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「『システム哲学』…これは思考と世界観の改変であって、新しい科学的規範として(古典科学の分析的、機械論的、一方向因果関係的の規範に対して)『システム』を導入することから生じた結果である。展望をもった科学的理論はすべてそうだが、一般システム理論も『形而上学的』あるいは哲学的な側面をもっている。『システム』の概念はトーマス・クーンのいう新しい『パラダイム』、あるいは著者…の名づけた『新しい自然哲学』を構成するものであって、機械論的世界観のいう『自然の盲目的法則』とか阿呆が物語るシェクスピア劇のような世界過程に対するに『偉大なオーガニゼーションとしての世界』なる有機体論的展望をもってするものである」xv

「生態系や社会システムも、たとえば生態系が汚染によって乱されるとか社会が多くの未解決の問題をつきつけるなどのときにいや応なく経験するとおり、たしかに『実在』している。しかしこれらは五官あるいは直接観察の対象ではない。それらは概念的な構築物なのだ。同じことは日常世界の対象についてさえもいえる。それらは決して感覚のデータとか単純な知覚として単に『与えられる』のではなく、ゲシュタルト力学および学習過程から、実際に私たちが何を『見』るか何を感ずるかを大部分決めてしまう言語的、文化的要因にいたるまでの莫大な数の『心的』諸要因によって組上げられたものなのだ。すなわち観察から与えられる『実在の』対象およびシステムと、『概念上の』構築物およびシステムの区画線は、どんな常識的なやり方によっても引くことはできないものである」xv-xvi

「<システム認識論>の問題…これは、科学的な態度の点では共通しているとしても、論理実証主義や経験主義の認識論とはいちじるしく異なるものである。論理実証主義の認識論(および形而上学)は物理学主義と原子論と知識の『カメラ理論』によって決定されていた。これは現在の知識から見ると時代おくれのものだ。物理学主義および還元主義と対立して、生物科学や行動科学や社会科学の中で生じてくる問題と思考法はそれなりの同等な考察を必要としており、素粒子や在来の物理法則に単純に『還元』できるようには思われない。構成部分への分解と一方向的および直線的な因果性を基本的カテゴリーとする古典科学の分析的操作に対して、多数の変数から成るオーガナイズされた全体についての研究は、相互作用、超作用(transaction)、オーガニゼーション、目的論等々の新しいカテゴリーを要求しており、これはまた認識論と数学的モデルおよびその技法とについて多くの問題を生んでいる」xvi →

(承前)「さらにいえば、認知は『実在のもの』(その形而上学的な位置づけは何であれ)の反映ではないし、知識は単に『真理』や『実在』への近似ではない。それは知るものと知られるものの間の相互作用であり、これは生物的、心理的、文化的、言語的、等々の性質をもつ多数の要因に依存するものである。物理学者自身でさえ、観測者と独立に存在する粒子や波のごとき究極的な実体はないと語っている。このことから、『遠近法主義の』哲学が導かれるのであって、それによれば物理学自身とその連接諸分野の達成は十分に認めながらも、物理学だけが知識の専売特許ではない。還元主義と、実在は『何々にほかならない(nothing-but)』(物理学的粒子や遺伝子や反射や衝動やその他のものの塊り)と宣言するいろいろの理論とは反対に、私たちは科学を、生物的、文化的、言語的才能と足かせをもった人間が彼の『投げこまれた』世界、あるいはむしろ進化と歴史によってそこにうまく適応しているるその世界に対処していくために創りだした『いろいろな遠近画』の中の一つであると見るのである」xvi

「もし実在が、オーガナイズされた全体の階層構造物であるのならば、そこでの人間像は偶然の出来事で支配される物理学的粒子が究極的で唯一の『真なる』実在であるような世界におけるそれと異なったものになるだろう。むしろ、記号や価値や社会的なものや文化の世界こそきわめて『真なる』何ものかであるのだ。そしてこれが宇宙の階層秩序の中に埋め込まれているという事態は、C. P. スノーのいう『二つの文化』の対立、すなわち科学とヒューマニティ、技術と歴史、自然科学と社会科学、その他何にせよこうした図式に描くことのできる対立の間に橋をかけるのに好適な状況である。
 私の理解しているようなものとして一般システムに[?]理論がこのように人間主義的な関心をもつことは、機械論に傾斜したシステム理論家と違いのあるところであって、後者はもっぱら数学やフィードバックや工学の言葉でシステムを語り、システム理論とは実は人間を機械化し無価値化しテクノクラートの社会へ向かわせるための最終段階ではないかという恐れを生ぜしめるものである」xvi-xvii

「『分子』生物学によって到達された深い見通しにもかかわらず——いやまさしくそれだからこそ——著者がこの40年間ほど叫び続けてきたように、『有機体論的』生物学の必要性がますます明らかになってきている。生物学の仕事とすべき事柄は物理ー化学的あるいは分子的なレベルだけにあるのではなく、さらに生きもののオーガニゼーションの高いレベルにある」😅 4頁

「結局のところ歴史学とは作られていく途上の社会学、あるいは『縦方向への』社会の研究だということである。相手は同じ社会ー文化的実体なのであり、社会学はそれを現状において、歴史学はそれを生成において研究するのだ。
…むしろ私たちは『歴史の力』——これが何を意味するにせよ——の犠牲者であるようだ。事態は単に個人の決定と行為ではすまないそれ以上のものを含んでおり、より多く社会ー文化的『システム』によって決定されるもののように思われる」5-6頁

