちがせいぜい言えることは、せんじつめていくとたぶんすべてはバニラであること、すべては心あるいは精神であるということだろう[😅]。統一原理は、私たちがすべてのレベルにオーガニゼーションを見いだすことである。…世界を大きなオーガニゼーションとみるモデルは、おそらく、最近数十年の血なまぐさい人類史のなかでほとんど見失われてしまった生命への尊敬の気持を回復するのに役立つことだろう」😅 45-6頁

「ある要素の総和的特性とは、複合体の内にあっても外にあっても同じであるような特性であるともいうことができる。したがってそれらはばらばらにしたとき知られる個々の要素の特性とふるまいを全部たし合わせることによって得られる。構成的特性とは、複合体内部での特定の関係に依存するようなものである。したがってそういう特性を理解するためには、部分だけでなく関係も知らなければならない」50頁

「いくぶん神秘的な表現で『全体は部分の総和以上のものだ』などというがその意味は要するに、構成的特性は、それゆえ、要素のそれと比べると『新しい』ものもしくは『創発的な』もののようにみえる。…総和というものは次第次第に作られていくものと考えることができるけれども、相互関係を有する部分の総体としてのシステムはいちどきに作られるものとしてみなければならないのだと。
 物理学などでは、こんなことをいってもはじまらないと思われるかもしれないが、生物学や心理学や社会学ではこれが問題となりうるし、概念の混乱をひきおこしてもいるのだ。それというのもまさしく機械論的な考え方、すなわち現象を独立の要素と因果連鎖に分解して相互関係は省みない傾向のもつ誤まりのゆえである」51頁

「システムとは相互に作用する要素の複合体と規定できる。相互作用とは要素pが関係Rにおいて存在すること、したがってRの中での一つの要素pのふるまいが別の関係R’の中でのそのふるまいと異なることを意味する。もしRとR’の中でのふるまいにちがいがなければ相互作用はなく、その要素は関係RおよびR’に関して独立にふるまう」51頁

「ヴォルテラの方程式で興味ある結果は、同一資源をめぐる二種の生物の競争のほうが、ある意味では捕食者ー被食者関係(食う食われるの関係)——つまり他方の種による一方の種の部分的滅亡——よりもずっと致命的である点だ。競争は最終的には、生長能力が小さいほうの種の絶滅をもたらす。食う食われるの関係ならば、ただ関係する種の個体数が平均値を中心として周期的に振動するだけである。こうした関係は生物共同体のシステムについて述べたものだけれども、社会学的な意味も充分持つといえるのではなかろうか」60-1頁

「『システム』といえば『全体』とか『統一体』を意味する。そうすると、全体に関してその部分間の競争というような概念を導入することは矛盾するように思われる。けれども実際には、この明らかに相反する命題はともにシステムの本質に根ざしている。あらゆる全体はその要素の競争を基礎としてその上になりたっており、『部分間の競争』(Roux)を前提としている。部分間の競争ということは、単純な物理ー化学システムにも生物や社会的単位にも見られるオーガニゼーションの一般原理であり、結局それは実在が示す<反対物の一致>の一表現なのである」61頁

「総和性を定義すれば最初ばらばらな要素を次々につけ加えることによって複合体を作り上げることができるようなもの、といえよう。逆に、この複合体の特性はばらばらの要素のそれへと完全に分析できるようなものだといって定義できよう。…しかしドイツ語で『ゲシュタルト』と呼ばれるようなシステムには当てはまらない」62頁

