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Driesch, Hans. (1914) The History of Vitalism.
=2007 米本昌平訳『生気論の歴史と展開』書籍工房早山

先に訳者解説——
「有名なヘッケルの法則とは、正確には、自然分類と等値のものである系統樹と、個体発生と、系統発生との、三重の並行関係を主張するものである。それゆえに根本法則であったのである。
 しかしこれは見方を変えると、個体発生の原因は研究者にとっては操作不可能な(あるいは実験的に操作しようなどとは思いもよらない)、系統発生的・進化論的な時間に支配されているものであった。ほんらいの意味での個体発生の原因が追求されるようになるには、系統発生的因果関係から因果概念のみが、濾し取られる必要があった。この知的作業を体系的に行なったのがウィルヘルム・ルー(1850〜1924年)である。彼はその成果を発生力学(Entwickelungsmechanik)として提唱した」322頁

500文字制限だとたくさん書けますなあ…まだまだ字数が残ってます😅

「調和等能系は典型的なエンテレキー体系である。エンテレキーは物質でも力でもエネルギーでもない。エンテレキーは空間中に存在するのではなく、空間以外から空間の中へ全体的、合目的的に作用するものである。これはいかにも非合理な主張のように見える。しかし、先入観なしにドリーシュの諸著作を読んでいくと、彼は今日言うところの情報概念に近いものを見つけていたのであり、エンテレキーとは情報を空間中へ供給し、その支配下にある対象を制御する作用因であると解釈できることがわかる。彼の用語の中で、今日の情報概念に相当するものは『多様度(Mannigfaltigkeitsgrad)』である」327-8頁

「熱力学第2法則の解釈問題は、当時の物理学者の間でも、力学的自然観が不完全であるか否かという論争に連なる中心的問題であった。これを象徴する事件が、1890年代のボルツマンとオストワルドとの原子論論争であり、これは、若いドリーシュが思索をめぐらしていた時期と重なっていた。ドリーシュは唯物論(Materialismus)という言葉を、自然現象すべてを究極的には原子の力学的運動をもって説明しようとする立場の意味で用いているが、この言葉使いはオストワルドと同じ用法である。オストワルドのエネルギー一元論が、ドリーシュが生命現象における物理・化学還元主義を否定し、秩序(エンテレキー)一元論へと進んでいった時、思考の型の先行モデルになったとも考えられる」330-1頁

「力学が個々の原子の運動は記述しても、多くの原子の相互関係については何ら言及せず、かえって熱力学が示すようにバラバラな運動のみを許す、つまり現実の三次元空間を統御すると考えられた物理学的世界像が、世界の『無意味性(Sinnlosigkeit)』をのみ意味するとしたら、この世界に現に存在する秩序、多様性、個体性、意味、目的性は、どこからどのようにして与えられるのか。ドリーシュは、この巨大な難問にとり組むことに一生をささげたのである」331頁

「生物の発生は、たしかにルーの言うように、見えない多様性が見えてくる過程であると定式化することができる。ここにも自明性の原理が適用されるとすれば、少なくとも見えてきた多様性に見合うだけの多様性が、あらかじめどこかに存在していなくてはならない。古典力学が占有する三次元の『現象空間』にこの多様性の起源が組み込みえず、むしろこれを積極的に拒否するようにみえるとすれば、もはや空間以外から空間の中へ供給される以外には考えようはない。それがエンテレキーである。秩序そのものであり、これを供給・制御する因子であるエンテレキーは、いまだ発現していない内的エンテレキーと、顕現した外的エンテレキーとがあることになる」332頁

「ルー=ワイズマン[ヴァイスマン]学説を広義の機械説として却下したドリーシュであったが、受精卵の核の中にあらかじめ存在しているとしていた多様性の根源を空間外に求めたという点で、ワイズマン仮説を『非空間化』したものでもあった」333頁

「ドリーシュの体系の中で、秩序の根源であるエンテレキーはつまるところ、イデー的な存在となる。彼はエンテレキーという言葉をアリストテレスから借用し、またアリストテレスを最大の古典的生気論者と評しているため、アリストテレス的な哲学者と思われがちである。しかしその哲学の骨格はむしろ、プラトン的である。彼の哲学とは、世界のすべての秩序を包含するイデー的な存在としてのエンテレキーと、ランダムな存在のみを許す古典力学との葛藤として、いっさいはたち現れ、具体的な『個体性』を獲得する、というものである」334頁