「システム的なアプローチの必要性と実行可能性はようやく最近になってはっきりしてきた。その必要性をもたらした事実としては、単独にとりだせる因果連鎖と分割的とり扱いという機械論の図式では、とくに生物社会科学での理論的問題や現代工学の提起する実際問題を扱うのに不充分なことがわかってきたという事実がある」9頁

「著者は1920年代の初め、生物学の実際研究と理論の明らかなギャップにとまどいをおぼえはじめた。当時広くゆきわたっていたのはちょうど今述べた機械論的アプローチで、それは生命現象における本質的なものを無視するかもしくは積極的に否定するようにみえた。著者は生物学での有機体論の概念を唱えたのだが、これは全体として、あるいはシステムとして生物を考察することを強調し、生物科学の主目標はそのいろいろなレベルでオーガニゼーションの諸原理を発見することにあるとするものであった。著者の最初の言明は1925-26年にさかのぼるが、他方1925年にホワイトヘッドの『有機体機構』の哲学が現れている。キャノンのホメオスタシスに関する仕事がでたのは1929年と1932年である。有機体論の概念はクロード・ベルナールをすぐれた先駆者とするが、彼の仕事はフランス以外ではほとんど知られないでいた。今でもまだ充分には評価されていない」9頁

「近年アメリカの指導的な生物学者たちによって『有機体論生物学』が再び強調されるようになったのに(Dubos, 1964, 1967; Dobzhansky, 1966; Commoner, 1961)、これらの人々は著者がずっと初期にやった仕事に触れることがなく、一方、ヨーロッパや社会主義国の文献の中では、著者の仕事が正当に認められている…
 哲学方面で著者の受けた教育は後にウィーン学団として知られるようになったモリッツ・シュリックのグループの新実証主義の伝統を汲むものであった。けれども著者はドイツ神秘主義やシュペングラーの歴史相対論や芸術史に興味があり、またこれと同様な非正統派的な態度から、良き実証主義者になるわけにはいかなかった。著者にとっては1920年代の『経験哲学協会』のベルリン・グループとの結びつきのほうが強かったのである。そこで特に目立つ存在は哲学者兼物理学者のハンス・ライエンバッハ、心理学者ヘルツベルグ、工学者パルセヴァル(飛行船の発明者)であった」10頁

ドブジャンスキーも?

「一方で代謝と生長についての実験研究、他方で有機体論のプログラムを具体化する努力と結びついて、開放システム(開放系)の理論が発展させられたが、それは生物体がたまたま開放システムであるのに、当時そういう理論が全然なかったというむしろ些細なことからきたものであった」10頁

「もっと一般化ができるように思われてきた。生物学でも行動科学や社会科学でも、多くの現象に数学的表現とモデルを使うことができる。数学的表現やモデルは明らかに物理学や化学だけのものでなく、この意味では『精密科学』の模範としての物理学を越えたものなのだ…異なった分野でのそうしたモデルの構造上の類似性と同形性が明らかになりはじめた。そして機械論的科学では計画的に排除されていた秩序、オーガニゼーション、全体性、目的論等々の問題がまさしく中心に現れてきた。これが、そのとき『一般システム理論』の考えになったのである」10-1頁

フランク「私たちは今日、生物や人間の大きな全体を扱えるような新しいアプローチと新しくより包括的な概念と方法とを求める探索をまのあたりに見ている。目的論的機構というものの概念は、いろいろ違った言葉で表されるにしても、そのいずれも今はもはや不充分になったようにみえる古い機械論的な公式から脱けだす試み、自己制御過程とか自己定位するシステムあるいは生物体とか自己志向する人格とかを研究するための新しくていっそう実りのある概念といっそう効果的な方法論を提供する試みと見ることができよう」14頁

「システム理論はまた、サイバネティクスや制御理論と同一視されることが多い。これも誤りである。サイバネティクスは技術や自然における制御機構の理論であり、情報とかフィードバックの概念をもとにしてたてられたものであって、システムの一般理論の一部分にすぎない。サイバネティックス的システムは、重要ではあるとしても、自己制御を示すシステムの特別な一例なのである」15頁

「システム問題とは本質的には科学における分析的な手法の限界の問題である。これはこれまでしばしば、たとえば創発的進化とか『全体は部分の総和以上のものである』とか、なかば形而上学的な言葉でいい表わされてきたけれども、はっきりした操作的な意味をもつ問題だ。『分析的な手法』の意味することは、研究するべきものをまず部分に分解せよ、しかるのち部品を一緒に組合わせて構成、あるいは再構成できる、ということだ。この手法は物質的、概念的のどちらの意味でも理解されている。これが『古典的』科学の基本原理であって、この枠はいろいろちがう仕方で描いてみせることができる。たとえば単独にとりだせる因果連鎖へとものごとを分解すること、科学のさまざまな分野で『原子的』単位がさがし求められること、等々はその例である」16頁

