古いものを表示

「『判断力批判』における生物学的内容についてのわれわれの最終評価は、以下のようになる。人間とその行動に関して、カントは明らかに生気論者であったが、有機体に関して彼は、なお問題含みであった。彼は、静的および動的目的論の論理的な違いについて、常に意識していたわけではないし、自然科学のあるべき形についての彼の理想と、自身の生気論とは非常に矛盾したものであり、カントはこれに満足してはいなかった。その理想は誤った厳格な機械論であり、そこでは(まったく不思議なことに、われわれは歴史的観点からそう読みうるのに)魂のための活動空間はあるのに、魂に似た自然の作用因については存在していなかった」75-6頁

「有機体生成の教理とその法則について、シェリングは何も明確には述べなかった。むしろ彼は、生気論と目的論的機械論の間で、常に逡巡していたが、後に後者に傾いた。ヘーゲルもまた、客観的な要素的力に対抗して、連続する光として生命を記述するとき、生気論の特徴を帯びるのだが、完全なものではない」83頁

「本書においては、キュビエは名前を挙げるにとどめる。生理学の基本的問題で、彼は生気論的ではあるが、独自の論をもってはない。この点は、彼の別な領域での著作を検討すれば、明確になる。彼自身は、ビシャの理論に同意すると宣言している。
 よく知られているように、ゲーテの自然哲学に対する考え方に関して、とくにキュビエは『型』の概念を論じ、『エンテレキー』という言葉もよく使用するのだが、生気論の歴史からすると、明確な進歩が認められないから、名前を挙げるだけとする」84頁

「[ローレンツ]オーケンの奇妙な理論は本質的に、有機体の形態は他に還元できないとする、生気論の基本的真理に立脚している事実が読み取れる」86頁

「[J. C.]ライルは、生きる物質という観念に立脚した生気論的理論の、最初の主張者であり、そう明確に考えた人間であったが、理想(idea)から物質へどう移行するのかという問題の重要性に比べると、その理論はあまりに単純すぎた。彼は単に、理想をもつ物質の存在を認めただけであった」89頁

「トレビラヌスをもって、『スコラ的生気論』の創始と呼んでもよい。彼の主張の大部分は、先行者と大して変わりはないのだが、生理学的理論一般に生気論的システムを導入する学派がここから始まる、と言うことができる。それはこの学派の最後をかざる、ヨハネス・ミュラーまで続く」89頁

「トレビラヌスが初めて、生物学という言葉を、生き物についての理論全体を意味するものとして用いたことは、注目に値する。『われわれの研究の対象は、生命として違いを示す形態と現象、その事態が起こる条件と諸法則、それを生み出す原因についてである。これらの事柄に関わる科学を、生物学もしくは生命の理論と命名することにしよう』」90頁

どっちなんすかね…😅
twitter.com/9w9w9w92/status/13

「すべての物質は組織化されて、常に変化している。しかし、その組織化と変化において、変化の原因となる外部の影響が変化しないかぎり、永続する何かがある、という説である。生体の物質もその例外ではない。たとえば不可侵入性がそれである。トレビラヌスに言わせると、生体組織を構成している生体物質が例外であるのは、単に表面的なものであるにすぎない。宇宙の渦巻きから生じる自然を救うためには、宇宙の波動を打破するダムのようなものが在るはずである。これを媒介する力は、物質の可能性にとって必要な第一義の力ではない。『それゆえわれわれは、第一義的な力からこれを区別して、生命力(vis vitalis)と呼ぶ』」91頁

「彼[トレビラヌス]の場合、『合目的性』それ自体が、人工産物と比べて、生命を特徴づけるものである。本能的なるもの、無意識なるものが、彼の生気論的な理論全体の基礎になっている事実は、重要である。…『生きる存在と、魂を吹き込まれた存在(Beseeltsein)は、同じものである』」94頁

「彼[M. F. オウテンリース]によると、生命には、物質とは本質的に異なる何ものかが存在する。その『生命力』は、身体からは独立したものである」95-6頁

「彼[ティーデマン]の論は、細い部分ではつぎのような結論に達した。活性化されていない身体の存在は、化学的な構成要素において生じる休止の状態に依存し、有機体の存在と維持は構成物の持続的な変化によって条件づけられている、というものである。これは『動的平衡(dynamic equilibrium)』という現代的概念を連想させる」😅 97-8頁