「『有機体の哲学』の成功によって、ドリーシュは1910年代〜30年代における生物学的思想と哲学一般に、無視できない影響を与えた。哲学的な広がりについてここでは詳述しない。動物学者のヤコブ・フォン・ユクスキュルの名前だけをあげておく。…そもそも、ドリーシュの独我論と現象学とは、その哲学的な姿勢がよく似ており、フッサールはこの本[『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』]の冒頭で、ドリーシュとまったく同じ意味でエンテレキーという言葉を使用している。『人間性そのもののうちにエンテレキーとして本質的にふくまれていたものが、ギリシャ的人間においてはじめて発現するにいたったのではないのか、が決定されるであろう』」337-8頁

「戸坂[潤]は、ドリーシュの新生気論を詳しく紹介した後、その結びで、『有機体には無機物とは質的に異なった性格がそなわっており、したがってそこには固有な法則(自律性)が支配する。この質的相違が生物の合目的性として、われわれの問題になってきたのであった』…としている」339頁

ハンス・ライエンバッハ「何よりもわれわれは、ドリーシュがエンテレキーなる概念の導入によって彼の実験に与えたところの形而上学的説明を、まったく支持できないものとして否定しなくてはならない。エンテレキーとは、有機体の発生の目的規定性を因果的因子と同じような意味において、もち上げるよう作為された、欺瞞的構成物以上の何ものをも意味しない」341頁

「結局、ベルタランフィは『エンテレキー抜きのドリーシュ』という生命観を語ることに徹することで、知的社会の中での正当性を得るのに成功していった」343頁

「エルヴィン・シュレデインガーは、名著『生命とは何か』(1944年)で、『生命は負のエントロピーを食べて生きている』と表現して、課題のありかを指し示した」344頁

「いわゆる生気論者が問題にしたのは、エントロピー拡大をするエネルギーの第2法則に関してであり、情報量が負のエントロピーとして定義されたことで、現在から見ればこの問題は決着をみたことになる。エンテレキー抜きの生命観を展開したベルタランフィは、より一般的な理論化をめざした『一般システム論』(1968年)を提唱することになる」344頁

「彼[フランシス・クリック]は、1966年に遺伝暗号表の解読がほぼ終わったのを見届けると、新たな課題を求めて脳研究へと移っていった。これと同時に彼は、猛烈な生気論批判を開始した。『正確な知識は生気論の敵である』という一文で始まるクリックの書、『分子と人間(Of Moelcules and Men)』(1966年)の主張は、きわめて明快である。彼はここで、生命現象のあらゆる次元で、物理・化学で説明しえない部分をいささかでも認めようとする同時代人の見解いっさいを、生気論と裁断し、非難したのである」345頁

脳研究に移ったクリックが見出したのが、若きクリストフ・コッホですた

Driesch, Hans. (1914) The History and Theory of Vitalism, Macmillan.
=2007 米本昌平訳「生気論の歴史と理論」1-226頁

「生気論の主たる課題は、生命の過程が合目的的(purposive)であると言うことは、正しいのか、にあるのではない。そうではなくて、生命の過程における合目的性が、無機的科学にとっては既知である要素の特殊な配置の結果であるのか、それともそれ自身に特有な自律性(autonomy)の結果であるのか、という点にある。というのも事実問題として、生命現象に合目的性が大いに存在することは、目的の概念定義そのものと、この定義を生物に適用することから、直接的に演繹されることだからである」xiii

「私は、合目的性を、大半の動物の運動、それが実際に行動と呼びうる一群の高等動物のそれらに対してだけではなく、本能や反射などその固定性から普通は行動とは言わないものまでに広げる。…
 こうして最終的には、何らかの意味で目的をもち、ある一点に向かっていると見なしうる、純粋に記述的な概念である合目的性の下に置くことができる、生命現象のすべてを把握することになる」xiv

「ある過程を合目的的と表現するためには、目標の概念と連動している必要があること、目的論の概念はさまざまな過程に拡張されること、そしてその拡張は生命現象に限られること、少なくとも狭義の自然対象に関わるものに限られること、である。なぜなら、目標が存在することを任意に仮定しうるのは、もっぱら生命に関係した場合であり、ともかく限定条件をつけずに考察できるからである」xv

「静的目的論(static teleology)と動的目的論(dynamic teleology)…
 静的目的論は、有機体の力学説(mechanistic theory)に基づいた立場である。これによると、生命過程やその秩序は、他のいたるところに妥当する法則による、世界の一般的秩序の特殊なケースに過ぎない。その集合体のそれぞれすべての要素は、自然の同じ要素から偶然そう成り立っているのであり、それらの過程はまとまって結果的に『生命』となっている。この見解に従えば、生命とは単なる組み合わせに特徴があるのであり、何か特殊な法則性によるものではない。…
 動的目的論はよく言われているように生気論(vitalism)の立場をとる。この立場は『生命過程の自律性』の認識に向かう」xvii

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