「分析的手法が適用できるには二つの条件がなくてはならない。第一は『部分』間の相互作用がまったく存在しないか、あるいは一定の研究目的にとって無視できるくらい十分に弱いことだ。この条件下でのみ、部分というものを実際的にも論理学的にも数学的にも『とりだして調べる』ことができ、それから『組みたてなおす』ことができる。第二の条件は、部分のふるまいを記述する関係が線形であることだ。そのときにのみ総和性の条件が満たされる。すなわち全体のふるまいを記述する方程式が部分のふるまいを記述する方程式と同じ形になり、部分過程をかさね合わせて全体過程を得ることができる、等のことがいえる」16頁

「システムと呼ばれるようなもの、すなわち『たがいに相互作用をしている』部分からなるものではこれらの条件は満たされない。こうしたものの記述の原型は一組の連立微分方程式で…それは一般の場合には非線形である。システムもしくは『オーガナイズされた複雑性』…は『強い相互作用』(Rapoport, 1966)あるいは『無視できない』相互作用(Simon, 1965)、すなわち非線形の相互作用の存在によって区別される。システム理論の方法論的な問題は、それゆえ、古典科学の分析的ー加算的な問題とくらべてずっと一般的な性質をもっている」16頁

「<サイバネティクス> これは制御システムの理論であって、システムと環境の間あるいはシステム内部での通信(情報の運搬)、また環境と関連してのシステムの働きの制御(フィードバック)に基礎をおいている。このモデルは広い応用範囲があるが『システム理論』全般と同一視すべきではなくて……生物学その他の基礎科学で、サイバネティック・モデルは制御機構の形式的構造を、たとえばブロック図と流れ図によって記述しようとする。このようにすると制御構造は、たとえその実際の機構が未知であり記述されておらず、システムが入力と出力のみで定義されているような『暗箱(black box)』であるときでも、認知することができる」19頁

「サイバネティクスは、技術ばかりでなく基礎科学にも衝撃をおよぼし、具体的な現象に対するモデルを与えるとともに目的論的現象——以前はタブーであったもの——を科学によって認めてもらえる問題の領域にもちこんだ。しかしそれはいっさいを包括するような説明もしくは大きな『世界観』を生みだすことはなく、機械論的見解と機械の理論にとってかわるのではなしに、それの拡張であった」20頁

けっこう批判的😅

「平衡、ホメオスタシス、適合、等々の概念とモデルはシステムの維持に対しては適当でも、変化、分化、進化、負エントロピー、生じにくい状態の出現、創造性、緊張の作りだし、自己認識、創発、等々の現象に対しては不充分であった。じっさいキャノンもホメオスタシスとは別に、後者の性質の現象を含んだ『ヘテロスタシス』というものを認めたとき、このことに気づいていたのだ」21頁

「日常言語によるモデルもシステム理論の中ではしかるべき位置を占める。システム的な考えはたとえ数学的に定式化されなくても価値を失わず、数学的説明としてでなくむしろ『その後の手引きとなる考え』として残るものである。たとえば私たちは社会学において満足できるシステム概念をもっていないかもしれない。しかし社会的実体が社会的原子の総和ではなくシステムであるとか、あるいは歴史というものは文明と称せられるシステム…からなりたっていてシステムに一般的な諸原理に従うものであるだとかの見通しだけでも、これらの分野の方向転換を意味することになる」22頁

「『システム・アプローチ』といわれるものの中にも機械論的な傾向やモデルもあれば有機体論的傾向やモデルもあって『分析』、『線形(循環を含む)因果性』、『オートマトン』によるか、あるいは『全体性』、『相互作用』、『動力学』によるかのどちらか(あるいは両者のちがいを明確にする他のどんな言葉を使ってもよいのだが)によってシステムを攻略しようとしているのだ。これらのモデルはたがいに他を排除するものではなく、同一の現象に対し異なったモデルによるアプローチをすることさえありうるのだが(たとえば『サイバネティクス的な』概念と『反応速度論的な』概念…)、その場合どちらの見方がより一班的また基本的であるかを問うことはできる」22頁

「生物学でも、機械論的なとらえ方では、生命現象を原子論的な実体と部分過程に分解してしまうのが目標であった。生きた生命体は細胞へと分解され、生物体の活動は生理学的な過程へ、さらに最終的には物理化学的な過程へと分解され、また生物の行動は無条件反射と条件反射へ、さらに遺伝の基礎は個別の粒子である遺伝子へ分解されるというふうであった。しかしこれと反対に現代生物学では有機体論的な考えが基礎となっている。部分や過程をばらばらに研究するだけでなく、それらを統一するオーガニゼーションと秩序のうちに見いだされる決定的諸問題を解くことも必要である。そうしたオーガニゼーションや秩序は、部分間の動的な相互作用の結果であり、部分を切り離して研究するときと全体の中に置いてみるときとで、それらのふるまいを異なるものにしている。…社会科学でも、社会を社会学的原子である個体の総和とみなす考え方、たとえば『経済人』のモデルが、社会や経済や国家をその部分の上に立つ全体と考える傾向に変わってきた。このことは計画経済や国家の神格化といった大きな問題をも意味するが、また新しい考え方を反映するものでもある」28-9頁