「K. F. バルダハ…
 生命原理(life-principle)は、『機械仕掛けの神(deus ex machina)』ではなく、『生命仕様の神(deus ex vita)』を意味する。いかなる機械論的、化学的理論をもってしても、有機的な形成を説明するのは不充分である。しかし、生命原理は、物質を離れては構想することはできない。それは『物質的手段を介して』、分泌や同化などの有機体共通の活動を介して作用する。『その活性が生命の本質だとしても、物質は単なる偶然にすぎない』」98頁

「ショペンハウエルは、バルダハを、好意的にしかも頻繁に引用した。もちろん、彼が評価したのは、形而上学的な原子、『自然の意志(Will in Nature)であった。われわれは、ショペンハウエルは、自身が信じていたほどには、自然哲学としては大して違わない位置にあったことを、心にとどめておくべきである」100頁

ヨハネス・ミュラー「魂と生命との関係は、一般的な自然におけるすべての物理的な力と、その中で展開する物質との関係に対比できる。たとえば、光や、そこに出現する身体。双方とも謎は同じである」106-7頁

リービヒ「無機的な自然の力に関する知識が不充分であるために、有機物における特殊な力の存在はしばしば否認されてきた。この特殊な力は、無機的力の本性に抗し、その法則に矛盾する行動様式をもつ無機的な力に帰されてきた。その存在をあえて否定する人は、あらゆる化学的な結合は1つではなく、3つの原因、つまり熱と親和性に加え、凝集と結晶化における『形成力(formation forces)』が前提とされている事実に対して無知である」
「生体の中には、凝集力の優位にたち、元素を新しい形態へと結合させる第4の原因がさらにつけ加わる。それは、新しい質——生体の中を除いては出現しない形態と質を、獲得するためのものである」108頁

「彼[ショーペンハウアー]は、生物学を生気論的な意味で、還元のできない特別な法則をもつ独立の科学と見なしたが、同時に彼にとって生命は、一連の事象の最終項であり、他の自然との対比は何も行なわれてはいない」111頁

クロード・ベルナール「われわれは生気論者とは一線を画そう。なぜなら生命の力は、それにどんな名称を与えるにせよ、みずからは何もなすことができないからである。それが作用するには、自然の一般的な諸力の助けを借りてこなければならず、それら諸力を伴わずにみずからを発現させることはできないのである。——われわれはまた、唯物論者とも一線を画そう。生命の発現は、物理化学的諸条件の直接的な影響下にあるとはいえ、それらの条件が整ったからといって、生物に特別にあてがわれる秩序や継起へと、そうした現象をまとめ、調和させることはできないからだ」122-3頁

「ベルナールは、『生命の計画』を認めるが、『生命原理による介入』は認めない。後者の『生命力』は最大限、『規制する力』としては認めるが、『執行する力』としては認めない。これは静的目的論のように聞こえる。
 だがその後、こう言っている。『生命力とは、みずからが産出するのではない現象をも支配する。物理的要因は、みずからが支配するのでない現象をも産出する』。これは生気論的な主張に受けとれる」123-4頁

エミール・デュボア・レイモン「生気論的意味での生命力は存在しない。なぜならそれによるとされる作用も、物質粒子がもつ中心的な諸力から引き出されるものとして分析されうるからである。この種の力は存在しない。これら諸力は独立に存在するのではなく、それを任意に分配したり、物質から取り除くことはできないのである」133頁

「[デュボアやヘルムホルツは]生気論はエネルギー保存則と明確に矛盾する、と述べている。
…[ヘルムホルツ]『生命体が、それに見合ったエネルギーの消費なしに何らか量の仕事を行ないうる事実を、いささかも発見することはできない』」134頁

