先に訳者解説——
「有名なヘッケルの法則とは、正確には、自然分類と等値のものである系統樹と、個体発生と、系統発生との、三重の並行関係を主張するものである。それゆえに根本法則であったのである。
しかしこれは見方を変えると、個体発生の原因は研究者にとっては操作不可能な(あるいは実験的に操作しようなどとは思いもよらない)、系統発生的・進化論的な時間に支配されているものであった。ほんらいの意味での個体発生の原因が追求されるようになるには、系統発生的因果関係から因果概念のみが、濾し取られる必要があった。この知的作業を体系的に行なったのがウィルヘルム・ルー(1850〜1924年)である。彼はその成果を発生力学(Entwickelungsmechanik)として提唱した」322頁
500文字制限だとたくさん書けますなあ…まだまだ字数が残ってます😅
「熱力学第2法則の解釈問題は、当時の物理学者の間でも、力学的自然観が不完全であるか否かという論争に連なる中心的問題であった。これを象徴する事件が、1890年代のボルツマンとオストワルドとの原子論論争であり、これは、若いドリーシュが思索をめぐらしていた時期と重なっていた。ドリーシュは唯物論(Materialismus)という言葉を、自然現象すべてを究極的には原子の力学的運動をもって説明しようとする立場の意味で用いているが、この言葉使いはオストワルドと同じ用法である。オストワルドのエネルギー一元論が、ドリーシュが生命現象における物理・化学還元主義を否定し、秩序(エンテレキー)一元論へと進んでいった時、思考の型の先行モデルになったとも考えられる」330-1頁
「生物の発生は、たしかにルーの言うように、見えない多様性が見えてくる過程であると定式化することができる。ここにも自明性の原理が適用されるとすれば、少なくとも見えてきた多様性に見合うだけの多様性が、あらかじめどこかに存在していなくてはならない。古典力学が占有する三次元の『現象空間』にこの多様性の起源が組み込みえず、むしろこれを積極的に拒否するようにみえるとすれば、もはや空間以外から空間の中へ供給される以外には考えようはない。それがエンテレキーである。秩序そのものであり、これを供給・制御する因子であるエンテレキーは、いまだ発現していない内的エンテレキーと、顕現した外的エンテレキーとがあることになる」332頁
「『有機体の哲学』の成功によって、ドリーシュは1910年代〜30年代における生物学的思想と哲学一般に、無視できない影響を与えた。哲学的な広がりについてここでは詳述しない。動物学者のヤコブ・フォン・ユクスキュルの名前だけをあげておく。…そもそも、ドリーシュの独我論と現象学とは、その哲学的な姿勢がよく似ており、フッサールはこの本[『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』]の冒頭で、ドリーシュとまったく同じ意味でエンテレキーという言葉を使用している。『人間性そのもののうちにエンテレキーとして本質的にふくまれていたものが、ギリシャ的人間においてはじめて発現するにいたったのではないのか、が決定されるであろう』」337-8頁
「静的目的論(static teleology)と動的目的論(dynamic teleology)…
静的目的論は、有機体の力学説(mechanistic theory)に基づいた立場である。これによると、生命過程やその秩序は、他のいたるところに妥当する法則による、世界の一般的秩序の特殊なケースに過ぎない。その集合体のそれぞれすべての要素は、自然の同じ要素から偶然そう成り立っているのであり、それらの過程はまとまって結果的に『生命』となっている。この見解に従えば、生命とは単なる組み合わせに特徴があるのであり、何か特殊な法則性によるものではない。…
動的目的論はよく言われているように生気論(vitalism)の立場をとる。この立場は『生命過程の自律性』の認識に向かう」xvii
クロード・ベルナール「われわれは生気論者とは一線を画そう。なぜなら生命の力は、それにどんな名称を与えるにせよ、みずからは何もなすことができないからである。それが作用するには、自然の一般的な諸力の助けを借りてこなければならず、それら諸力を伴わずにみずからを発現させることはできないのである。——われわれはまた、唯物論者とも一線を画そう。生命の発現は、物理化学的諸条件の直接的な影響下にあるとはいえ、それらの条件が整ったからといって、生物に特別にあてがわれる秩序や継起へと、そうした現象をまとめ、調和させることはできないからだ」122-3頁