「現代科学にはもう一つ重要な問題がある。最近まで、自然法則の集成としての精密科学というと、ほとんどそれは理論物理学に等しかった。物理学以外の分野で精密な法則を記述しようとする少数の試みはほとんど認められなかった。けれども生物科学、行動科学および社会科学からの衝撃とそれらにおける進歩は、私たちの概念図式を拡張して物理学の適用では十分でなかったり適用が不可能な分野で一連の法則をたてさせることを必要としているように見える。
…生きた生物体は本質的に開放システムである。つまり、環境とのあいだで物質を交換しあうシステムである。伝統的な物理学と物理化学は閉鎖システムを扱うもので、近年やっと理論が拡張されて不可逆過程と開放システムと非平衡の状態も含まれてきた。けれども、もし開放システムのモデルを、たとえば動物の生長現象に適用しようとすると、自動的に理論を一般化して物理学的単位にではなく生物学的単位に使えるようにしなければならない。いいかえれば、私たちは一般化されたシステムを扱うことになる。同じことが過去数年の間に関心を呼びおこしたサイバネティクスや情報理論の分野にも当てはまる」30頁

「一般的なシステム特性が存在することの当然の結果の一つは、異なった分野に構造上の類似や同形性のみられることである。本質的にひどくかけへだたったものについても、そのふるまいを支配する原理に対応がある。…こうした対応は、そこで問題にされるものがいくつかの点で『システム』とみなせる、すなわち、交互作用しあう要素の複合体とみなせる、という事実によっている。…『システム』に関係しているという事実があれば、問題とする現象において条件が対応しあっているときには、一般原則さらには特殊法則にさえも対応がみられることになるのだ」30-1頁

「こんにち基本的な問題となっているのはオーガナイズされている複雑性の問題だ。オーガニゼーション、全体性、目標指向性、目的論、分化などの概念は伝統的物理学とは異質のものである。けれども、これらの概念は生物科学、行動科学、社会科学のいたるところでちょいちょい顔をだし、じっさい、生物体や社会的集団を扱うのになくてはならないものである。つまり現代科学に課せられた根本問題の一つはオーガニゼーションに関する一般理論なのだ。一般システム理論は、原理的にいって、そのような概念に正確な規定を与えることのできるもの、また、うまい場合には、それらを定量的な解析にもちこむことのできるはずのものである」32頁

「システム理論の発展において問題となるのは、周知の数式を応用するというようなことではない。むしろ、新しくて部分的には解決にほど遠い問題が課されてくるのだ。…古典的な考え方は、大きな数だが有限数の要素間あるいは過程間の相互作用を扱う場合にはうまくいかない。ここに、全体性とかオーガニゼーションなどの概念によって大づかみに指示される新しい数学的思考法を要求する諸問題が生じてくる」32頁

「現代科学のいろいろな分野で同じような一般的概念と観点が進化してきた。かつての科学では、観察される現象を、たがいに独立に調べることのできる要素的単位の相互作用に還元して説明しようとした。ところがこんにちの科学には、多少漠然と『全体性』と名づけられるようなものに関する諸概念が現われている。つまりそれはオーガニゼーションの問題、局部的な事象に分解できない現象、各部分を個々に離したときと高次の構造(configuration)をもたせたときとで部分の行動に差があることに明示される動的な相互作用等々であり、要するに、ばらばらに各部分を研究したのでは理解できないさまざまな秩序をもつ『システム』の概念である。研究対象が無生物か生物か社会現象かにかかわらず、科学のあらゆる分野にこのような性質をもつ概念と問題が現われてきた。それら個々の科学の発達はたがいに無関係で、たがいのことをほとんど知らず、かつ異なった事実と、抵触しあう考え方のもとになされたのだから、この一致はなおさら驚くべきである。これらの発展は科学研究での態度と考えとに一般的な変化が生じたことを示している」34頁

「いろいろの異なる分野に形式的に同一の、つまり同形(isomorphic)の法則が見いだされる。多くの場合、『システム』の一定のクラス(類)あるいは部分クラスに対して、そこに関与する実体の性質が何であるかにかかわらず、同形の法則がなりたつ。一定の型のシステムであれば、システムの特殊な性質と関与する要素の如何にかかわらずあてはまる一般的なシステム法則が存在するようにみえるのだ。
 このような考察から一般システム理論と呼ぶ科学の新しい分科が要請されてくる。その主題は、成分要素とそれらの間の関係あるいは『力』の本性が何であってもそれにかかわらず、『システム』全般についてなりたつ原理を設定することである。
 それゆえ一般システム理論は、これまでは空疎でぼんやりとしてなかば形而上学的な概念と考えられてきた『全体性』に関する一般的科学である。仕上がったあかつきの形は論理ー数学的な一個の学問となり、それ自体は純形式的なものだが個々の経験科学に応用できるものとなるだろう。このものが『オーガナイズされた全体』を扱う科学に対してもつ意味は、確率論が『偶然事象』を扱う科学に対してもつ意味と同じものであるだろう」34-5頁

「下記に一般システム理論のおもなねらいを示す。
 (1) 自然および社会諸科学に統合をめざす一般的な動きがある。
 (2) このような統合の中心はシステムの一般理論の中にあるように見える。
 (3) このような理論は非物理学分野の科学で精密な理論をめざすとき重要な手段になりそうだ。
 (4) 個々の科学の世界を『縦に』貫く統一原理を展開することにより、この理論は私たちを科学の統一の目標にさらに近づけてくれる。
 (5) これは科学教育できわめて必要とされる統合へと導く」35頁