「真の生気論、少なくとも生命の形態について目的論的な考え方に言及している思索家以外で、注目してよい人間としては、晩年の[フォン]ベアがいる。彼は、1860年代〜70年代に、講演や講義の中で繰り返しその見解を説いた。
 古典的生気論の中でのベアが果たした役割は二次的である。…目的論的な説明を採用する中で、ベアはダーウィン主義への反対陣営に加わった。
 …彼の主張内容を、はっきりした考え方として切り出すのは、実に難しい。彼は、生命過程を有機的な構成の結果とは見なさず、『有機体それ自身が構成し変換するリズムとメロディー』と言っているのである。生命過程を『自身の体を自ら作り上げる創造的思考』と定義したり、型と特殊性との連関を彼は『調和とメロディー』だとするのだが、これなどは単なる比喩でしかない。
 ベアは、刺激を『なにか初源的なもの』以上には明らかにしなかった。それは身体の構成から生まれるのではなく、『生命過程を完成させるもの』として、その上位に位置する。幸いなことに彼は、『良心』を『本能の最高形態』と呼ぶのである」140-1頁

「ベアは一見したところ、真の生気論者で、単なる静的目的論者ではない。彼は両者の基本的な違いに気づいてはいないが、こうも述べている。『生命の過程全体は、物理・化学的現象の結果ではなく、これを制御するものによる』。
…ベアの貢献を、もう一点言及しておく。それは、ダーウィン主義者の言う『生物発生原理(biogenetic principle)』を、発生の歴史が『一般的なものからより特殊な関係に移行するもので、1つの特殊な関係が他に移行するのではない』ことを指摘して、訂正したことである。
…攻撃や誤解をたくさん含んではいるが、実はベアには生気論的な考え方が維持されている」141-2頁

「1890年前後になると、これまでよりも明確に生気論を規定する立場が現れたことで、生気論にふたたび関心が払われるようになった」145頁

「ハルトマンは、現代哲学の代表的人物であり、また、生気論の問題を考察する唯一の現代の哲学者である。…ハルトマンの哲学体系を一言で言えば、『生物学的』であることである。それは、生物学を基礎としており、形態形成、本能、そして人間行動における心理と物理の関係に関して、たいへん生気論寄りに生物学を解釈する型の哲学である。
…ハルトマンの理論は、生気論の歴史にとってはきわめて重要である。それは、要素的生命因子と無機的な因子との関係を明確にするために、生命の自律性の教義を厳格に適用しようとする最初の試みだからである。…ただしハルトマンの理論は、事実問題として生気論に直接関わるものではないし、生命についての機械論的解決が不可能であることを、厳格に示したわけでもない」147-9頁

「生気論に直接関わる問題としては、[エドモント]モントゴメリーは、有機的現象それ自身の基礎として、いかなる機械理論にも反対した。
…彼は、原理的問題において、また『自律的』という言葉遣いにおいて、生気論者であった。…彼の方法は、一方で有機体を、他方で心的生命を参照し、この2つの問題を結合させる解決策を求めることにある」153-4頁

「展開・完成化・有機的生長の法則というさまざまな形をとる、非ダーウィン的進化の支持者…ここには、ハーバート・スペンサーもつけ加えておくべきだろう。偶然説に立つ純ダーウィン理論に対する、多様で徹底した反対論は、ともかく意味があると思われるからである。一般的に言えば、ダーウィン主義に反対する進化論の立場は、また結局は、生気論か機械論かのどちらかとなる」155頁
「最適者生存」の名づけ親なのに😅

「新生気論が本当に確立してきた原因は…W. ルーに代表される、実験形態学、『発生力学(Entwicklungsmechanik)』の再興があったことである。生命の自律性の理論を支えるすべての新しい事実は、この研究領域において獲得されたものである」157頁

「1894年に、[グスタフ]ヴォルフは、ダーウィン主義か目的論か、という問いに対する解決策として、明確に企画された実験を行なった。彼の目的は、生物が最初の発生過程において、いったん削除された器官を回復させるかどうかを確かめ、その回復がどうなされるかを調べることであった。この実験の積極的な成果として、『初源的終局性(primary finality)』が証明された。それは一方で、ダーウィン主義をばかげたこと(ad absurdum)と格下げにし、他方で、積極的適応という事実によって、重要な形で目的論を支持するものとなった。
 実験は、イモリ(Triton taniatus)の眼からレンズだけを取り除くというものである。実験では新しいレンズが、虹彩の外縁から成長し再生された。それは、通常の発生に対する対応ではないにもかかわらず、問題の合目的性にとって最適な形でことは進行したのである。
 かくして、初源的終局性は実証された」😅 161-2頁