「ラッセル卿の本…には『有機体の概念』の拒否を示すやや驚くべき言明を見いだす。…『どんな場合にでも作業仮説としては機械論的見解を採用するのが賢明であって、それに明らかに反するような証拠があるときにのみそれを棄てるのがよい。生物学的な現象についていえば、そのような証拠は、これまでのところまったくない』…
…だがまさしく基本的で第一義的な生物現象に関しては、ラッセルのいっていることは根底から誤っている。胚の発生、代謝、生長、神経系の働き、生物共同体など、どの生物現象の領域でもよいからとりあげてみれば、つねに見いだされるのは、システムの中にあるときと切り離されたときでは要素のふるまいが異なっていることだ。全体のふるまいをばらばらの部分からたし合わせて作ることはできないし、部分のふるまいを理解するにはいろいろな下位システムと上位にあるシステムの関係を考慮に入れなければならない。分析と人為的隔離は生物学的実験と推論の方法として有用である。しかしけっして十分ではない」62-3頁

「物理学的システムではあまりないことだが生物学的、心理学的、社会学的システムでは普通でかつ基本的なもののようにみえる場合がある。それは要素間の相互作用が時間とともに減少していく場合である。…
 この場合にはシステムが全体性をもった状態から各要素が相互に独立の状態へ移ってゆく。最初の状態は統一的なシステムのそれだがこれが次第にたがいに独立な因果連鎖に分裂してゆく。<前進的分離>と呼んでよいであろう。
 原則として、原子とか分子とか結晶とかの物理学的全体のオーガニゼーションは、以前から存在した要素の結合の結果としてできあがる。これに対して生物学的全体のオーガニゼーションは、もとの全体の分化によって作りあげられ、全体が部分に分裂していく。…
 生物界で分離化が優位を占めている理由は、下位の部分システムの分裂化がシステムの複雑性を増すことになるからであるようにみえる。そのようないっそう高度の秩序への移行にはエネルギーの供給が前提となり、エネルキーがシステムへとたえず渡されるのはそれが開放システムであってエネルギーを環境からとりこむときに限る」63-4頁

「全体性を保った状態にあるときには、システムが攪乱をうけると新しい平衡状態が作られることになる。けれども、もしシステムが個々の因果連鎖に分割されていると、それらは他と独立に動いていくだろう。機械化の増加が意味するところは、要素が次第に自分自身にだけ依存して働くようになることで、その結果、全体としてのシステムでならば相互関係の存在にもとづいてひきつづき存在していたはずの調節能力が失なわれていく。相互作用係数が小さくなるほど、各Qi項が無視できるようになり、システムはより『機械に似た』もの——つまり相互に独立な部分の総和に似たものになる。
 この事実は『前進的機械化』と名づけてもよいと思うが、生物学で重要な役割を演ずる。最初のものは、システム内部の相互作用から生じるふるまいであろう。第二に、各要素はそれらのみに依存する作用に限定されてきて、全体としてのふるまいから総和的ふるまいへの移行がおこる」64頁

「けれども機械化は生物学的領域ではけっして完全なところまでは進まない。生物体は部分的には機械化されていても、それはまだやはり統一的な単位体としてのシステムなのだ。これが調節の基礎であり、環境の変化する要求と相互作用しあうことの基礎である。同様なことは社会的構造についてもいえる。原始社会ではどの構成員もめいめい、全体との関連で期待されることをほとんどなんでもやることができる。ところが高度に分化した社会になると、それぞれの構成員は特定の仕事もしくは仕事群をするように定められている。極端なのはある種の昆虫の社会の場合で、そこでの個体は、いわば特定の仕事のために決定された機械に変わりはてている」64頁

この辺り、どうも論理が混濁しているように思われますが

「生物学的、心理学的および社会学的進化での悲劇的緊張はいずれも、全体性と総和性とのこの対照のなかにある。進歩はただ、未分化の全体性の状態から部分の分化へと移行することによってのみ可能である。けれどもこのことは、部分がある一定の作用に固定されることを意味する。したがって前進的分離はまた前進的機械化をも意味する。ところが前進的機械化とは調節能力を失うことを意味する。システムが単位的な全体である限りは、ちょっとした攪乱があってもシステム内の相互作用によってふたたび新たな定常状態に達するであろう。システムは自己調節的なのだ。けれども、もしシステムが独立な因果連鎖に分割されてしまうと、調節能力は消失する。各部分の過程はたがいに無関係に進むことになる。これがたとえば胚発生のうちに見いだされるふるまいであって、決定は調節能力の減少と伴いあって進んでいく」64-5頁