「微分方程式は物理的科学、生物的科学、経済的科学、またおそらく行動科学においても、広い範囲を覆えるものなので、この事実は、微分方程式を、一般化されたシステムの研究へのよいアプローチの一手段としている」35-6頁

「システムのうちには、その本性と定義そのものからして閉鎖システムではないシステムもある。生きた生命体はどれも本質的に開放システムである。生物体は成分の流入と流出、生成と分解の中で自己を維持しており、生きているかぎりけっして化学的、動力学的平衡の状態にはなく、それとは違ういわゆる定常状態にある。これこそ代謝と呼ばれるあの生命の根本現象、すなわち生きている細胞内での化学過程の本質である。この場合にはどうなるか? 明らかに物理学の伝統的なやり方は、開放システムでありかつ定常状態にあるものとしての生物体には原理的に適用できない」36頁

「等結果性(equifinality)の原理…閉鎖システムでは、最終状態はかならず初期条件によって一義的に決められてしまう。…これが開放システムだとそうならない。開放システムの場合にはいろいろ異なった初期条件と異なった方法からも同一の最終状態に達する。これがいわゆる等結果性であり、生物学的調節の現象にとって重要な意味を持っている。生物学史に親しい人ならば、ドイツの生物学者ドリーシュを生気論に導いたのがまさしく等結果性であったことを思いだされるだろう。生気論とは、生命現象は自然科学の言葉を用いては説明できないとする教義であった。ドリーシュの主張は胚の初期発生についての実験にもとづくものであった。完全な卵からでも、半分に割った卵のそれぞれからでも、完全な卵を二つくっつけたものからでも、同じ最終結果、すなわちウニの正常な個体が一つできるのである。同じことは人間を含む他の多くの種にもあてはまり、一卵性双生児というのは一つの卵が割れた結果生まれる。等結果性はドリーシュによれば、物理学の法則にそむくものであり、正常な生物体を作りあげるという目標をめざして過程を支配する霊魂まがいの生気要因がなければ不可能だという」37頁

「エンテレキー」ですな😅

「もう一つ無生物的自然と生物的自然との間で一見して対照をなすのは、ときにロード・ケルヴィンの崩壊(degradation)とダーウィンの進化(evolution)の間のまっこうからの矛盾と称せられたもの、つまり物理学における消尽の法則と生物学における進化の法則との矛盾である。…熱力学の第二法則…ところがこれと反対に生物の世界で見られることは、胚発生でも進化でも、より高い秩序と異質性とオーガニゼーションへと向かう推移である。しかし開放システムの理論をもとにすれば、エントロピーと進化のみかけの矛盾もなくなる。…閉鎖システム中のエントロピー変化はつねに正である。つまり秩序はたえず崩される。ところが開放システム中では、不可逆過程によるエントロピー生成ばかりでなく、負と称してもよいようなエントロピーのとりこみがある。自由エネルギーの高い複雑な分子をとりこんでいる生きた生物体中でおこっているのはこれである。つまり自らを定常状態に保っている生物システムは、エントロピー増加を避けることができるし、高度の秩序とオーガニゼーションの状態へ向かって進むことさえできる」37-8頁

「生物内自然において物理学法則が破られると考えられていた多くの例は実際には存在しない、というよりむしろ物理学理論の一般化とともに消えうせることがわかった…一般的にいえば、開放システムの概念は非物理学的なレベルに使うことができる」38頁

「工学でも生物界でもきわめて多種多様なシステムがフィードバックの図式に従っている。そうしてこういう現象を取扱うために、サイバネティクスと呼ばれる新しい学問が、ノバート・ウィーナーによって導入されたことはよく知られている。この理論は、人工機械でも生物体でも社会的システムにおいてフィードバックの性質をもった機構が目的論的あるいは目的指向的ふるまいの基礎になっていることを示そうとするものである」40頁→

承前「けれども心にとめておかなければならないのは、フィードバック図式はむしろ特殊な性質をもったものであるということだ。…生物体での多くの調節は本質的にフィードバック式のものとは異なった性質をもっている。すなわち過程どうしの動的な絡みあいによって秩序が産みだされるようなものである。…生物システムでの<一次的>な調節、つまり胚発生においても進化においてもいちばん基本的で根元的なものは、動的な相互作用を本質とすることを示すことができる。これは生物体が、自らを定常状態に保ち、もしくは定常状態に近づこうとする一つの開放システムであるという事実にもとづいている。このようなものの上に重ね合わされて、私たちが<二次的>と呼ぶ調節がある。この二次的調節が、特にフィードバック型の固定した配置によって制御されているのだ。このような事情は、前進的機械化と呼んでもよいオーガニゼーションの一般原理の産物である。最初にはシステムは——それが生物学的なものであれ、神経学的、心理学的、社会学的なものであれ——その成分の動的な相互作用によって支配される。それからのちに、固定した配置と束縛条件が確立してきて、これによりシステムとその部分はいっそう効率的にはなるが、しかしその反面、その等可能性はだんだんと減じ、最後にはなくなってしまう」41頁