「1893年に私[ドリーシュ]は、ウィガントとパウル・デュボア・レイモンの方法論的著作から強い影響を受け、目的論が生命現象の還元不可能な特殊な性格のものであることを、はっきりと自覚するようになった」162-3頁

「生物が保持する形態の調節の能力について、数年間、実験を行ない、1891年以来続けてきた発生生理学での実験結果を集成し考察を続けた結果、『調節(regulation)』概念についての論理的分析の結果と、『行動(action)』概念を結びつけることで、私[ドリーシュ]は意見をすっかり変え、生気論を完全な体系へと完成させてきた。
 すでに1895年に私は、『行動』の問題の分析から、生気論が必然であることを確信するようになった。…1899年の初めに『形態形成の現象における定位 生気論的現象の証拠』…これは、生命の過程は少なくとも、それ自身の法則に従う、動的目的論的な、自律的なものとしてはじめて理解可能であることを明確に論じた、最初の著作である。
…1903年の私の著作、『要素的な自然要因としての「魂」』…において、私は、人間の行動を客観的な運動現象として分析した」164-5頁

「1899年に、パウル・ニコラウス・コスマンが『経験的目的論の要素』…を出版した。…この本は、目的論概念の論理的な定義の枠組みを特別に設定しており、そのため、カントの『判断力批判』といくつかの接点をもっている。
…彼によれば、因果性は普遍的であるが、それだけで妥当性をもつわけではない。彼はこれに、判断の公理として目的論を併置する。そこでは必然性がこれに連動して扱われる。なぜなら必然性の理想は、因果性のそれよりもはるかに大きいからである。一般的形式はこうである。C(原因)=f(E)(効果)、これで因果理論は充分である。『原因』と『効果』という言葉は、ごく一般的な意味で、考慮対象となるすべてのもの全体を要約したものとして用いられる。目的論は、このように形式化される。M=f(A, S) ここで、Mは媒体を、またAとSは、仮定と結果を意味する。
…コスマンは、『生気論か、機械論か』の問題を解決できなかったとしても、少なくとも積極的な意味で、単なる偶然によっては説明できない、生気論的目的論の深い重要性に、決定的な評価を与えた」165-6頁

「可能な変化の進行を留保したり解除したりすることは、個体化因果性を担うものの『作用(action)』様式であり、以後、われわれはこれを、エンテレキー(entelechy)と呼ぶことにする。この名称は、アリストテレス形而上学の用語としてよく知られているが、ここでの用法は、厳密にはアリストテレス哲学のそれに従ってはいない。
…エンテレキーの作用は、与えられた可能性の留保というかたちで存在するという、われわれの理論によってはじめて、従来の古典的生気論(そして現代生気論の多く)が陥っている、きわめて深刻な誤りを回避することができる。これまで生気論に対しては、発生や適応で生物は実際には限界があるのに、生気論の学説に従うと、全能のものになってしまう、という反論がなされてきた。しかし、われわれの理論に従えば、この『調節能力の限界 limits of regularabliity』はこう解釈できる。つまりそれは、エンテレキー作用が働きかけるところの、一定の前形成されている物質的条件に拠るのだ、と」190-1頁

「エンテレキー、あるいは他の個体化因果性があるとき、それ自身はどんな種類のエネルキーでもないし、いかなる空間的な意味での『物質実体(material substance)』でもない。…エンテレキーは、特殊な(sui generis)、非物質的で非空間的な作用因であり、空間の『中へ』作用する。ただしそれは、われわれが用いている言葉で示す自然に対して、論理学的な意味で属している」191頁

「エンテレキーが物質次元の生成の進行を留保していたのを解除し、1つ可能性を現実化させる、とわれわれが言うとき、力学的な意味における生成の障害がエンテレキーになって取り除かれる、とわれわれは言っているのではない。このような力学的な意味における解除(Auslösung)は、エネルギーを必要とするが、エンテレキーは定義によりエネルギーではないのである。エンテレキーは、ただ、それが可能な状態にあれば、それ自身で現実へと進行しうるものを許すだけであり、単純に物理化学の影響の結果としてなる状態のことではない。
 自然の中におけるエンテレキーによる留保の起原を語るのは無益である。つまり、<生命の起原>を語るのは無意味である。この問題に関して、われわれが、何か明確な発言をすることは絶対不可能であり、同様に、<死>(death)の意味についての議論も意味がない」192頁