フォロー

「科学を拡張して、物理学の中では置きざりにされ、生物、行動ならびに社会科学的現象の特徴的な性質には関係しているような側面を扱うことが必要とされていると思われる。これが、導入されるべき<新しい概念モデル>にほかならない。
…これらの拡張され一般化された理論的な構造あるいはモデルは、学際的なものである——すなわち科学の在来の区分を越えたものであり、いろいろちがう分野の現象に応用できるものである。その結果、いろいろの分野に現われるモデルと一般原理と、特殊法則さえにも同形性が見られることになる。
 要約すると、生物、行動および社会の諸科学と現代工学との内容は、科学における基本概念の一般化を必須のものとしている。これは伝統的物理学でのカテゴリーと対比しての新しい科学思想のカテゴリーを意味している。またそのような目的で導入されたモデルは、学際的な性質を帯びている。
…『全体性』と『オーガニゼーション』の一個の理論へと向かう現在のさまざまなアプローチは統合され統一されることになるかもしれない。じっさい、たとえば不可逆熱力学と情報理論のあいだでのいっそうの総合化というようなことは、ゆっくりと発展しはじめているのだ」92-3頁

「要するに私たちの見解は『ホメオスタシス原理を越えて』とでも定義できよう。
 (1) S-R図式は遊びとか探検活動とか創造性、自己認識、等々の領域を見のがす。
 (2) 経済的な図式はまさに人間特有の達成——漠然と『人間的文化』といわれるものの大部分——を見のがす。
 (3) 平衡原理は、心理的および行動的な活動は緊張の緩和以上のものであるという事実を見のがす。緊張の緩和は最適状態どころか、たとえば知覚をうばう実験の場合などは精神病に近い攪乱を招くこともあるのだ。
 S-R モデルや精神分析モデルは人間の本性の実際と非常にかけ離れた像であり、したがって、かなり危険なもののように思われる。私たちが人類特有の達成と考えるまさしくそのようなものは、功用主義[ママ]、ホメオスタシス、また刺激ー反応の図式のもとには、ほとんどもちきたすことができないものなのだ。…もしホメオスタシス的維持の原理が行動の黄金律だとしたら、最終的な目標はいわゆるうまく順応した個人、つまり最適な生物学的、心理学的、社会学的ホメオスタシスに自らを維持するよく油のきいたロボットということになろう」106頁

「私たちは多くの生物学的、人間的行動は効用とかホメオスタシスとか刺激ー反応とか原理を越えたものであること、そしてそれが実に人間の文化活動に特徴的なものであるという考えにいたるわけである。…
…行動とは単に生物学的衝動を満たし、心理的、社会的平衡を維持することではなく、何かそれ以上のものを含んでいる…心身的な生物体の自発活動性と曖昧に呼んでいる原理は実存主義者がしばしば空虚な言葉を使って言いたいと欲していることを、より現実的に定式化したものである」107頁

「現代のシステム理論の光に照らせば、総体論的か分子論的か、法則定立的か個別記載的かというアプローチの二者択一に厳密な意味を与えることができる。集団〔群衆〕の動きに対してはシステム法則をあてはめることができて、それはもし数学化されうるならば…リチャードソンの用いたような微分方程式の形をとるだろう…これに対して個人の自由選択は、ゲームの理論や決定の理論の定式によって記述できるものであろう」113頁