「<因果性と合目的性>
…19世紀の古典物理学から生じた機械論と呼ばれる世界観では、仮借ない因果法則で支配される原子の無目的なふるまいが、無生物、生物、心的なものを問わず世界のあらゆる現象を生みだしていた。目的指向性、秩序、目的などの入りこむ余地はなかった。生物の世界もランダムな突然変異と淘汰(選択)の無意味な行為のつみかさねによる偶然の産物と考えられた。心の世界は物質的なできごとへの奇妙でなにやらわけのわからない付帯現象とされた。
 科学の唯一の目標は分析することのように思われた。いいかえれば実在を限りなく小さな単位に分け、因果連鎖の個々の環をばらばらにしてみせることであった。こうして物理学的実在は質点や原子に分割され、生物体は細胞に、行動は反射に、知覚は時々刻々の感覚作用に、と分割された。それと対応して、因果関係は本質的に一方向的であった。…古典科学の基本概念を要約しようと試みたカントの有名な範疇表を思いだしてみるとよい。相互作用とオーガニゼーションの概念は埋め草にすぎないか、あるいはぜんぜん現われさえしないことがその特徴である」41-2頁→

(承前)「私たちは現代科学の特徴として、ばらばらな単位が一方むきの因果関係のもとに作用するというこの図式では不十分であることがわかったことをあげることができよう。つまり科学のあらゆる分野に、全体性、全体論、有機体的、ゲシュタルトなどの概念が現われてきたのであって、これらすべては、結局たがいに作用しあう要素からなるシステムという目でものを見なければならないことを意味している。
 同様に合目的性や目的指向性の概念も科学の枠外のものとされ、ふしぎな、超自然的な、あるいは擬人的ななにものかの活躍舞台となってきた。さもなければこうした概念は、科学とは本質的に無縁のにせの問題であり、無目的な法則によって支配される自然の上に、観察者の心をまちがって投射したものにすぎないとされた。しかしながらこうした側面はたしかに存在するものであり、適応性、合目的性、目標指向性その他類似の言葉でさまざまに、かなりいいかげんに呼ばれるものを考えにいれずには、行動や人間社会はいうまでもなく、生きた生物体を考えることも、できるものではない」42頁

フォロー

「生物的調節には[ホメオスタシスとは]もう一つ別の基礎がある。それは等結果性、すなわち異なった初期条件と異なった仕方から同一の最終状態に達しうるということだ。このことは開放システムならば定常状態に達するものであるかぎり、すべてに見られることである。生物的システムの根本的な調節可能性は等結果性にもとづくもののようである——つまり、あらかじめ決定された構造や機構にもとづくのてはなく、むしろ逆にそういう機構を排除するような、そしてそれがため生気論の論拠となったような調節はすべてそのようにみることができる」73頁

「生物的構造の適応…はおそらくランダムな突然変異と自然淘汰の因果的働きによって説明できよう。けれども、この説明はあのきわめて複雑な生物的機構とフィードバック・システム…の起源に関してはよほど疑わしい。生気論は要するに、生物の目標指向性…を到達点の予見の知恵…によって説明しようとの試みである。これは、方法論として自然科学の枠を越えたところにでてしまい、経験的にも正当化できないものだ。…等結果性やアナモルフォジスのように『生気論の証拠』とされた現象の重要な部分は、開放システムとしての生物体の特徴的な状態からくる当然の結果であって、したがって科学的な解釈と理論で扱えるはずのものである」73-4頁

「一般システム理論はさらに科学での重要な調整の道具となるべきものだ。異なる分野に同一の構造をもつ法則が在存[ママ]すれば、複雑な扱いがたい現象に対して、より簡単あるいはよりよくわかっているモデルを使うことが可能になる。したがって一般システム理論は、方法論的にいって、異なる分野間で原理の受け渡しを制御したり促したりするのに重要な手段となるべきものであって、これによってたがいに孤立した各分野で同一の原理の発見を二重にも三重にも繰りかえす必要がもはやなくなるであろう」74頁

「共通の起源から出発して独立に発展していく並行進化の現象の中には興味深い類似性があることを知る——ある場合にはそれは民族の言語の独立の進化であったり、ある場合には哺乳動物の一定の綱の中のグループの独立の進化であったりする」75頁
文化進化論の先駆みたいな…

「純粋に形式的な『システム』の定義から、いろいろな科学分野でよく知られた法則に一部分表現されていたり、また一部分はこれまで擬人的だとか生気論的だとかされてきた概念に関する多くの性質が導きだされてくる。したがって、いろいろな分野での一般的概念の並行性やさらに特殊法則の並行性さえも、これらが『システム』に関連しているということと、ある種の一般原理はどんな性質のシステムにもその本性の如何にかかわらず適用できるということからくる当然の結果であることになる。かくして全体性と総和、機械化、階層的秩序、定常状態への接近、等結果性などの原理がまったく異なった分野に現われる場合がある。異なった領域に見いだされる同形性は、一般的なシステムの諸原理の存在、多少とも十分に発達した『一般システム理論』の存在にもとづくものである」77-8頁

「当面の考究の関心は論理的相同にある。私たちはこれを次のようにいい表わすことができよう。もし対象が一つのシステムであるならば、それは他の点ではどんなものであるにもせよその如何にかかわらず、一定の一般的なシステム特性はもたねばならない。論理的相同は科学における同形性を可能とするだけでなく、概念モデルとして現象の正しい考察と最終的な説明のための道具を与える力をもっている」78頁