「真の生気論、少なくとも生命の形態について目的論的な考え方に言及している思索家以外で、注目してよい人間としては、晩年の[フォン]ベアがいる。彼は、1860年代〜70年代に、講演や講義の中で繰り返しその見解を説いた。 古典的生気論の中でのベアが果たした役割は二次的である。…目的論的な説明を採用する中で、ベアはダーウィン主義への反対陣営に加わった。 …彼の主張内容を、はっきりした考え方として切り出すのは、実に難しい。彼は、生命過程を有機的な構成の結果とは見なさず、『有機体それ自身が構成し変換するリズムとメロディー』と言っているのである。生命過程を『自身の体を自ら作り上げる創造的思考』と定義したり、型と特殊性との連関を彼は『調和とメロディー』だとするのだが、これなどは単なる比喩でしかない。 ベアは、刺激を『なにか初源的なもの』以上には明らかにしなかった。それは身体の構成から生まれるのではなく、『生命過程を完成させるもの』として、その上位に位置する。幸いなことに彼は、『良心』を『本能の最高形態』と呼ぶのである」140-1頁
「ハルトマンは、現代哲学の代表的人物であり、また、生気論の問題を考察する唯一の現代の哲学者である。…ハルトマンの哲学体系を一言で言えば、『生物学的』であることである。それは、生物学を基礎としており、形態形成、本能、そして人間行動における心理と物理の関係に関して、たいへん生気論寄りに生物学を解釈する型の哲学である。 …ハルトマンの理論は、生気論の歴史にとってはきわめて重要である。それは、要素的生命因子と無機的な因子との関係を明確にするために、生命の自律性の教義を厳格に適用しようとする最初の試みだからである。…ただしハルトマンの理論は、事実問題として生気論に直接関わるものではないし、生命についての機械論的解決が不可能であることを、厳格に示したわけでもない」147-9頁
「1894年に、[グスタフ]ヴォルフは、ダーウィン主義か目的論か、という問いに対する解決策として、明確に企画された実験を行なった。彼の目的は、生物が最初の発生過程において、いったん削除された器官を回復させるかどうかを確かめ、その回復がどうなされるかを調べることであった。この実験の積極的な成果として、『初源的終局性(primary finality)』が証明された。それは一方で、ダーウィン主義をばかげたこと(ad absurdum)と格下げにし、他方で、積極的適応という事実によって、重要な形で目的論を支持するものとなった。
実験は、イモリ(Triton taniatus)の眼からレンズだけを取り除くというものである。実験では新しいレンズが、虹彩の外縁から成長し再生された。それは、通常の発生に対する対応ではないにもかかわらず、問題の合目的性にとって最適な形でことは進行したのである。
かくして、初源的終局性は実証された」😅 161-2頁
「生物が保持する形態の調節の能力について、数年間、実験を行ない、1891年以来続けてきた発生生理学での実験結果を集成し考察を続けた結果、『調節(regulation)』概念についての論理的分析の結果と、『行動(action)』概念を結びつけることで、私[ドリーシュ]は意見をすっかり変え、生気論を完全な体系へと完成させてきた。
すでに1895年に私は、『行動』の問題の分析から、生気論が必然であることを確信するようになった。…1899年の初めに『形態形成の現象における定位 生気論的現象の証拠』…これは、生命の過程は少なくとも、それ自身の法則に従う、動的目的論的な、自律的なものとしてはじめて理解可能であることを明確に論じた、最初の著作である。
…1903年の私の著作、『要素的な自然要因としての「魂」』…において、私は、人間の行動を客観的な運動現象として分析した」164-5頁
「1899年に、パウル・ニコラウス・コスマンが『経験的目的論の要素』…を出版した。…この本は、目的論概念の論理的な定義の枠組みを特別に設定しており、そのため、カントの『判断力批判』といくつかの接点をもっている。
…彼によれば、因果性は普遍的であるが、それだけで妥当性をもつわけではない。彼はこれに、判断の公理として目的論を併置する。そこでは必然性がこれに連動して扱われる。なぜなら必然性の理想は、因果性のそれよりもはるかに大きいからである。一般的形式はこうである。C(原因)=f(E)(効果)、これで因果理論は充分である。『原因』と『効果』という言葉は、ごく一般的な意味で、考慮対象となるすべてのもの全体を要約したものとして用いられる。目的論は、このように形式化される。M=f(A, S) ここで、Mは媒体を、またAとSは、仮定と結果を意味する。