「『合理性の原理』は大部分の人間的行為よりもむしろ動物の『合理性のない』行動にこそ当てはまる。動物や一般に生物体は『擬合理的(ratiomorphic)』に機能して、維持、満足、生存、等々のような価値を最大にする。一般に彼らは、自分にとって生物学的に良いものを選び、有用さ(たとえば食物)の少ないほうより多いほうをとる。
 これに対して人間の行動は、合理性の原理からだけではとても説明しきれない。人間において合理的行動の占める範囲がいかに小さいかを示すには、フロイトを引くまでもない。…すべての可能性と帰結をひとわたり調べるという合理的選択などしていない。…私たちの社会では、選択を不合理に<させる>のが、有力な一群の専門家たち——宣伝屋、動機研究家、等々——の仕事になっているが…これは本質的には、生物学的諸因子——条件反射、無意識衝動——をシンボル的な価値と結びつけることによってなされるのである」114頁

「文明が『有機体』でないことは生物学者がいちばんよく知っているだろう。生物学でいう有機体(生物体)は、時間と空間のうちにある一つの物質的実体であり統一体であって、別々に分かれた個体から構成されている社会的グループとはちがうものであり、幾世代もの人間と物質的生産物と制度と思想と価値などとから構成されている文明とはなおさら異なるものである」115頁

「製造会社、都市化、労働の分化などのような社会的なものに単純な生長法則が当てはまるという事実は、これらの点では『生物アナロジー』が正しいことを示している。歴史学者たちの抵抗があるにもかかわらず、理論的モデル、特に動力学的な開放および適応システムのモデルを歴史的過程に当てはめることは…たしかに意味のあることである。これは『生物学主義』、つまり社会学的なものを生物学的概念に還元することを意味するのではなく、両方の分野にシステム原理が適用できることを示すものである」116頁

「全体としての生物体を考えてみると、それは平衡状態にあるシステムと似た特徴を示す…
 けれども、生物体の中には平衡状態のシステムがあるようにみえても、生物体自体は平衡システムと考えることのできないものであることは、すぐわかることである。
 生物体は閉鎖システムでなく、開放システムである。システムに物質が全然出入りしないときそれを『閉じている(閉鎖)』と呼び、物質の出入りがあれば『開いている(開放)』と呼ぶ。
 それゆえ化学平衡と代謝を行なっている生物体との間には根本的な対立がある。生物体は、外に対して閉じていて常に一定の成分を含むような静的なシステムではない。それは(準)定常状態にある開放システムであり、成分物質とエネルギーがたえず変化する中でも質量関係が一定に保たれつつ、その中で物質がたえず外の環境から入ったり、また外の環境へ出ていったりしている」118-9頁→

(承前)「定常状態(あるいはむしろ準定常状態)にあるシステムとしての生物体の特性は、そのいちばん大事な区別点の一つである。一般的な仕方で、基本的な生命現象をこのことの諸結果として考えることができる。比較的短い時間範囲で生物について考えてみると、それは成分の交換によって定常状態に保たれている形状(cofigulation)のようにみえる。これは一般生理学の第一の主要分野に対応する——すなわち、化学的、エネルギー論的側面を扱う代謝の生理学である。定常状態の上により小さな過程の波がかさねあわされていて、これは基本的に二種類のものからなる。まず第一にシステム自身の中から由来する、したがって自動的な周期過程がある…第二に、生物体は環境の一時的変化、『刺激』に対して、その定常状態の可逆的なゆらぎをもって反応する。これは外部条件の変化によってひきおこされ、したがって他律的な一群の過程であり、興奮の生理学に含められる。それらは、定常状態が一時的に攪乱されて、そこからまた生物体が『平衡』へ、すなわち定常状態の等しい流れへと復することであると考えられる」119頁

「最後に、生物体の状態を定常状態として規定することは第一近似としてのみ正しいものであり、たとえば代謝の研究のさいに私たちがやるように、『成体』の生物体で短時間のあいだ適用するかぎりでなりたつことを注意しておこう。全生活環をとればその過程は定常でなく、せいぜい準定常であるにすぎず、一定の研究目的のためにそこから抽象してこられる程度のゆるやかな変化はこうむっているものであり、これが胚発生、生長、老化(加齢)、死などというものをなしているわけである。これらの現象は、くまなくというわけではないが形態形成という言葉に包括され、一般生理学の第三の大きな問題群を代表するものである」119頁

