さすがの私だって世界の理屈は知っているから、どんなにやり直したって太陽は元の位置に帰ってくれないし道行く人も戻ってきてはくれないし、要するに完璧なやり直しなんて不可能だと知っている(マジで影が変わったからやり直しとかする)。そんなことはとっくの昔に知っているんだけど、それでもやり直しが、というかやり直すことすらできない自分はダメなのだ。できるだけ完璧を取り返して満点にしなきゃいけない。
これが高じて満点のために自分でも無意味なやり直しを疲れ切ってどうでも良くなるまでやらないとどうしても許されないと…思い込んでいるというよりそういう理であるのが強迫のパニックで、もう少しモデレートだと「しにたい」なんだろうな。
で、その失敗の中には「お財布忘れた」みたいな誰が見ても失敗なこともあるけど、「恥ずかしい記憶を思い出してしまった」とかもあるわけ。思い出してしまったことを消去するために儀式をするとその分世界が動いてしまっている、みたいなことを、物心ついたときからやっているわけ。
ってことは取り返し欲求と消去欲求で消去欲求が強まると希死念慮で薄まると「しにたい」なんだろうな。なんかいい感じに薄まってるんだとしたら、逆にこれは回復の一種なのか?
取り返し欲求の究極であるパニックと消去欲求の究極である希死念慮が両方とも減って「しにたい」になるのだとしたら、それはなんかむしろ寛解というか…すごく正常に近い。ただ元がズレズレのズレから始まってて、私は人並みに不安のない生活も強迫がない生活も知らないから、普通の人なら希死念慮に片足突っ込むようなところが回復終端みたいな…。だとしたらやはりこれは死にたいの一種なのだろうし、それ以外には言えないわなあ…