「システム特性の相同は、ある領域を他の低次の領域へ還元することを意味するのではない。しかしそれはまた、単なる変形や類推でもない。むしろそれは、『システム』をなしていると見なしうるかぎり、どんな種類の実在の中にも見いだされる形式的な対応なのである」79頁

「一般的なシステム原理の解析によって、これまでしばしば擬人的、形而上学的、あるいは生気論的と考えられてきた多くの概念が厳密な定式化に耐えることが示される。それらはシステムの定義あるいはある種のシステム条件から導きだされてくる結果である」79頁

「私たちは、実在のいろいろに異なったレベルあるいは層に対して科学法則をうちたてることは、たしかにできる。そうしてここに私たちは、『形式的様態』(Carnap)でいうならば、科学の統一性ということがあるとしたときの、異なった分野における法則と概念図式との対応もしくは同形性を見るのである。『実体的な』」言語でいえば、これは世界(すなわち、観察することができる現象の総体)が構造の一様性を示していて、いろいろに異なるレベルや領域において秩序の同形的な痕跡によって自らを顕現している、ということを意味する。
 実在は、近来のとらえ方では、オーガナイズされた実体の巨大な階層的秩序とみられるのであって、その結果、物理学的および化学的システムから生物学的および社会学的システムにわたる複数のレベルが重なりあうことになる。『科学の統一性』が当然とされるのは、あらゆる科学が物理学および化学へとユートピア的に還元されることによるのではなく、実在の異なったレベルが構造の一様性をもつことによるのである」81頁

「とくに自然科学と社会科学、あるいはもっと表現にとんだドイツ語の術語を使えば『自然の学問と精神の学問』(Natur- und Geisteswissenschaften)のギャップは、後者が生物学的概念へ還元されるとの意味ではなしに、構造上の類似性の意味において非常に小さくなる。これが、対応しあう一般見解と考えが両分野どちらにも出現する理由であって、最終的には後者における法則の体系の確立につながっていくかもしれない」81頁

「物理学的現象を実在の唯一の標準と考える態度は、人間を機械化し、高次の諸価値を正当に評価しない結果を導いた。…機械論的見解を投げすてた後には、私たちは『生物学主義』にすべりこまないように、つまり心的、社会的、文化的現象をただ生物学的立場からのみ考えることのないように用心しなければならない。…有機体論の考え方は、生物学〔主義〕的考えの一方的な優位を意味するものではない。異なるいろいろのレベルに一般的な構造の同形性があると強調するとき、それは同時に、レベルごとに自律があり特異的な法則をもつことをも主張しているのだ。
 私たちは、一般システム理論の将来の展開が科学の一体化をめざす大きなステップとなると信じている。それは将来の科学において、アリストテレスの論理学が古代の科学で果たしたのと似た役割を果たすことになることもあろう。…現代の科学では、動的な交互作用が実在のあらゆる分野で中心課題になっているようにみえる。その一般原理は、システム理論によって定義されるべきはずのものである」82頁

「40年ほど前、私が科学者としての生活を始めたとき、生物学は機械論ー生気論論争のさなかにあった。…こういう状況の中で、私その他の人々はいわゆる有機体論の見方に導かれていった。一個の短い文章でいうならば、それは生物体はオーガナイズされたものであって、私たちは生物学者として、それがどんなことであるのか発見しなければならない、ということである。…この方向の一ステップがいわゆる開放システムと定常状態の理論で、これは本質的には在来の物理化学、反応速度論および熱力学の拡張である。けれども一度とった道を途中で止まることはできないように思われたので、私はさらに広い一般化まで導かれることになり、これを私は『一般システム理論』と呼んだ。この考えはかなり以前にさかのぼる。それを最初に提出したのは1937年、シカゴ大学で行なわれたチャールズ・モリスの哲学セミナーにおいてである。けれどもその当時、理論なるものの評判は生物学では悪かった。…それで私は草稿を引出しにしまいこみ、この問題に関する私の最初の出版はようやく戦後のことであった」88-9頁

「狭い意味での一般システム理論(GST)、これは交互に作用する要素の複合体としての『システム』の一般的規定から、相互作用、総和、機械化、集中化、競争、等結果性など、オーガナイズされた全体物の特徴的であるような概念をひきだし、それらを具体的な現象に応用することを試みる。
 広い意味でのシステム理論は基礎科学の性格をもっている一方、応用科学にもその関連物をもっていて、それは時に『システム科学』という一般名の下に包括される」89頁

「物理学それ自体の発展によって、物理学主義的また還元主義的テーゼは問題をはらむようになり、形而上学的偏見のようにさえみえてきた。物理学が語る実体——原子だとか素粒子だとか——は以前に考えられてきたよりもはるかにはっきりしないものであることがわかった。…その一方、生物、行動、社会諸科学がひとりだちのものとなった。一面ではこれらの科学への関心の高まりと、また新しい技術からの要請によって、<科学的概念の一般化>とモデルが必要になり始め、その結果、物理学の伝統的な体系を越えた新しい分野が現われる結果となった」90-1頁