「そういう[開放化学]システムは生物学者にとっては大きな重要性をもっている。というのは開放化学システムはじっさい自然の中で、生物体という形で実現していて、自分の成分をたえず交換していく中で自分自身を維持しているからである。『生命は多相システムにおける動的平衡である』(Hopkins)」120頁

出た、動的平衡😅😅😅

「物質とエネルギーのたえまない流れと交換の中でシステムを維持していくことや、このことを許すような仕方でなされている細胞内あるいは生物体内での無数の物理化学反応のもつ秩序や、いろいろにちがう条件下でも攪乱の後でもちがう大きさのときでもつねに成分の比が一定に保たれていることは、生体代謝の中心問題である。同化と異化における生物システムの表裏二面的な変化…一定状態の維持に向かう傾向、変質(退化)によって生ずる攪乱を補償するような更新(再生)をもたらす。…細胞内、生物体内の物理化学的過程について、私たちは非常に多くの知識を持ってはいる。しかし私たちは、『個々の過程の完全な説明がついた後でさえも、一個の細胞の代謝全体を十分に理解することからはほど遠いところにある』…ことを見すごしてはならない。…再三再四、問題が生気論的な結論…に持っていかれてしまったのも驚くべきことではないのである」121頁

「たえず連続的に仕事ができる能力は、できるだけすみやかに平衡に達してしまおうとする傾向のある閉鎖システムにおいてはありえず、開放システムにおいてだけありうる。生物体に見いだされるみかけ上の『平衡』は仕事のできない真の平衡ではない。それは真の平衡から一定の距離をつねに保っている動的準平衡である。それゆえに仕事をすることはできるが、他方、真の平衡から距離を保つためにエネルギーの流入をたえず必要とする。
 『動的平衡』の維持のためには、諸過程の速度が正確に調和がとれていることを必要とする。このようにしてはじめて、一定の成分が壊れて自由エネルギーを放出していく一方で、エネルギーの流入によりシステムが平衡に達するのを妨げることができる。速い反応は、生物体においても、化学平衡に導く…遅い反応は平衡に達せず定常状態に保たれる。したがって、ある化学システムが定常状態に存在するための条件は、反応速度がある程度遅いことである。…生物体で定常状態が維持されるのは、生物体が複雑な炭素化合物からできているという事実による」123頁

F岡S一の元ネタはこのあたりですかね😅

「生物体内システムの特徴として示された諸性質、すなわち『動的平衡』の維持、組成と成分絶対量との独立性、条件や栄養が変動しても組成が一定に維持されること、正常な異化あるいは刺激によって増大した異化の後に動的平衡が再び確立されること、諸過程の動的な秩序、等々は開放システムの性質から導かれる当然の結果である。『代謝の自己調整』は物理学的領原理の基礎にたって理解することができる」128頁

「<等結果性>
 生物学的なシステムの一つの重要な特性は『合目的性』、『目的性』、『目標指向性』、等々の言葉で表わされる。…
 生物体的過程の中での動的秩序にきわめて特徴的な一つの面は<等結果性>と名づけることができる。機械のような構造内で生ずる諸過程は一定の決まった経路をたどっていく。それゆえもし初期条件や過程の経路を変えれば最終状態も変わる。これに対して生物的な過程では初期条件が異なっても途中のみちが異なっても同じ最終状態、同じ『目標』に達する」129頁