…コスマンは、『生気論か、機械論か』の問題を解決できなかったとしても、少なくとも積極的な意味で、単なる偶然によっては説明できない、生気論的目的論の深い重要性に、決定的な評価を与えた」165-6頁
「可能な変化の進行を留保したり解除したりすることは、個体化因果性を担うものの『作用(action)』様式であり、以後、われわれはこれを、エンテレキー(entelechy)と呼ぶことにする。この名称は、アリストテレス形而上学の用語としてよく知られているが、ここでの用法は、厳密にはアリストテレス哲学のそれに従ってはいない。 …エンテレキーの作用は、与えられた可能性の留保というかたちで存在するという、われわれの理論によってはじめて、従来の古典的生気論(そして現代生気論の多く)が陥っている、きわめて深刻な誤りを回避することができる。これまで生気論に対しては、発生や適応で生物は実際には限界があるのに、生気論の学説に従うと、全能のものになってしまう、という反論がなされてきた。しかし、われわれの理論に従えば、この『調節能力の限界 limits of regularabliity』はこう解釈できる。つまりそれは、エンテレキー作用が働きかけるところの、一定の前形成されている物質的条件に拠るのだ、と」190-1頁
「エンテレキーが物質次元の生成の進行を留保していたのを解除し、1つ可能性を現実化させる、とわれわれが言うとき、力学的な意味における生成の障害がエンテレキーになって取り除かれる、とわれわれは言っているのではない。このような力学的な意味における解除(Auslösung)は、エネルギーを必要とするが、エンテレキーは定義によりエネルギーではないのである。エンテレキーは、ただ、それが可能な状態にあれば、それ自身で現実へと進行しうるものを許すだけであり、単純に物理化学の影響の結果としてなる状態のことではない。
自然の中におけるエンテレキーによる留保の起原を語るのは無益である。つまり、<生命の起原>を語るのは無意味である。この問題に関して、われわれが、何か明確な発言をすることは絶対不可能であり、同様に、<死>(death)の意味についての議論も意味がない」192頁
「自然に対して、全体性概念は認めるが統合化因果性を認めない理論的立場は、生命的自然だけを念頭におけば、自然の<機械説>(machine-theory)と呼ぶことができる。この機械説は、自然(もしくは生命)を単なる偶然領域に属すると考えることについては、すでに反対の立場にある。
そしていまや、生気論として、生命は単に偶然の領域のものでないだけではなく、機械説をもっても把握しきれない現象であることを示しうる地点にまで到達した。
生気論のすべての<証拠>、つまり、機械説をもっても生命現象の領域は覆いつくせないことを示す合理的な根拠づけは、間接的証拠によってのみ可能である。それは単に、力学的もしくは単純因果性では、生じている現象の説明としては充分でないことを示しうるだけである」194頁
「実験分析発生学——ルーが名づけた発生力学——の成果は、以下のことを明らかにした。多種の発生初期の器官や一部の生物では、実験によってどの細胞群を取り除いても、その残りの部分が、小さくはなるが正常なミニチュアへと発生しうる場合が存在しうる、ことである。換言すれば、実験的に残された発生初期の器官や生物の部分から、生体の一部分が発生するのではなく、小さいけれども体の<全体>が発生する事態を予想してよいのである。私は、この型の器官や生物を表わすのに<調和等能系>(harmonious-equipotential system)という名前を提示した。このような系では、すべての要素(細胞)が同じ形態発生的『潜在能(potency)』を保有しているはずである。…しかもこれらの要素は、毎回の実験でともに『調和的』に作用する。この等能性と調和的作用を根拠にしてはじめて、実験結果は、現に起こったようなものとして、説明が可能になる。
発生初期の器官の中では、初期段階の卵割や胚葉系が、この調和等能系の例である。
…動物成体はすべて、さまざまな度合いで回復(もしくは再生)可能、つまり、傷を負ってももとの形態を回復できるから、調和等能的であると言える」194-5頁
「ベルナールは、『生命の計画』を認めるが、『生命原理による介入』は認めない。後者の『生命力』は最大限、『規制する力』としては認めるが、『執行する力』としては認めない。これは静的目的論のように聞こえる。 だがその後、こう言っている。『生命力とは、みずからが産出するのではない現象をも支配する。物理的要因は、みずからが支配するのでない現象をも産出する』。これは生気論的な主張に受けとれる」123-4頁