「自然に対して、全体性概念は認めるが統合化因果性を認めない理論的立場は、生命的自然だけを念頭におけば、自然の<機械説>(machine-theory)と呼ぶことができる。この機械説は、自然(もしくは生命)を単なる偶然領域に属すると考えることについては、すでに反対の立場にある。
 そしていまや、生気論として、生命は単に偶然の領域のものでないだけではなく、機械説をもっても把握しきれない現象であることを示しうる地点にまで到達した。
 生気論のすべての<証拠>、つまり、機械説をもっても生命現象の領域は覆いつくせないことを示す合理的な根拠づけは、間接的証拠によってのみ可能である。それは単に、力学的もしくは単純因果性では、生じている現象の説明としては充分でないことを示しうるだけである」194頁

「実験分析発生学——ルーが名づけた発生力学——の成果は、以下のことを明らかにした。多種の発生初期の器官や一部の生物では、実験によってどの細胞群を取り除いても、その残りの部分が、小さくはなるが正常なミニチュアへと発生しうる場合が存在しうる、ことである。換言すれば、実験的に残された発生初期の器官や生物の部分から、生体の一部分が発生するのではなく、小さいけれども体の<全体>が発生する事態を予想してよいのである。私は、この型の器官や生物を表わすのに<調和等能系>(harmonious-equipotential system)という名前を提示した。このような系では、すべての要素(細胞)が同じ形態発生的『潜在能(potency)』を保有しているはずである。…しかもこれらの要素は、毎回の実験でともに『調和的』に作用する。この等能性と調和的作用を根拠にしてはじめて、実験結果は、現に起こったようなものとして、説明が可能になる。
 発生初期の器官の中では、初期段階の卵割や胚葉系が、この調和等能系の例である。
…動物成体はすべて、さまざまな度合いで回復(もしくは再生)可能、つまり、傷を負ってももとの形態を回復できるから、調和等能的であると言える」194-5頁

「彼[ヴァイスマン]の理論は、さまざまな実験が行なわれるまでは正しいものと思われていた。だが今では、実験によって、いかなる大きさでどの部分を切り取られても、残された部分が、形の比率を乱すことなく発生しうる系があることが示された。この事実は、『機械』は調和等能的な分化現象の基礎たりえないことを示している。なぜなら、<もしあなたが任意の一部分を取り除いてしまうと>、『機械』は、物理・化学的な物質や作用因をもって特別の調整を行なったとしても、<それ自身を保持しえない>。ところが生物では、まだ発生していない調和系なら、どんな削除実験をされても、形態学的機能に関しては、それ自身を保持できる。
 だから、調和系は『機械』ではない。…自然の中の非力学的作用因である『エンテレキー』が、調和等能系において作用している」196-7頁

今だと、幹細胞や万能細胞で説明し尽くされる現象でせうね😅

「調和等能系とは別種の等能系が存在する。たとえば、卵巣はその第2の型であり、<複合等能系>(complex-equipotential system)と言える。調和等能系においては個々の要素すべてが、調和的に協力して全体を形成するのに対して、複合等能系では<各々の>要素それ自体が<全体>を形づくる能力をもっている。すなわち、そのような等能系では、実際、すべての要素が全体を作る能力を同等にもっている」197頁

「蓄音機は、<非常に単純な形で>受けとっているものを放つにすぎないのだが、生物の場合、個々の生涯で起きたことは、つぎの行動のための<一般的な可能性のストック>を形成する。ただし、これがつぎの行動の細部すべてを決定してしまうわけでもない。一般に、歴史性に依拠した行動すべてにおいて実際に起こっていることは、<個別的反応>(individual correspondence)の規準とも言うべき奇妙な原理に従って生じている。…真の行動はすべて、歴史性に依拠した個別の刺激に対する<個別の>応答である。
 そして、この歴史的に作られてきた個別的反応は、力学的因果性にあてはめて理解することができない」199頁