「まず第一にそれ[等結果性の一般的な定式化]は、一見形而上学的あるいは生気論的な合目的性の概念に、物理的な定式化を与えうることがわかる。よく知られているとおり、等結果性の現象はドリーシュの生気論のいわゆる『証明』の基礎となっている。第二に、生物の根本的な特性の一つ、すなわち生物が熱力学的平衡状態にある閉じた系でなく(準)定常状態にある開放システムという事実と、もう一つの特性である等結果性とが、密接な関係にあることがわかる。…
…しばしば生気論的あるいは神秘的に考えられてきた生物のシステムの多くの特性が、システム概念といくつかのかなり一般的なシステム方程式から熱力学的、統計力学的考察と結びついた形で導かれる…
…個々の生物学的現象の理論は私たちの一般方程式の特殊例であることがわかるであろう」130-1頁

「<生命機械とその限界>
…正常と病気と死んだ生物体の違いは何か? 物理学や化学の立場からいえば、いわゆる機械論にもとづいては違いを規定できないという答にならざるをえない。…
 ところが生きた生物体と死んだ生物体の間には根本的な差違[ママ]があって、生きている生物体と死んだ生物体を区別するには通常何の困難もない。生きものでは無数の化学的および物理学的な過程が、その生きているシステムの存続、生長、発育、生殖などを許すような形で『秩序づけられ』ている」135頁

「成功にもかかわらず、生物体の機械モデルにはそれなりの困難と限界がある。
 まず第一に<機械の起原>の問題がある。かつてのデカルトにはこの問題はなかった。というのは彼の動物機械は聖なる時計作りの創作であったから。しかし方向性のない物理化学的事象の世界では、どのようにして機械というものが現われたのだろうか。…私たちはもちろんダーウィン流の説明を知っている。しかし、とりわけ物理学的な心で思いめぐらしてみると疑問は残る。進化について書かれた教科書にはふつう書かれてないか答えていないかする疑問が残る」136頁→

(承前)「第二に<調節>の問題がある。たしかに現代のオートマトン(自動機械)の理論からして自己修復機械というものは考えられる。勝手な攪乱を与えたのちの調節や修復を考えると問題がでてくる。…攪乱がどこで機械あるいは自動機械としての生物体から去ってくれるのだろうか。よく知られるとおりこうした種類の生物的調節は、生命機械がいわゆるエンテレキーと呼ばれる超物理学的な作用によって制御され修復されている証拠として、生気論者が利用したものである。
 以上の二つよりずっと重要なのは第三の疑問である。生きている生物体はたえず成分の交換を続けながら一定に維持されている。代謝は生きているシステムの基本特徴である。いわば、たえず自らを消費しながら自らを維持しつづける燃料からなる機械が、ここにある。そういう機械はこんにちの技術の中にはない。別の言葉でいえば、生物体が機械類似の構造をもつことは生命過程の秩序を究極的に説明する理由とはなりえない。なぜならその機械自身が、秩序づけられた過程の流れの中で維持されているのだから。したがって第一義的に重要な秩序は過程そのものの中にあるのでなければならない」136-7頁

「開放システムは環境とのあいだで物質の交換を行なっていて、入るものと出るものがあり、その物質成分を組みたてたり壊したりしているシステムである。…
 単純なものでさえ開放システムはいちじるしく注目すべき特徴を示す。一定の条件下では、開放システムは時間に依存しない状態、いわゆる定常状態(von Bertalanffy, 1942のいう<動的平衡>😅)に達する。定常状態は真の平衡からある距離のところで維持されるもので、したがって仕事をすることができる。生物システムの場合にも見られるとおり、それは平衡状態にあるシステムとは対照をなすものである。たえまなしに不可逆な過程、つまり出たり入ったり、組みたてたり壊されたりが生じているにもかかわらず、システムは構成が一定のままに保たれる。定常状態はいちじるしい調節の特徴を示し、それは等結果性ということにおいて特によく見てとられる。開放システムでは定常状態が達せられると、それは初期条件に依存せず、システムのパラメータ、つまり反応速度や輸送速度によってだけ決定される。これが多くの生物過程、たとえば生長の場合に…見いだされる<等結果性>と呼ばれるものである」137-8頁→

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