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前にもちょっと書いたことがあるけど、昔、大学院のときの課題で、『シーラという子』と『タイガーと呼ばれた子』を読んで、トリイがやったことをどう考えるかについて、まぁ感想文のようなものを書くという課題を斎藤学さんに出されたことがあった。

シーラは幼児期に実父に酷い性虐待を受けていて、就学前に自分よりも幼い子を殺しかけるという犯罪も犯している少女(確か殺してはいなかった気がする)で、トリイは小学校の「情緒障害児」のクラス担任として彼女を受け入れ、彼女の傷つきや怒りに真正面から取り組んで、シーラは少しずつ心を開いていく…という実話ベースの小説。

でも、教育委員会やら何やらの公的教育機関の再編成と、トリイ自身の自分の将来の計画などが相俟って、シーラと出会って1年で、トリイはシーラに別れを告げる。

『タイガーと呼ばれた子』の方は、それから何年か経って、シーラがトリイに再会する話。

成長してティーンエイジャーになっていたシーラの記憶では、トリイはシーラを高速道路で車から降ろして捨てたことになっていた(実際に幼児の彼女にそれをやったのはトリイではなく彼女の母親だったのだが)。

斎藤学さんの課題では、確か「トリイがしたこと(1年でシーラの元を去ったこと)についてどう考えるか(その是非も含め)」というのと、「何故トリイが高速道路で彼女を捨てたという記憶の書き換えが、シーラ(=タイガー)に起きたのか」ということだった気がするのだけど、当時の私はどちらもよく理解できずに、分からないから、適当なことを書いて字数を埋めて課題を提出した記憶がある。

今の私はどう考えるかと言えば、

前者の問いについては、

もちろんシーラの傷つきはとても深く、そのシーラにやっと心を開かせたところで、急に彼女の前から姿を消すということは、可能な限り避けた方が良いというのはあるけれど(そのために私は急な移動とか施設の閉鎖とかのない開業を始めたようなところもある)、

人生には止むに止まれぬ別れが必ずあるものだし、シーラのためにトリイが例えば自分の夢を諦めるみたいなことも違うと思うのと、

あと、たった1年だったけれど、シーラは(劣悪な環境の中で生まれ育ってはいたけど、ポテンシャルのとても高い子だった)その間にトリイとのお別れのモーニングワークもある程度までちゃんと経験できていた(『星の王子さま』のクダリなど。トリイもそれに付き合ってきちんと受け止めてあげていた)ので、ひとつの区切りまでは終えることが出来ていたんじゃないかということだろうと思う。

そのモーニングワークは、決して十分なものではなかったので、その後、シーラはトリイを忘れられずに、それが『タイガー…』の物語に繋がるわけだけれど。

しかし、シーラが綺麗さっぱりトリイのことを忘れてしまって、愛着対象としてのトリイを完全に失ってしまった(互いに心の底から本気でぶつかりあった2人の1年間の努力が水の泡になった)ということではなかった。

曲がりなりにもシーラは喪の作業を途中までは行えたことで、彼女は心の中に自分とは多少なりとも分離した転移の「対象」を持つことが出来たから、その後の数年間をその対象への恨みや怒りを抱えながら生き延びた。

人生に於いて、何よりも大事なのは、寧ろ「お別れをいかに体験するか」…だから。

斎藤学さんの問いの、後者について言えば、

…とは言え、何年か後に再会したシーラ(=タイガー)」は、記憶の書き換えをして、「非情にも高速道路で幼い彼女を捨てて去っていったのはトリイだ」と信じていた(つまり激しい陰性転移が起きていて、それが現実との区別もつかない状態で何年もシーラはトリイを恨み続けていたことが、2人が再会したときにトリイには分かった)。

今の私は、このことを、あの1年間の2人の関係が、シーラのトリイへの愛着の感情を育てた結果だと思っている。

愛着する相手をちゃんと「1人の人間」に特定出来ない人は、「誰かを恨む」ことすらできない。何年も心に抱いて恨み続ける対象として、トリイはシーラの心の中で生きていた。実の母親よりも鮮明に。

そのような対象を心に持ち続ける能力が、その能力の持ち主の心をひとつの塊としてまとめることを可能にしてその人の人生を支えて生かし続ける。

一番悲惨なのは、そんな対象さえ心の中にまともに像を結ばない状態の心だ。

私はいつも思うのだけど、心理士の仕事って、そうやって恨まれる対象を引き受けることなんじゃないだろうか。

だから、結局、面接を最後(終結)まで続けることが出来ずに中断してしまう人たちに対しては、せめて心の片隅にでも、私への憎しみや恨みの感情を、忘れずに持ち続けられるようにしてあげられたとしたら(ふとした瞬間に思い出してムカムカするとか)、ちょっとだけ何か貢献した気持ちになれる。

そのために出来るだけ、中断の場合には最後にいい関係にしてまとめて終わりにするみたいなことをしないようにしている。せめて、それが私が彼らからもらったお金への対価としての、私にできる最後のサービスと思っている。

中断ではなく、終結まで面接を続けられた人からは、最終的には「上手く捨てられる」のが、私の仕事のような気がする。

しかし、子の側が「上手く捨てる」ことが可能になるためには、子はサラッとハナから存在してなかったかのように忘れてしまうのではダメで、自分勝手に別れを嘆き悲しむ主体をやれるかどうかが重要だ。

存分に「別れたくない」とワガママを言いダダをこね、別れの悲しみを誰憚ることなく体験し表現できて、初めて人は最終的にその別れを受け入れられるのだと思うので。

そのためには治療者の方が変に執着したらダメだろうし、悲しむ主体の座を治療者が奪い取ってはダメだ。

同時に、何度も繰り返して襲ってくる波のような悲しみを受け止める。決して突き放したり、距離を取って感情を切り捨てた存在になってしまってはダメだ。哀しみの中に一緒に佇み続けて、本人が納得できるまでそばにいる。本人が自力で納得できる瞬間は必ずくることを信じて。

良い親(良い治療者)って、親(治療者)としての仕事を上手くこなせた親(治療者)って、そういうものなんじゃないか。

待つこと、恨まれること、(何の罪悪感もなく)(いつしか自然にサラッと)捨てられること。

これが親の(つまり面接では治療者の)役目の3点セットなんじゃないかと私は考える。

ひっくり返して言えば、子の立場では、親を「待たせて、恨んで、いつしか忘れる」ことが出来れば、その子どもは、ちゃんと親を“使用”して(ウィニコット的な意味で)、成長することに成功したと言えるのではないか。

自分が自分の親(治療者)にそれを十分にやってきた人は、自然にそれを自分の子ども(患者、クライエント)にも、無理なく提供してそこに喜びさえ感じられるのではないか。

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