グールドみたいなこと言うてますな😅

フォロー

「調和等能系とその分化について語る時、生物学における生気論的概念を支持する最も重要な議論がここに依拠することになる。…調和系は、発生学の領域ならどこでも見られるというわけではない。…
 問題はこうである。<何が、等能系の各々の部分について、不均等な運命に導くのか?> 何が、等しい可能性から、同等ではない現実へと変換させるのか? 別の言葉で言えば、形態形成におけるさまざまな特性の<位置づけ(localization)>の問題である。この位置づけの機能はどこから来るのか?
 それは、<外部から>来るのではない。その形態形成において、分化の原因となる局所的な外部刺激(exterior stimuli)があったわけではないからである。…
 この場合、位置づけ機能は、その系内部における<純粋な化学的過程>を基盤にすることが<できない>。…化学的な分解や純化からは、幾何学的な調整による平衡が起こるだけである。しかし有機体は、幾何学的な調整や、この種の調整の組み合わせではない。また、有機体は多くの器官があり、同じ化学的組成をもっているのに、たとえば脊椎動物の骨をみても、非常に特殊な形をしている。結局、個体発生の純化学的理論は、等能性と矛盾することになり、それを説明できない」244-6頁

「正常な系に存在すると仮定された発生学的な『機械』は、その系の<一部分>にも、他の部分にも、また互いに重なりあう異なった大きさの部分に関しても同様に、完全性が存在することを示すべき義務がある…というのも、この系のあらゆる部分が、大きさと、もとの系との割合の点で、完全なものを生み出しうることを、われわれは知っているからである。系を成すあらゆる細胞は、形態形成におけるすべての個々の役割を担うことができる。この役割は、単に『その位置の関数(a function of its position)』に従うのである。
 この事実を前にすれば、発生過程の機械説は矛盾にいきつく。これらの事実は、機械の概念に反する。機械は、諸部分を特殊な形に調整したものであり、そこから、あなたが好きな部分を取り除いてしまえば、元のものではなくなってしまう」247頁

「機械説(machine theory)は、形態形成の現象に対してア・プリオリに適用が唯一可能な、機械論(力学説 mechanistic theory)であった。だから、機械説を放棄することは、この現象に対して機械論の試みを諦めるのと同じである。言い替えれば、調和等能系の分化について分析し研究することは、われわれに対して、少なくとも限定された領域において、生命の<自律性>(autonomy of life)の教義、もしくは生気論の教義をうち立てる資格を与えることになる。形態形成においては、物理=化学的な型ではない、ある作用因が機能しているのである」248頁

「ここでわれわれが、重大な根拠に基づいて、卵は発生学的な機械を保持しているとは考えられないと言明することは、すべてのメンデル主義と遺伝に関する細胞学的な研究は、その偉大さと無視できない重要性とは無関係に、この問題領域の半分しかカバーしない、と主張していることになる。遺伝が現実化することが依存する、ある世代から次の世代へ伝達される物質的な単位が存在し、これらの物質的条件が特定の核の中に位置していることをわれわれは知ることになった。しかし、これらの物質的条件は<主要な事象ではない>。何か<調節>(arrange)する作用因が必要なのであり、遺伝におけるこの調節作用因は、機械に似た、物理=化学的な特徴のものでは<ありえない>」252頁

「本能の主たる特徴は、それが経験によるものではなく、むしろ『初源目的論的(primary-teleological)』、つまりちょうど再生現象のように、<それが初めて生じるとき>の多様性にある」253頁

「どんなものであれ刺激の単一の<要素>を単一な反応<要素>と結びつけることは、不可能であり、むしろ、1つの<全体>は別の<全体性>と連関している…
…『行動』は生命の<機械説>を基盤にして説明可能なのか、脳の中や神経系の物質過程によって、実際に起こっていることすべてを説明できるのか…
 もし行動している人間が写真機や同型の機械のようにふるまうのであれば、われわれは機械説を受け容れられる。だが、人間はこの機械のようにはふるまわない。それ以上の何かであり、人間を写真機と区別する特徴のすべては、人間と機械すべてを区別するものである。…行動している人間は…舞台俳優ではない。<彼は、自身の個人的歴史の積み重ねを統治できる存在である>。彼の歴史は、彼に将来の行動のための<手段>を提供するが、それ以上の力はもたない。彼が行動するとき、これらの手段は、<全体性の中での応答>の原理に沿って利用されることになる。…
…人間の行動の特徴は、それを自然の過程と見なすと、機械説を受容することを禁止すると言ってよい理由を得ることになる」258-9頁

