ちょっと考えて仮説、私の実態のわからない「希死念慮ではないしにたい」は「自分の存在を許せず消えて欲しい」なんじゃないかなと思った。
今日はお天気が良い中で家を出てコンビニまで行ったところでお財布を忘れたことに気づいてしにたいと思って、戻って出直すときに当たり前だけどさっき前を歩いていた小学生はいなくて別の人が犬を散歩しているからまた少し思った。思い通りに行かなくて「残念」なんて言葉では到底足りず、でも「台無しになった」だと主語が違うなと思って。完璧なお出かけにできなかった自分が存在に値しなくて、やり直しすらマトモにできないから価値がないことを証明してしまったみたいな。
でも仮にそうだったところで、それを一言でどんな気分だと言えばいいのかはやっぱり分からない。(自分が)しにたいor(自分に対して)しね、みたいな話になっている。
取り返し欲求の究極であるパニックと消去欲求の究極である希死念慮が両方とも減って「しにたい」になるのだとしたら、それはなんかむしろ寛解というか…すごく正常に近い。ただ元がズレズレのズレから始まってて、私は人並みに不安のない生活も強迫がない生活も知らないから、普通の人なら希死念慮に片足突っ込むようなところが回復終端みたいな…。だとしたらやはりこれは死にたいの一種なのだろうし、それ以外には言えないわなあ…