「生物を観察すれば、驚くべき秩序、オーガニゼーション、連続変化の中での維持、調節、また見かけ上の合目的性が認められる。同様に人間の行動の中にも目標指向性と合目的性を見すごすことはできないのであって、たとえ厳格に行動主義的な立場を受容するにしてもそういえるのだ。けれどもオーガニゼーションとか目標指向性とか合目的性とかの概念はまさしく古典科学の体系には現われないものなのだ。実際問題として、古典物理学に基礎をおいたいわゆる機械論的世界観の中では、それらは架空のものか形而上学的なものと考えられた。このことは、たとえば生物学者にとっては、生きた自然のまさに特徴をなす諸問題が科学の正当な分野を越えたところにあるように思われることを意味する。多変量間の相互作用、オーガニゼーション、自己維持、目標指向性等々の側面を表現できるモデル——概念的な、またある場合には物質的でさえあるモデル——の出現は、科学的思考と研究の中へ<新しいカテゴリーを導入すること>を暗に意味する。…
…現代物理学と生物学では、<オーガナイズされた複雑性の問題>、すなわち多数ではあるが無限数ではない変数間の相互作用がいたるところに顔をだし、新しい概念道具を要求している」91-2頁

「科学を拡張して、物理学の中では置きざりにされ、生物、行動ならびに社会科学的現象の特徴的な性質には関係しているような側面を扱うことが必要とされていると思われる。これが、導入されるべき<新しい概念モデル>にほかならない。
…これらの拡張され一般化された理論的な構造あるいはモデルは、学際的なものである——すなわち科学の在来の区分を越えたものであり、いろいろちがう分野の現象に応用できるものである。その結果、いろいろの分野に現われるモデルと一般原理と、特殊法則さえにも同形性が見られることになる。
 要約すると、生物、行動および社会の諸科学と現代工学との内容は、科学における基本概念の一般化を必須のものとしている。これは伝統的物理学でのカテゴリーと対比しての新しい科学思想のカテゴリーを意味している。またそのような目的で導入されたモデルは、学際的な性質を帯びている。
…『全体性』と『オーガニゼーション』の一個の理論へと向かう現在のさまざまなアプローチは統合され統一されることになるかもしれない。じっさい、たとえば不可逆熱力学と情報理論のあいだでのいっそうの総合化というようなことは、ゆっくりと発展しはじめているのだ」92-3頁

「要するに私たちの見解は『ホメオスタシス原理を越えて』とでも定義できよう。
 (1) S-R図式は遊びとか探検活動とか創造性、自己認識、等々の領域を見のがす。
 (2) 経済的な図式はまさに人間特有の達成——漠然と『人間的文化』といわれるものの大部分——を見のがす。
 (3) 平衡原理は、心理的および行動的な活動は緊張の緩和以上のものであるという事実を見のがす。緊張の緩和は最適状態どころか、たとえば知覚をうばう実験の場合などは精神病に近い攪乱を招くこともあるのだ。
 S-R モデルや精神分析モデルは人間の本性の実際と非常にかけ離れた像であり、したがって、かなり危険なもののように思われる。私たちが人類特有の達成と考えるまさしくそのようなものは、功用主義[ママ]、ホメオスタシス、また刺激ー反応の図式のもとには、ほとんどもちきたすことができないものなのだ。…もしホメオスタシス的維持の原理が行動の黄金律だとしたら、最終的な目標はいわゆるうまく順応した個人、つまり最適な生物学的、心理学的、社会学的ホメオスタシスに自らを維持するよく油のきいたロボットということになろう」106頁

「私たちは多くの生物学的、人間的行動は効用とかホメオスタシスとか刺激ー反応とか原理を越えたものであること、そしてそれが実に人間の文化活動に特徴的なものであるという考えにいたるわけである。…
…行動とは単に生物学的衝動を満たし、心理的、社会的平衡を維持することではなく、何かそれ以上のものを含んでいる…心身的な生物体の自発活動性と曖昧に呼んでいる原理は実存主義者がしばしば空虚な言葉を使って言いたいと欲していることを、より現実的に定式化したものである」107頁

「現代のシステム理論の光に照らせば、総体論的か分子論的か、法則定立的か個別記載的かというアプローチの二者択一に厳密な意味を与えることができる。集団〔群衆〕の動きに対してはシステム法則をあてはめることができて、それはもし数学化されうるならば…リチャードソンの用いたような微分方程式の形をとるだろう…これに対して個人の自由選択は、ゲームの理論や決定の理論の定式によって記述できるものであろう」113頁

「『合理性の原理』は大部分の人間的行為よりもむしろ動物の『合理性のない』行動にこそ当てはまる。動物や一般に生物体は『擬合理的(ratiomorphic)』に機能して、維持、満足、生存、等々のような価値を最大にする。一般に彼らは、自分にとって生物学的に良いものを選び、有用さ(たとえば食物)の少ないほうより多いほうをとる。
 これに対して人間の行動は、合理性の原理からだけではとても説明しきれない。人間において合理的行動の占める範囲がいかに小さいかを示すには、フロイトを引くまでもない。…すべての可能性と帰結をひとわたり調べるという合理的選択などしていない。…私たちの社会では、選択を不合理に<させる>のが、有力な一群の専門家たち——宣伝屋、動機研究家、等々——の仕事になっているが…これは本質的には、生物学的諸因子——条件反射、無意識衝動——をシンボル的な価値と結びつけることによってなされるのである」114頁

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