「人間の行動に関係して、われわれが、生命の機械説を否定する際に用いる論理は、また、いわゆる<心理=物理並行論>(psysho[ママ]-physical parallelism)の理論への反論の一部ともなるものである。並行論とは、心理現象は完全な力学的過程の因果連鎖の『別の一面(the other side)』にすぎない、とするものである。…
…生気論者は、一部の心理学者が主張する人間行動の並行説という教義は、少なくともそれが、人間行動の自然的局面は破壊を受けない一連の力学的な流れである、とする断定を含むかぎり、受け入れることはできないのである」259-61頁

「われわれは、有機的な自然の中に、物理=化学の型には属さない、それ自身の自律性をもつ、大きな一群の現象が存在することを証明しえたと考えている。ただしそれは、単なる<否定的な>言明以上のものではないのである。そこでわれわれは、アリストテレスの用語である<エンテレキー>(entelechy)を、われわれか研究してきた、生命の過程において機能する自律的な作用因を指す名前として導入する。これはそれ以上のことはいっさい意味しない[😅]。エンテレキーは、非物理的・化学的な何ものか、である。そしてそれに帰属すると確実に言いうる唯一の積極的特徴は、それが現実の基礎的な作用因であり、自然因子であるということだけである。…ここでは、エンテレキーの<暫定的な否定的性格>(provisional negativeness)を認識することがとくに大切である。なぜなら、生気論者がしばしば犯す誤り、つまり深く考えることなしに生気論的な作用因を何か『心理的(心的 psychical)』なものと見なしてしまう誤りから、われわれ自身を回避する道だからである。<機械論的>なものに反対することは、単に<非=機械論的>であることであり、即、それが『心理的』であることを意味しない」262頁

「そもそも、エンテレキーには『心理的』な性質があるという発言は、まったく無意味であり、あるとすれば、かろうじて形而上学的な意味がありうるだけである。…
 繰り返すが、形而上学においてのみ、エンテレキーは『心理的』な型をとりうる」262-3頁

「<エンテレキーは物質に依存しない>
…エンテレキーは、定義された意味における空間中の物質としての『特性(property)』、属性、出来事、あるいは同様のものではないことを、われわれは把握する。…『量』とか『計測』という概念を、多様性の<調節>(arrangement)に関係する何ものかに対して適用することなどはナンセンスである。
 かくして、エンテレキーの存在は、その積極的な効果について語りうるものがないため[😅]、空間中の物質には依存しないことになる。空間中の物質に依存しないという同じ理由によって、エンテレキーは、エネルギーの一種ではないと言うことが可能になる。なぜなら、エンテレキーは<空間中での因果性の測定>(measurement of causality in space)以外のものであるからである」263-5頁

「エンテレキーの非エネルギー的性質という認識は、非常に重要な帰結をもたらす。もしエンテレキー自身が一種のエネルギーではなく、非エネルキー的なものであるとすると、以下のようなことになる。エネルギーの保存法則…は、ア・プリオリな、理性の要請による最後の切り札であり、ある条件の下で、<生気論がこれを必ず破るようなことは不必要である>…。いわば、エネルギーの流れは生命を通過するのであり、エネルギーの消失も出現もなく、何ものの出入りもない。エンテレキーはエネルギーを創出しない。少なくともわれわれの知るかぎりでは」265頁

「<エンテレキーの調節作用>
…生命において機能する非=力学的な作用因が、その留保がなければ起こったであろう、ある種の出来事を留保している…とする仮説…ここでわれわれは、非常に特殊な非=力学的(non-mechanical)な出来事を把握しており、そしてそれは、調節能力の限界を理解可能にするものである。エンテレキーは、物質的な条件に縛られたものであり、それは存在ではなく、効果の中にある。いわゆる生命の物質的な<連続性>(continuity)は、いまや単に以下のような意味になる。『ポテンシャル』の違いという形で、出来事について非常に多くの可能性を包含した、ある種の物質の糸が、技術用語を使えば、永久にエンテレキーの制御の下にある、ある物質の糸が、存在するのである。
 この、エンテレキーの部分における制御行動がどこから来るのか、われわれはまったく知らない。だから、われわれは、<生命の起源について何か言明することは絶対に不可能である>」😅 267-8頁

