ちょっと考えて仮説、私の実態のわからない「希死念慮ではないしにたい」は「自分の存在を許せず消えて欲しい」なんじゃないかなと思った。
今日はお天気が良い中で家を出てコンビニまで行ったところでお財布を忘れたことに気づいてしにたいと思って、戻って出直すときに当たり前だけどさっき前を歩いていた小学生はいなくて別の人が犬を散歩しているからまた少し思った。思い通りに行かなくて「残念」なんて言葉では到底足りず、でも「台無しになった」だと主語が違うなと思って。完璧なお出かけにできなかった自分が存在に値しなくて、やり直しすらマトモにできないから価値がないことを証明してしまったみたいな。
でも仮にそうだったところで、それを一言でどんな気分だと言えばいいのかはやっぱり分からない。(自分が)しにたいor(自分に対して)しね、みたいな話になっている。
さすがの私だって世界の理屈は知っているから、どんなにやり直したって太陽は元の位置に帰ってくれないし道行く人も戻ってきてはくれないし、要するに完璧なやり直しなんて不可能だと知っている(マジで影が変わったからやり直しとかする)。そんなことはとっくの昔に知っているんだけど、それでもやり直しが、というかやり直すことすらできない自分はダメなのだ。できるだけ完璧を取り返して満点にしなきゃいけない。
これが高じて満点のために自分でも無意味なやり直しを疲れ切ってどうでも良くなるまでやらないとどうしても許されないと…思い込んでいるというよりそういう理であるのが強迫のパニックで、もう少しモデレートだと「しにたい」なんだろうな。
で、その失敗の中には「お財布忘れた」みたいな誰が見ても失敗なこともあるけど、「恥ずかしい記憶を思い出してしまった」とかもあるわけ。思い出してしまったことを消去するために儀式をするとその分世界が動いてしまっている、みたいなことを、物心ついたときからやっているわけ。
ってことは取り返し欲求と消去欲求で消去欲求が強まると希死念慮で薄まると「しにたい」なんだろうな。なんかいい感じに薄まってるんだとしたら、逆にこれは回復の一種なのか?