「この[調和等能]系が、たとえばn個の細胞から成り立っており、すべてが等能であるとする。このことは、n個の細胞のそれぞれに、<同じ>だけの多数の生成についての可能性が、物理=化学的に、ただしエンテレキーに支配されて、準備されている[ここの日本語おかしい]。この系の発生は、いまやエンテレキーが<保留している力を弛緩させ>…それによって事態が進行するのを許すのである。…それぞれの細胞の中では、おそろしく多くの可能性の中から、それぞれ1つのことが起こりうるのである。このようにおそろしく多くの出来事がエンテレキーによって留保されている系が、エンテレキーの調節的な弛緩作用によって、可能性の均等な分布から実際の効果として不均等な分布へと変換することが、起こるのである。これがエンテレキー領域部分の、全能可能性ではない、すべてである。
 われわれが仮定したエンテレキーの弛緩作用は、絶対に非=エネルギー的である…エンテレキーの弛緩作用は、保留の作用と同様、それ自体(sui generis)の作用である。
 このことは、力学的および非=力学的な世界の間の因果関係を、有機的生命は物質によって制限されているという事実を犠牲にすることなく理解可能にする、ただ1つの可能な道のように、私には見える」268-9頁

「生気論の論理学は、<全体>(wholeness)の論理学の一分枝である」271頁

「出発点において、<全体性>もしくは<全体>の概念は、生気論の理論の中では非常に重要であり、<1つの概念>として完全に正当化される」273頁

「私は、カントによって定式化された『カテゴリー』概念が、生気論の学説に適合することを示してみたい」285頁

「全体性の概念の論理学的な正当化論、とくに統合化因果性の理論は…生気論を正当化するだけではなく、同時にそれは、新しくまた非常に重要な、たくさんの問題を提起する。
 われわれは、生物学的な<個体性>についてのみ語り、そこにおいては、個体性における生成の型が統合化因果性であることを見てきた。しかし生物学的な個体性を別にすると、生物学的な個体性が成す集団について考察されるべきものが、なお存在する。生きる物の全体性、つまり進化論(theory of descent)として表現される生命の過程、がそれである」288頁

「われわれは、進化論を無条件に受け入れる。とくに動物と植物の地理学的な分布と、古生物学から引き出される、強烈な議論はこの説を支持している。しかし、いわゆる系統発生の<法則>(law)についてはどうだろうか? ラマルクとダーウィンの名に関連した有名な理論は、真の系統発生の法則を説明していないことは、今日、広く認識されていると見てよい。双方の理論とも、ある領域では真であるにしても、それらは、主たる問題、系統発生における見かけ上の<進行する複雑さ>(progressive complication)の問題には届いていない。双方の理論は、ある種の生物におけるある種の適応について、たとえば、獲得形質の遺伝といった、付加的な仮説の助けをかりて辛うじて説明が可能になるだけである。不幸なことに、系統発生の<中心的な>…問題に関して、われわれは<絶対的に無知>…なのである。これに対してわれわれは、形式的で仮説的な解決を提示できるだけである。それは、ちょうど個体的エンテレキーが個体発生において自身を実現させるように、系統発生の過程という空間において自身を実現させる、ある種の超個体的なエンテレキーが存在する、と仮定することが可能なだけである」289頁

「われわれの見る世界は、徹底して二元論的なものである。われわれは、単一および統合化因果性、無機と有機の自然、偶発事件と秩序、を議論してきた。そうであるなら、二元論を何らかの一元論で置き換える努力をすべきではないのか? もちろん、偶発事件を扱う現代的な一元論によってではなく、本当の秩序一元論によって」292頁

「<偶発事件の存在>
 秩序一元論の理想をわれわれが獲得しえない主たる理由は、<偶発事件が実際存在することを否定することが不可能である>ゆえである。
…展開[evolution]の流れ以外に、系統発生にはまた、真の変異や適応に関連して何らか偶発事件が存在することに、充分な理由があることが推測できる。超個体的な全体性に関する偶発事件は、ラマルク主義とダーウィン主義の主体問題(subject-matter)[主題]を形づくる」296-7頁

新しいものを表示
ログインして会話に参加
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。